2025年1月31日金曜日

Don’t worry, be happy 2025年1月31日(金)

Don’t worry, be happy という歌がだいぶ前に流行りました。Bobby McFerrinという人が歌っています。この歌はreggaeでBob Marleyも似たような歌を歌っています。詳しいことは私は知りませんが、このフレーズは、また、Meher Babaという何年も話さなかった有名なインドの教祖(guru)が言っていた言葉だそうです。いずれにしても「Don’t worry, be happy」というフレーズは簡単で気楽な感じで、自分の生き方にもピッタリです。

歌詞も単純でとてもいいです。いろいろなバージョンがあるので正確なものはよくわかりません。アドリブでみなさん歌っているようです。多くの人がカバーしています。

Here's a little song I wrote

You might want to sing it note for note

Don't worry, be happy

In every life we have some trouble

But when you worry, you make it double

Don't worry, be happy

Ain't got no place to lay your head

Somebody came and took your bed

Don't worry, be happy

The land-lord say your rent is late

He may have to litigate

Don't worry, be happy

Ain't got no cash, ain't got no style

Ain't got no girl to make you smile

Don't worry, be happy

'Cause when you worry your face will frown

And that will bring everybody down

So don't worry, be happy

Let the smile on your face

Don't bring everybody down like this

Don't worry, it will soon pass

Whatever it is

Don't worry, be happy

I am not worried, I am happy

昨日は、若い人の自殺について書きました。この歌は、辛いことがあり、悩んでしまう人には響かないかもしれませんが、視点を変えると、結局こうなるような気がします。考えても、悩んでも、辛くても、悲しくても、誰かに相談しても、自分で解決するしかないです。自分でどんなに考えても問題はそう簡単に解決しません。世の中はそんなもんです。Don't worry, be happy です。

昔、統合失調症(Schizophrenia)と診断された学生と話したことがあります。医者からたくさんの薬を与えられ、それを服用しています。基本的に頭をボーとさせる薬です。少し調子がよいということで、私と授業のことで話しました。授業には出られないということを私に伝えにきたのです。何を話したか覚えていませんが、「あまり薬を飲むとよくないですよ」と話したと思います。あとは雑談です。その後どうなったかは知りません。私には何もできないし、専門家の医師にかかっているので私は何の役にも立ちません。Don't worry, be happy です。

ちなみに、統合失調症は次のように説明されています。

Schizophrenia is a serious mental health condition that affects how people think, feel and behave. It may result in a mix of hallucinations, delusions, and disorganized thinking and behavior. Hallucinations involve seeing things or hearing voices that aren't observed by others. Delusions involve firm beliefs about things that are not true. People with schizophrenia can seem to lose touch with reality, which can make daily living very hard. People with schizophrenia need lifelong treatment. This includes medicine, talk therapy and help in learning how to manage daily life activities. ー Mayo Clinic

長い間教師をしていると、いろいろな生徒や学生や保護者の人と会います。若い頃は、相談があると何とかしなくては思い、いろいろと関与して、かえって悪化させたことが何度もありました。「こころの問題は、こころで解決してやる」と息巻いていた頃もありました。多くの本を読んで勉強したこともあります。しかし、何も役に立たず、力になることもできなかったと思います。うつ病やうつ状態(depression, mood disorder)の人は必ずいます。よく言われる、傾聴に徹するようになりました。つまり、Don't worry, be happy です。

何かあるとこの歌のフレーズを思い出します。


1月も もうすぐ終わり 福はうち 




2025年1月30日木曜日

若い人の自殺 / suicide among young people  2025年1月30日(木)

Rising global suicide rates highlight need for youth mental health support

「このビデオには、自殺や自傷行為のトピックが含まれている可能性があります。ご自身の責任において視聴してください」と説明が入ります。

厚生労働省が発表した暫定値では、2024年の自殺者は全国で20,268人で少し減少したそうです。やはり男性が圧倒的に多く、13,663人、女性は6505人です。小中高生の自殺者数は、527人と最多となっているということです。527人という数字がどうなのかということは、よくわかりませんが、増えているということは問題でしょう。

世界的にも、年齢の幅は違いますが、次のように問題視しています。

Suicide occurs throughout the lifespan and was the third leading cause of death among 15–29-year-olds globally in 2021. - WHO

Suicides among young people continue to be a serious problem. Suicide is the second leading cause of death for children, adolescents, and young adults age 15-to-24-year-olds. The majority of children and adolescents who attempt suicide have a significant mental health disorder, usually depression. - The American Academy of Child and Adolescent Psychiatry 

Suicide is the leading cause of death among Australians aged 15–24 years. - Australian Institute of Health and Welfare

原因は様々で一概には言えませんが、日本においては少子化の傾向が顕著で、移民も受け入れない国では、若い人が、メンタルの問題で自死を選択するというのは悲しいなと思います。

私の年齢でははるか昔ですが、自殺しようと思ったことは幸いありません。親に殴られても怒られても、いじめのようなことがあっても、学校などは行かなくても、貧乏でも、自分で死のうと思ったことはありません。が、「死」はずっと子どもの頃から考えていました。「死ぬとどうなるのか?」という問いは子どもの頃の方が強かったと思います。私の結論は、死は眠ることと同じで「何もない」ということでした。それがとても怖くて眠れないこともありました。「いまここで死んだら、もう食べることも、遊ぶことも、話すことも、何もできない:「意識だけがあったらどうしよう?」「意識はないし何もないから考えたってしようがない」というようなことを考え、何もなくなるということが恐ろしくしかたがありませんでした。

