Anne Burns on developments in language teacher education
私の教師認知の研究は、 言語教師認知(language teacher cognition)の研究です。それも、言語教師のこころの研究です。発端は、日本の英語教師の仕事が、英語を教えることに集中せず、学校のさまざまな仕事や日本における暗黙の教育文化にかかかわり、生徒の考え方や行動の仕方のいわゆる「全人教育(the whole person education)」を基盤として、授業中、生活態度、服装、規律など、さらには、学校以外の生活や部活動などのさまざまな部分にまで、教師の仕事の範囲が広がっている点を検証したかったことです。
また、他の国の英語教師や他の言語の教師の仕事が、基本的にその言語の指導に集中し、それ以外のことは、また担当する別の教師が行い、職務が明確であり、言語を教えることの力量形成、教師の成長にあり、そのための教員研修や研究が比較的わかりやすくなっています。それに対して日本は、英語教師が英語教育の向上に集中できず、授業にばかりかかわっていると、学校の働き方からは逸脱するような歪んだ方向になっている傾向もあり、熱心な教師が職場を去ることも少なくなかったように思います。
英語の教師が、本務である英語授業に集中できず、部活動などに力を注ぎ、授業内容の向上よりはそちらが本務のような活動に終始したり、あるいは、あまりにも狭い世界に入り、独自の指導方法に固執し、生徒を一つの方向性に導くような指導、いわゆる「カリスマ教師」となる場合など、一人ひとりの教師が何を目指して教師を続けるのかに悩んでいる姿があり、その問題を明確にしようと考え、教師認知の研究を始めました。
かなり多くの英語授業を見学し、多くの先生と話をしました。それにより、日本の英語教員養成や研修が行き詰まっている感じを持ちました。一つは、英語教育の目標が必ずしも学習指導要領が目指す目標とはなっていないし、目標も不明確で何を目標に英語を教えるのかが、多くの英語教師がわかっていない、あるいは、目標がそれぞれの先生によりバラバラだということです。それに対する評価なども実に不明確です。要するに、専門性がほぼ無いに等しいのです。
ある時期、「英語教師の英語力に疑問が投げかけられ、英語教師は英語が話せない。もっと授業で英語を使うべきだ」ということで、英語教師が授業を英語を使って指導しているかどうかを査察することが実施されました。結果は実に歪んだことになり、英語教育がよい方向に変わることはありませんでした。結局多くの教師の指導は、受験を目的とした指導となり、受験とは関係ない生徒は排除されていったのです。批判されても、英語の知識と技能の向上に、英語授業の目的がシフトし、本来のコミュニケーション能力の育成から程遠い方向に向かっています。
私は、その教師認知研究のプロセスの中で、せめて英語教師のマインドセットを変えたいと思い、CLIL(Content and Language Integrated Learning)(内容と言語を統合した学習)の発展と普及に関心を持ち、現在の余生を送っています。しかし、それほどうまくいきません。教師の認知は変わらないのです。これには複雑な要因があり、ここでは説明できません。どんなに学習指導要領をいじっても、また、教職課程を変えても、おそらく変わらない大きな障壁が日本の英語教育にはあります。少し言い過ぎからもしれませんが、現在の不登校などの問題も少なからず関係しているような気がします。
取り止めもない雑文で今回は失礼します。あとで時間があれば整理しますが、書きなぐりがこの日記の特徴です。本日で166の投稿です。
雪は降る 明治に積る 雪は降る