しかし、若いうちに死を選ぶということは、それもなく生きていることが辛いということです。それは可哀想すぎます。マスコミでは、相談できる場所を設置していると言っています。また、「第3の居場所」のようなものが必要だとも専門家が言っています。それでも、自殺する人が増えているということはなぜなのでしょうか?私にはわかりません。おそらく現在の社会(家庭も含む)の問題なのでしょう。物理的には、どう考えても昔よりは子どもにとってずっと住みやすい日本になっているはずです。問題の所在の多くは「こころ」です。若い人が気楽に相談できる雰囲気がないのでしょう。「いつでも相談していいですよ」と言われても、それを本当に解決してくれるのかは、信頼の問題です。信頼できない、頼りにできない、となれば、自分で解決するしかないのです。

自分で解決するためには、やはり身近な人との関係性が大切です。それが「第3の居場所」かどうかはわかりませんが、やはり周囲の人やかかわっている人とのコミュニティが機能しているかどうかがカギのような気がします。しかし、私の経験からすると、それが専門家やカウンセリングのマニュアルからは排除され、当事者の相談は周囲の人とは共有されない傾向にあります。個人情報保護や守秘義務などの関係から仕方ないのかもしれません。が、やはり当事者の周囲の身近な環境が最も大切で、当事者の身近にいる人は、ふつうに共有します。しかし、その共有は、専門家の相談が入ると「守秘義務」の対象となり、情報の共有が図られません。このようなことは、大学の教員の際に何度か経験しました。どんなに学生から相談されても、私には守秘義務が発生するので誰とも共有することなく、専門家に任せました。下手なことを言えば責任問題となるからです。

自殺者が、そのような閉鎖的な状況で増えるとは言えませんが、社会全体が、いわゆるコンプライアンス(compliance)(法令遵守)という名目のために、ガチガチになっていて、うまく機能していない可能性はないでしょうか?自殺しようという人にコンプライアンスと言っても意味はないし、「声を聴く」と言われても、聴くだけでは物事は解決しないでしょう。私の以前コロナの際に「相談電話」をしたことがあります。相手はただ聴くだけでしたので、途中でやめました。仕事上ただ聞いているだけで何の解決もないと判断したからです。別のことで職場のハラスメントも、ウェブの相談コーナーに投稿したこともありますが、意味はありませんでした。結局自分で解決するしかないという結論です。

自殺自体は世界的にも増えているようです。世界がそのような安定していない状況になっているようです。「漠然とした不安」というような、ユング(Jung)が提唱した集合的無意識(collective unconscious)かもしれません。

まとまりませんが、若い人が自殺することは悲しいです。どうしたらよいかわかりませんが、個人的にも何とかしたいと思います。目の前にいる若い人には、少しでも話しかけやすいおじいさんでいたいと考えています。


初日の出 いつもその気で 今日もまた


2025年1月29日水曜日

野菊の墓 / The tomb of the wild chrysanthemum  2025年1月29日(水)

   『野菊の如き君なりき』 製作ニュース


『野菊の墓』(伊藤左千夫著)をpodcastで聞きました。沼尾ひろ子さんという方が公開しています。たくさんの朗読があって重宝しています。他にもたくさんの朗読があり、こんなにたくさんの朗読を一人で提供しているというのはすごいと思います。ときどき読み間違いもありますが、気にしないで読んでいるところも、私は好きです。

『野菊の墓』は知っている話かと思いましたが、たぶん読んだことはなかったようです。まったくの思い違いをしていました。映画やテレビドラマにもなっているので、なんとなく知っていたとようですが、読んだと思い込んでいました。人間の記憶はほんとにあいまいで信用できないとつくづく反省しています。老害といいますが、歳を取れば取るほど頑固になると自戒しています。気をつけます。

さて、話は至極単純ですが、年寄りには新鮮で、誰もが同じような感情を小さい頃に持ったことがあると思う話です。普遍性のある内容ですが、ストレートにそれを書いているので新鮮でした。少年がちょっと年上のお姉さんに恋心を寄せ、思春期の淡い感情をそのまま持って生きていくという話です。民さんという女性は、物静かで、自分の意思は言わず、年頃になると嫁いで子供を産み家庭を守る、というような今では考えられない人生をふつうに受け入れていた時代です。流産から体調を崩して亡くなってしまい、政夫という少年は、民さんを思いながらも幸せにできなかったことを後悔して生きていくというストーリーです。

子ども向けにも美しい話なので、絵本などにもなっているのだろうと思います。が、舞台は松戸で矢切の渡しのあたりということも、私は知らず、演歌の「矢切の渡し」とも多少関係あるのかと思います。また、「野菊 (wild chrysanthemum)」というメタファーがとても印象的です。日本では、菊は仏事にもよく使われ、菊には愛着があります。野菊が墓には似合うのでしょう。

この話を聞きながら、自分の小中学生の頃を思い出しました。中学校の頃は誰もが同じだと思いますが、難波園子さんという人に片想いをしていました。その頃は毎朝牛乳配達のアルバイトしていて、彼女の家の近くにも配達していて、朝にでも窓から出てこないかなと思っていたのを思い出しました。姿を見るだけで嬉しかったような年頃です。その後大学生の頃に一度だけデートしたことがあります。彼女は働いていて、私は大学生でした。そのときに、近いうちに結婚すると言われ、淡い夢も壊れてしまいました。

50歳ごろになり、風の便りに、亡くなったと聞きました。事情はまったくわかりませんが、『野菊の墓』のようなきれいな話ではありませんが、ふっと思い出してしまいます。そんな切ない美しい話でした。


寒菊や 記憶は変わる 夢のよう 




2025年1月28日火曜日

研究1Teacher Cognition3  2025年1月28日(火)


私の教師認知の研究は、 言語教師認知(language teacher cognition)の研究です。それも、言語教師のこころの研究です。発端は、日本の英語教師の仕事が、英語を教えることに集中せず、学校のさまざまな仕事や日本における暗黙の教育文化にかかかわり、生徒の考え方や行動の仕方のいわゆる「全人教育(the whole person education)」を基盤として、授業中、生活態度、服装、規律など、さらには、学校以外の生活や部活動などのさまざまな部分にまで、教師の仕事の範囲が広がっている点を検証したかったことです。

また、他の国の英語教師や他の言語の教師の仕事が、基本的にその言語の指導に集中し、それ以外のことは、また担当する別の教師が行い、職務が明確であり、言語を教えることの力量形成、教師の成長にあり、そのための教員研修や研究が比較的わかりやすくなっています。それに対して日本は、英語教師が英語教育の向上に集中できず、授業にばかりかかわっていると、学校の働き方からは逸脱するような歪んだ方向になっている傾向もあり、熱心な教師が職場を去ることも少なくなかったように思います。

英語の教師が、本務である英語授業に集中できず、部活動などに力を注ぎ、授業内容の向上よりはそちらが本務のような活動に終始したり、あるいは、あまりにも狭い世界に入り、独自の指導方法に固執し、生徒を一つの方向性に導くような指導、いわゆる「カリスマ教師」となる場合など、一人ひとりの教師が何を目指して教師を続けるのかに悩んでいる姿があり、その問題を明確にしようと考え、教師認知の研究を始めました。

かなり多くの英語授業を見学し、多くの先生と話をしました。それにより、日本の英語教員養成や研修が行き詰まっている感じを持ちました。一つは、英語教育の目標が必ずしも学習指導要領が目指す目標とはなっていないし、目標も不明確で何を目標に英語を教えるのかが、多くの英語教師がわかっていない、あるいは、目標がそれぞれの先生によりバラバラだということです。それに対する評価なども実に不明確です。要するに、専門性がほぼ無いに等しいのです。

ある時期、「英語教師の英語力に疑問が投げかけられ、英語教師は英語が話せない。もっと授業で英語を使うべきだ」ということで、英語教師が授業を英語を使って指導しているかどうかを査察することが実施されました。結果は実に歪んだことになり、英語教育がよい方向に変わることはありませんでした。結局多くの教師の指導は、受験を目的とした指導となり、受験とは関係ない生徒は排除されていったのです。批判されても、英語の知識と技能の向上に、英語授業の目的がシフトし、本来のコミュニケーション能力の育成から程遠い方向に向かっています。

私は、その教師認知研究のプロセスの中で、せめて英語教師のマインドセットを変えたいと思い、CLIL(Content and Language Integrated Learning)(内容と言語を統合した学習)の発展と普及に関心を持ち、現在の余生を送っています。しかし、それほどうまくいきません。教師の認知は変わらないのです。これには複雑な要因があり、ここでは説明できません。どんなに学習指導要領をいじっても、また、教職課程を変えても、おそらく変わらない大きな障壁が日本の英語教育にはあります。少し言い過ぎからもしれませんが、現在の不登校などの問題も少なからず関係しているような気がします。

取り止めもない雑文で今回は失礼します。あとで時間があれば整理しますが、書きなぐりがこの日記の特徴です。本日で166の投稿です。


雪は降る 明治に積る 雪は降る




2025年1月27日月曜日

研究1Teacher Cognition2  2025年1月27日(月)

本日は、ずっと前に書いた私の主たる研究の教師認知(teacher cognition)の研究についてです。スタートは、ビデオに登場しているSimon Borg先生と話してから興味を持ちました。しかし、彼の研究は発端で、私の研究はかなり違う見方をしています。別の言い方では「教師のこころ(teacher kokoro)として研究しています。特に、言語教師について研究しています。が、教師の研究という多くは、教師を研究対象として研究することで、授業を見たり、インタビューしたりなどして、ときに批判的に研究したりします。 研究者が教師の意思決定や成長、悩み、職場、同僚などとの関係など、実態を調査して、報告する内容が多かったのですが、私は、そうではなく教師を応援する意味と、自分の探求を意図して、この教師認知の研究をしています。

「教師認知」という用語が心理学で使われていたので、使っていますが、適切ではありません。そこで「教師のこころ」として発表などをしていました。また、大学英語教育学会(JACET)という組織で「言語教師認知研究会」をスタートさせました。現在は、龍谷大学の長嶺先生が主で運営しています。しかし、teacher cognitionという研究はその後少しずつ変わっています。また、この類の研究はもともといろいろな名称を持って行われていたので、複雑でした。ましてや、言語教師 (language teacher)という括りも意外に多様で研究がむずかしい部分があり、一時と較べると、現在はあまり熱気がないような状況です。

世界的に教師の不足、多忙などが課題で、言語を教える指導法も、第二言語習得の研究も大きな進歩はなく、コミュニケーションを重視する指導(Communicative Language Teaching)以来、コンピュータやAIの発展により、教師よりは学習の方に注目が集まっているように思います。その関係もあり、バイリンガル教育などが盛んになっています。教師教育や教員養成は多くの国で目新しいことは、この何年もありません。

しかし、教師という仕事は複雑で、さまざまな要素があります。教師の種類も多彩で、幼児から大人まで、小中高大などの学校段階、現状はオンラインが盛んになり、教えるや学ぶ形や質が流動的です。私は、言語教師を研究してきました。言語は、英語、日本語、中国語、韓国語、フランス語などの主要な言語を対象として、地域も、日本、アジア、ヨーロッパが中心です。すべてをカバーできません。主たる言語は英語です。それも、日本の小中高です。その状況とその他の国の英語教育と比較してきました。その過程で、CLIL (Content and Language Integrated Learning)(内容と言語を統合した学習)に出会い、少し実践研究の面で方向性が変わり、CLILの実践的な推進を余生の主たる仕事としています。

それとともに、教師を研究するのではなく、teacher research(教師がする研究)に興味を持って、その研究手法に関心を持っています。ビデオは、Warwick UniversityのRichard Smith先生のteacher researchの説明です。世界では多くの人が推奨していますが、日本ではあまり浸透していません。現在の研究や実践はすべてteacher cognitionから始まりました。teacher cognitionは、単純に言えば、「教師が何を信じて、どう考え、どう行動し、どのようにふりかえるか」というプロセスの探求と、私は定義しています。何のためにそれをするのかというと、「教師自身のビリーフ、思い込み、知識や技能に対する思考などを確認し、どのようにそれをよい方向に持っていくかを自身で把握し行動すること」と考えています。

これによって、私自身は、自分がどのような人間で、どのような思考パターンがあり、多様なあり方をどのように柔軟に考え、学習者のためにどう行動し、自分自身をどのようにふりかえるかが、以前よりは自然にできるようになりました。この日記もそうです。誰かに読んでもらうとか、これによって何かを得ようとかなどはあまり考えません(ちょっとは考えます)。それよりも、このように書いて記録を残すことにより、少し冷静に自分を見つめることができます。それが、私にとってのteacher cognitionという研究となっています。


ふりかえる 自分のこころ 雪だるま





2025年1月26日日曜日

第三者委員会? / the third party probe  2025年1月26日(日)

最近、何か問題があると「第三者委員会」を立ち上げて調査するということが増えています。私は、この「第三者委員会」というのがよくわからないでいました。おそらく、当事者ではない人に任せて客観的に判断してもらうことが適切だと考えていますが、本当にそれが適切ないつも疑問に思います。

というのは、何のために調査するのかということです。私は問題が当事者にあるとしたら、当事者が、何が問題かを考えることが最も大切だと思うからです。当事者が理解し改善しない限り、問題を改善できないのではないか?

日本弁護士連合会が「企業等不祥事における第三者委員会ガイドライン」(2010)を策定していて、それが基本になっているようです。教育における問題は文部科学省がガイドラインを出しています。その他でも、各問題についてそれぞれ「第三者委員会」があちらこちらで設置されています。が、基本的には、弁護士がかかわり法的な観点から問題を調査しているようです。

国際的には、「第三者委員会」という言い方が定まっているのかどうかを確認してみましたが、そうでもないようです。the third party panel (proble, committe)、 the independent committeeなど英語表現では特に定まっていないようです。ということは、このような調査のあり方が必ずしも「第三者委員会」でなければならないというのは、実に日本的な暗黙の了解になっているように思います。

日弁連の「第三者委員会ガイドライン」によれば、目的は次のようになっています。

第三者委員会は、すべてのステークホルダーのために調査を実施し、その結果をステークホルダーに公表することで、最終的には企業等の信頼と持続可能性を回復することを目的とする。

ステークホルダーは、利害関係者です。つまり、「第三者委員会」はあくまで当事者に調査結果を報告し、その解決は当事者に委ねるということです。

もし、このプロセスが他のどの「第三者委員会」にも当てはまるとすれば、結局自助努力が必要だということで、最終的判断は当事者です。

客観的な判断を「第三者委員会」から提案してもらうことは大切ですが、当事者がまず問題を明らかにして改善を考えることは当然しなければいけないはずです。その改善が「第三者委員会」の評価とほぼ同じ方向性を持つことが、改善の適切性や信頼性を担保することになります。

現状の社会を眺めると、何でも問題があると「第三者委員会」に委ねるような風潮があり、当事者は責任を放棄するような傾向が見えます。このような流れはとても危険な気がします。組織の中で起きた問題を処理する場合、利害関係者が自覚し、課題を認識し、それを改善する方策を考え、実践する必要があります。外で決めたことを出発点としては、結局他人事になる可能性があり、ただ形を変えただけの体裁となる可能性が高いのではないでしょうか?

教育の現場では、いじめが大きな問題で、文部科学省はガイドラインを出しています。

「いじめの重大事態の調査に関するガイドライン」

その中でも「第三者委員会」に触れています。が、全体を読むと、「第三者委員会」には当事者は排除されてはいません。目的は、いじめの解消・解決にあり、いじめの対象となった生徒を第一に考えているからです。ただし、いじめの構造がかなり複雑で、実際に携わる関係者は、このガイドラインどおりに刷れば適切に解決できるとは考えないでしょう。おそらく、当事者あるいは自分事としてていねいに対応しないと相当にむずかしいと思います。

こうして考えると、単に「第三者委員会」を設置するということでは何も解決しないことがよくわかります。やはり当事者が解決しなければいけないことが多く、ことの本質を見て、問題解決にていねいにかかわる必要があると思います。今回のフジテレビの問題は、よくわからない点が多いですが、誰かを攻撃することで解決することではないと思います。背景にある問題は、やはり、ソーシャルメディアの影響と考えます。


鍋がいい 白菜がうまい あったかい日




2025年1月25日土曜日

Audiobooks and podcasts  2025年1月25日(土)

俳句は短い詩です。英語に訳されたHaikuも少しずつ知られるようになりました。この日記でも俳句を作っています。俳句は下手ですが好きです。読書は仕事がら当然で、日本語も英語もふつうに読みますが、ちょっと前から散歩しながらpodcastをよく聞きます。また、audiobook、最近ではaudibleと言われるようになっていますが、便利だなと思っています。今日はそのことを考えます。

音読(reading aloud)や読み聞かせ(story telling, reading books to children)は、言語教育では欠かせません。しかし、英語教育では、listeningだけではハードルが高いので、英語圏で流通しているaudiobookを教材とするのはむずかしいと感じていました。しかし、言語教育という面からは、映像教材よりも有効だと思うようになりました。ポイントは、音に集中することができるということです。文字や画像などの情報がないので、どこでも何かしながらでも利用できます。その際に重要なことは、理解できないことや意味がわからないことが問題なので、その点を補完するにはどうするかです。

私の場合は、日本語も英語もpodcastで聞きます。日本語でも英語でもわからない言葉や表現や内容が出てくると、少し時間が経ってからインターネットで調べて確認します。日本語は基本的に昔の文学作品を聞きます。先日は夏目漱石の『三四郎』を聞きました。明治を背景とした話で、私にもわからない言葉が出てきます。が、あらためて発見したことは、夏目漱石の文章がとてもわかりやすいことでした。実に的確な表現で話に引き込む文章の流れです。このことにはびっくりしました。『夢十夜』も同様です。『こころ』は本でも10回以上は読んだと思います。が、podcastで聞くと印象が違いました。ということで、英語は哲学の話題を聞きます。多少むずかしさありますが、日本語で本を読むよりはわかります。ということで、最近は、散歩しながら聞くことを楽しみにしています。

もう一つは、別の言語を学ぶ際にpodcastを利用していますが、あまり教材はないのですが、日本語と学習する外国語が交互に出てくる教材が、散歩しながら聞くにはとてもよいと発見しました。人によって違うとは思いますが、私の生活の中では役にたつと実感しています。聞くことに集中する、くり返し聞けるなど、podcastはとても効果的だと思うようになりました。しかし、実は、Scotlandで博士課程をしている15年以上前に、盛んにpodcastを推奨している優秀は外国語教育研究者がいました。その頃はそうは思いませんでしたが、最近は納得しています。

Podcastは、to create a radio in digital form and make it available for people to download or stream (= receive as a continuous flow) from the internet and play on a computer or mobile phone (Online Cambridge dictionary)と定義されています。2004年ごろに、ipod(音楽を聴くツールで現在のiphoneの前進と考えられます)とbroadcastを合わせて作られたそうです。自分で加工して作れる番組や素材を作れるツールとして普及したと思います。コンピュータやネットワークの知識はそれほどなかったことと、どちらかというと、インターネットの素材や動画などに興味があり、英語教材としてはそれを利用するだけで精一杯でした。

携帯が多機能になり、本当に便利になりました。街を歩いても、電車に乗っても、携帯を見ている人が多くなり、景色が変わりました。私も携帯はあまり見ないようにしてますが、airpodを片耳にして電車乗ってます。電車で本を開く必要がなくなり、おかげで読書というより「聞書」がふつうになり、ふだんは読むこともない話も読みます。『人間失格』は読んだことはなかったが、聞きました。なるほどなと思った次第です。audiobookは気に入りました。

本を聞く ロンドン思う 黄水仙 



2025年1月24日金曜日

information overload / 情報が多すぎ 2025年1月24日(金)

ここでは、情報の過剰なことに関して考えたいと思います。英語では、まとめて、information overload というような言い方をしますが、多様な表現で言われています。たとえば、

information overabundance, infobesity, infoglut, data smog, information pollution, information fatigue, social media fatigue, social media overload, information anxiety, library anxiety, infostress, infoxication, reading overload, communication overload, cognitive overload, information violence, and information assault.

詳しくは、Bawden, D. & Robinson, L. (2020). Information Overload: An Overview. In:Oxford Encyclopedia of Political Decision Making. . Oxford: Oxford University Press. doi: 10.1093/acrefore/9780190228637.013.1360

 https://openaccess.city.ac.uk/id/eprint/23544/1/information%20overload%20-%20an%20overview.pdf

を参照してください。

実際、最近起きているさまざまな事件や出来事や考えなど、マスメディアやソーシャルメディアで、信頼できるか、できないかにかかわらず、好きなように垂れ流されています。マスメディアでは、一応のガイドラインがあり、ルールがあるのでしょう。私は詳しくは知りませんが、ときどき基準がよくわかりません。たとえば、ニュース報道では、事件に関して、名前や顔の画像などの情報を出す出さないの基準、「認否は明らかにしていない」などの決まり文句など。そのような情報がソーシャルメディアでは垂れ流しになっていたりします。

メディアの人通しでは、おそらく細かい特定の情報を共有できているようです。ワイドショーなどを見ていると、「これはしゃべっていいことかどうかわかりませんが、。。。」などというコメントをよく聞きます。個人情報保護法、守秘義務など、厳しい法令もあり、情報の出し方が歪んでいる面があります。私のようなアカデミックな世界で仕事をしている人間には、信頼性や妥当性は基本的に大切です。つまり、匿名性は担保しながら何事も正直に対応します。噂のような類は避けて、事実や証拠をもとに議論します。しかし、これだけ情報が溢れていると、すべてを確認することは不可能に近く、「〜によると」という表現は必須になります。

また、マスメディアの報道を見ていると、同じような情報が何度も何度も過剰に繰り返されます。さらには、コメンテーターといわれる人たちがそれぞれの立場から不要な話をしています。報道ならば報道という立場で正確に適切にすべきではないかと思います。ソーシャルメディアやネットのニュースは、不確かな情報や広告などが混在し、最近は見ません。マスメディアで公開されている行為や言動に対して、配慮のない発言を垂れ流して、敵愾心を助長するような構図があり、対立や不審がさらに高まるようになっています。すべて情報が混乱し整理されていないことが原因にあるような気がします。

メディアを規制することは、かえってよくないことは当然です。しかし、メディアの整理は必要だと思います。マスメディアの整理、ソーシャルメディアの整理など、仕分けをどこかでする必要があります。どの世界でも交通整理は必要です。それよりも根本的な課題は、個人のメディアリテラシー力に期待するしかありません。そのための教育、整理、議論などが、もっとあって然るべきです。現行のワイドショーのような垂れ流しは避けるべきでしょう。

現在のメディアのあり方はとても危険な方向に行っていると強く感じます。


大寒や 噂だけでも 右往左往





2025年1月23日木曜日

The Celts / ケルト人 2025年1月23日(木)

「ケルト」と聞くとどのようなイメージが湧きますか?日本では、一般的に、古代ヨーロッパにいた民族、あるいは、文化などを思い浮かべるでしょう。映画や漫画やアニメやゲームで浸透しているかもしれません。英語では、the Celtsということで「ケルト人」という意味です。紀元前3000年以上前の鉄器時代(Iron Age)の民族を表すようです。その文化が今日もヨーロッパ周辺、特に、Ireland, Scotland, Walesなどで顕著に見られ、その伝承的な文化が今も残っているということで、かなり複雑で、私は専門家ではないので把握していませんが、ところどころにそのような文化の跡があり、興味があります。

ケルト文化は、ケルトの生活全般を取り仕切る人を表すドルイド(the Druids)に象徴されますが、Ireland, Scotland, Walesに残っている妖精や逸話、遺跡、生活習慣など、その後のキリスト教と融合したケルティック・クロス(ケルト十字)(Celtic cross)というシンボルなど、あるいは、バッグパイプ(bagpipe)などの音楽に、その痕跡が残っています。有名な話には、アーサー王伝説(King Arthur and the Knights of the Round Table)などがあります。

ケルト人は、ローマ人がヨーロッパを支配する頃に駆逐されますが、その文化はヨーロッパのあちらこちらに残って、形を変えて、今日までその影響は散見されます。考えてみれば、ケルトにかかわらず、ヨーロッパには多くの民族や言語や文化が混在して、移動と戦いの中で、互いに影響しあって現在に至っています。ヨーロッパだけではなく、世界中どこでも同様のことがあります。日本のような島国でも同じです。

ケルト文化がいまだに関心を持たれる理由は、キリスト教文化との融合にあると思います。ユダヤ教やキリスト教、あるいはイスラム教も含まれるかもしれませんが、これらの宗教が、世界のあちらこちらで強い影響力を持っています。その中にケルトの要素が取り込まれています。ローマ帝国で広まったRoman Christianityに対して、Celtic Christianityがケルト文化が根強い地域で普及しました。ケルトの文化がキリスト教に入り込んだということです。

そのほかの理由は、ケルト文化には、一神教としてキリスト教がそれぞれの地域に根ざす触媒のような役割をしたと考えます。最近になりあちらこちらで盛んになっているハローウイン(Halloween)などが一つの例でしょう。

私とケルトとの出会いは、英国によく行くようになってからです。特にScotlandには何度も行き、その影響は大であることがよくわかります。言語にはScottish Gaelicがあり、継承言語として使われています。小説、詩、歌などや遺跡などが多くあります。IrishやWelshも同様にケルト系の言語です。この地域の妖精や神話の話は独特のものがあります。W. B. YeatsのThe Celtic Twilightは有名です。また、教会の墓地に行くと、いくつかの墓石はCeltic crossになっています。

多くの人が言っていますが、ヨーロッパ北西海岸のケルト文化には日本人の文化と相通じるものがあります。おそらく海や森という自然のあり方や、日本の神話に類する逸話に共通のものがあるからだろうと思います。地中海のギリシャとは少し違います。私は、どちらかと言うと、Ireland, Scotland, Walesは好きです。英語圏ということもありますが、自然だけではなく人も好きです。物静かですが、あたたかい人が多く、パブなどでは気さくに話しかけられる経験がたくさんあります。少しシャイで、頑固な面もありますが、いろいろな話が率直にできて、盛り上がります。最近のEnglandではちょっとむずかしいかもしれません。


冬の海 ケルトの墓に 眠る人 


2025年1月22日水曜日

Ichiro Suzuki 2025年1月22日(水)

野球のイチロー氏がアメリカの大リーグ(MBL)で殿堂(Baseball Hall of Fame)入りしたニュースが報道されました。日本での活躍後、2001年から2019年まで大リーグに在籍し、3089安打、障害平均打率.311と輝かしい記録を打ち立てました。どのスポーツでも、成績や記録は確かに重要ですが、それよりも「記憶」ということのほうが、一般の私たちには大切です。野球では、長嶋茂雄という人が私の「記憶」です。子どもの頃は、野球を始める人は誰もが憧れました。プレー姿を見るだけで勇気をもらいました。それに対してイチローは、プレーに花があるわけではなかったと思います。いわゆる職人気質で、自分の信念のもとにベースボールを貫いた人で、その意味で「記憶」に残る人です。どんなヒットでも、とにかくヒットを打ち続ける。それを大リーグでしたことは、殿堂入りにふさわしいです。

野茂やイチローや松井や田中の活躍により、現在の大谷がいると思います。昔は、大リーグは雲の上のような場でしたが、今は日本の野球(ベースポールではなく)が並び立っているのは、野球人としてはうれしいと思います。一般人の私も今回の殿堂入りは、イチローの現在の活動とともに誇りたいと思います。

MLBの公式ウェブサイトで、次の見出しで記事が出ています。

Ichiro elected to Hall of Fame, JUST shy of unanimous vote

見出しは、「満票にはほんのちょっと(たった1票)足りなかった」と言っています。記事の中で、

Indeed, Suzuki is officially headed to Cooperstown.

Cooperstownは、野球発祥の地とされている町で、殿堂(Baseball Hall of Fame)がある場所です。

From the moment that he stepped onto a big league ball field in 2001, Suzuki was unlike anything the sport had ever seen – a man who played like a matador but with the precision of a surgeon, a hitter who turned slap singles into a work of art and infield grounders into extra-base knocks with his trademark speed. His bat control, honed through years of relentless training in Japan, was so precise that it bordered on mysticism.

さらに、この記事にあるように、バットコントロールを賛辞しています。

アメリカ合衆国はトランプ大統領になり、世界がさらに不安定になる懸念が出ています。日本は、アメリカ合衆国に追随して戦後生き抜いてきましたが、イチローのように独自なやり方で付き合っていくことが、これからは必要ではないかと思います。そのためには、英語は必要は一つの大きな武器です。その武器はアメリカ英語ではないということを、もう少しメディアは考えてほしいです。


初春 イチロー殿堂 縁起よし   


2025年1月21日火曜日

Barrier free / バリアフリー 2025年1月21日(火)

バリアフリー(barrier free)という用語は誰もが知っていることです。最近は、多くの場所や場面で整備されるようになってきました。多くの組織で必要な推進がされていルようです。が、私はあまり知りません。東京大学にバリアフリー推進オフィスという組織があります。ウェブでは、支援を配慮される人や支援する人が具体的にどのような対応するかなどの情報をていねいに提供しています。また、英語でも発信しています。具体的には、視覚障害(visual impairment and blindness)、聴覚障害(hearing impairment and deafness)、肢体不自由(orthopedic/mobility impairment)、内部障害・慢性疾患(internal disorders and chronic disease)、発達障害・精神障害(developmental disorder and mental disorder)などについて説明しています。

当事者研究導入講座のご紹介

東京大学先端科学研究センターで研究し、小児科医でもあり、オフィスのメンバーでもある熊谷晋一郎先生は、バリアフリーについてインタビューで次のように言っています。

「聴講者のなかに聴覚障害や視覚障害を持っている学生がいる、という想像力を働かせて、授業をアレンジしなくては裏方がどんなに頑張っても追いつきません」と指摘します。「全ての構成員たちがバリアフリー支援に関わる一員として、意識を高めていくことが必要だと考えています。そうでないと、どのサービスも授業もアクセシブルにならないと思います」

“They need to use their imagination and craft their classes assuming that there could be students who are hard of hearing. Otherwise, no matter how hard we work behind the scenes, we won’t be able to solve these issues,” he said. “I believe all the members of the university need to raise their awareness (of the challenges people with disabilities face). Otherwise, I don’t think the services and classes offered by the university will ever become wholly accessible.”

あらゆることに配慮することはとてもむずかしいことだと思いますが、「バリアフリーの意識を高める」ということは確かに必要だと思います。東京大学では、IncluDE 多様性包摂共創センター(Center for Coproduction of Inclusion, Diversity and Equity)として、ジェンダーと障害について対応しています。オフィスでは、支援が必要な人にも、具体的にどのような支援が必要かを申請してもらうようにしています。

このような対応は、多くの大学や学校がしていますが、それでもすべてをカバーできるわけではありません。さらには、組織はありある程度対応も決めていますが、実際に、教育の場でどの程度対応できているか?あるいは、生活の場ではどうか?などは別です。さらに、障がい者も一人ひとり違います。バリアフリーというのは、特定の人だけではなく、すべての人あるいは環境などに配慮する考え方の問題だと思います。

話は変わりますが、いじめや虐待にも共通する考え方があります。個人が尊重されることは必要ですが、同時に、社会も尊重される必要があります。最近は、ソーシャルメディアにより、個人が好きなように考えを発信できるようになりました。それが社会にどう影響するかは予測ができませんが、それをうまく利用する人がいます。それが人を貶めることも可能です。また、それにより扇動される人がいます。これは、バリアフリーの一つの成果です。障害もジェンダーにもバリアフリーは大切ですが、ある意味で、すべてが、公平に、インクルーシブに考えられる環境がカギになると思います。

「バリアがない」ということは、良い面もありますが、悪い面もあります。障害を持っていることで教育を受けることに問題があれば解決するのは当然です。どのような支援があれば対応できるのかは、状況によります。ルールを決めるだけではうまくいきません。ジェンダーもそうです。すべて多様です。多様なことを公平に考え、対応できないことも排除するのではなく、インクルーシブに工夫する社会を維持していくことが、バリアフリーの文化だと思います。それでも、おそらく、課題は解決しないかもしれません。ただそのような意識を高めていくとことがやはり基本だと思います。


バリアフリー 豆まきするも 鬼も内


2025年1月20日月曜日

I shot the sheriff / Eric Clapton 2025年1月20日(月)

昔聞いた英語の歌詞(日本語もそうですが)は、全体の意味をあまり把握しなかったので、ただなんとなく部分的なフレーズだけしか知らず、ときどき気になることがあります。その一つが、「I Shot The Sheriff, but I ....」です。若い頃に聞いたフレーズですが、Eric Claptonの歌とだけおぼえていました。

タイトルは、I Shot The Sheriffです。今回調べてみました。すると、もともとは、Bob Marleyが歌ったレゲエの曲だと知りました。歌詞も背景もほとんど知りませんが、ただ、「私は保安官を撃った」だけの歌かと思ってました。

歌詞は次のようになっているようです。時代や場所によって少しアドリブが入り変わりますが、もともとは次の歌詞となっています。

I shot the sheriff, but I did not shoot the deputy.
I shot the sheriff, but I did not shoot the deputy.

All around in my home town
They’re trying to track me down.
They say they want to bring me in guilty
For the killing of a deputy,
For the life of a deputy.
But I say:

I shot the sheriff, but I swear it was in self-defense.
I shot the sheriff, and they say it is a capital offense.

Sheriff John Brown always hated me;
For what I dont know.
Every time that I plant a seed
He said, kill it before it grows.
He said, kill it before it grows.
But I say:

I shot the sheriff, but I swear it was in self-defense.
I shot the sheriff, and they say it is a capital offense.

Freedom came my way one day
And I started out of town.
All of a sudden I see sheriff John Brown
Aiming to shoot me down.
So I shot, I shot him down.

I shot the sheriff, but I did not shoot the deputy.
I shot the sheriff, but I did not shoot the deputy.

Reflexes got the better of me
And what is to be must be.
Every day the bucket goes to the well,
But one day the bottom must drop out,
Yes, one day the bottom must drop out.
But I say:

I shot the sheriff, but I did not shoot the deputy, oh no!
I shot the sheriff, but I did not shoot the deputy, 
oh no!

私の世代では、Eric Claptonのギターは有名です。他にもヒットした曲はありますが、不思議な歌だったんだと歌詞を見て思いました。解説はいろいろあるようですが、お巡りさんを打ち殺すというのは、時代だったと思います。公民権運動やベトナム戦争反対などの反体制の時代に、薬物やレゲエのリズムが受けたのだと思います。

この曲がヒットしたのは、1974年だそうです。私が大学生の頃でよくおぼえています。その頃は知りませんでしたが、Bob Marleyの歌の方が、そのまま入ってきて、とてもいいなと思いました。「保安官は撃ち殺したが、副保安官は打っていない」「誰が副保安官を打ったんだ?」ということです。「正当防衛だ」「副保安官を撃ったことの罪で捕まえるのはおかしい。保安官は撃ったが、副保安官は撃っていない」という不条理を歌っているということがよくわかります。

こんな歌だったのかとあらためて知り、いい歌だったんだと納得しました。

また、英語教師としてちょっと気づいたことは、時制(tense)です。規範文法(prescriptive grammar)が学校で尊重されますが、記述文法(descriptive grammar)が実質です。間違いではないわけです。なおさら、そのおかげで歌詞が生き生きして耳に入ってきます。なおさら、この歌が好きになりました。


クラプトンの ギターを聞いた あの冬に 



2025年1月19日日曜日

Scandal / スキャンダル 2025年1月19日(日)

LSD.LAWによれば、スキャンダル(scandal)は次のように説明されています。

 When someone does something really bad or says something untrue about another person that makes them look bad. It's like spreading rumors or gossip that can hurt someone's reputation. Sometimes it's not okay to talk about certain things in public because they are too embarrassing or inappropriate. If it's not related to the problem at hand, it's called scandalous and can get you in trouble.

中居正広という芸能人をめぐってメディアにおいてよくわからない報道がされています。女性に対するセクハラ(?)で問題があり、報道されお騒がせしたが、法的には示談が成立している、というのが、表向きの報道と理解しています。しかし、その後、番組は降板し、フジテレビという会社の問題となり、ソーシャルメディアであれやこれやと騒がれています。

これは、スキャンダルの一つと考えられますが、根拠のない情報が具体的な名前が出て、噂されています。テレビや新聞は表面的なことを報道していますが、ネットでは多くの噂が出ています。これは真実であろうとなかろうと多くの人を傷つけている可能性があります。

私は、最近このようなことが多すぎるように思います。たとえば、キャサリン妃の報道、皇族の人たちに関する報道、兵庫県知事の報道など。政治的なことを言えば、ロシアやイスラエルの対応は、国連や国際裁判所が何を言っても効力がなく、正当化され、力によってうやむやにされていくプロセスは、スキャンダルではないかもしれないですが、真実が真実ではなくなってしまうかもしれないような結末を招く可能性があります。さらには、明日アメリカ大統領になるトランプ氏は、悪いことをしても、公正な民意を受けて、アメリカの大統領として君臨することになります。韓国でも大統領が逮捕され、市民の支持は分かれています。結局真実は解釈によりどうにでもなってしまいます。

これは、何を信じてよいのかわからない世の中になりつつある前兆のような気がします。意見が分かれるのは当然ですが、要するには、その意見の根拠の基準も違ってしまい、違うルールで物事が進んでいるということです。「黒」も「白」も光によりどっちにでもなり得るという混沌とした社会になっています。司法がそれを判断する根拠になるのでしょうが、裁判官も検察官も警察も信じられない状況が散見されるようになりました。ごくふつうの市民は、わかりやすい情報に左右されて、ひょっとすると、戦前の日本のような悲惨な結末に進んでいってしまうでしょう。

何かが起こり、誰かが噂を作り、それがエスカレートするというスキャンダルのプロセスは、ヨーロッパの魔女狩り(witch hunt)に構造的に似ているかもしれません。正しいか、正しくないかという判断は、明確な場合は簡単ですが、立場の違いや状況の違いにより、考えさせられる面があります。しかし、どこかで判断しなければいけない場合は、当然あります。その際は、誰かの声に引きづられる可能性が高くなります。

以前書いたArthur Millerの作品でThe Crucible(るつぼ)という戯曲があります。それはアメリカのSalemというところで起こった魔女狩りを扱っています。基本は、噂から始まり、事実が歪曲され、犠牲者を出す、犠牲者はそれに抗することができない状況になってします。劇はそのような困難な状況を表しています。スキャンダルにはいろいろありますが、その当事者はたぶん一番の困難な状況にある人が多くいます。権力を濫用する人は別としても、個人がそのような状況に陥った場合は、その当事者に対する配慮が大切だと思います。

スキャンダルのような情報が垂れ流される時代になりました。最近は、ソーシャルメディアなどは見ないようにしています。マスメディアは必要なものに限り、新聞もあまり読まないです。しかし、この日記の話題を書くためにネットの情報は確認します。多くの情報はかえって物事を見えなくするかもしれません。その意味から、この日記を書きました。気をつけたいです。


一月や こころ休まず 日々過ごす





2025年1月18日土曜日

Social class / 社会の階層 2025年1月18日(土)

日本は、中流社会と言われています。太平洋戦争後アメリカの占領下の中で、貴族制度が廃止され、財閥などが解体され、労働者の社会になり、資本主義が主流となったとされています。民主主義は当初のようには進みませんでしたが、それでも多くの人が平等となり、教育も保障され、比較的戦争からの復興は上手く進みました。現状は、まだまだ問題を抱えていますが、80年ほど平和な状態が続いてきたことはありがたいことです。

さて、社会には構造上階層があると言われます。皇族を頂点として、旧〜というような家柄あるいは家系により階層があります。なくそうとすることも無理があり、それだけを悪と見るのは間違いでしょう。社会の階層でよく引き合いに出されるのが英国(主にイングランド)です。私は、博士課程をスコットランドで学びました。それ以前にも英国にはたびたび訪れ、一応それなりに人づきあいもあり、多くの人に教育関係を中心に接してきました。教育関係ということもあり、いわゆるclassということには実感がなかったというのご正直な印象です。私自身が労働者階級なので、 upper classの人と接することが少なかったのでしょう。

それでも、マナーを大切にする機会はたくさんありました。Manor Houseという昔の荘園などを訪れると対応は丁寧でした。しかし、それは階層というよりは、日本でも同様ですが、丁寧な対応をする作法は、階層ではなく社会生活の仕方の問題で、日本でも貧しくても教育をしっかりと受けてきている証拠であり、尊敬されることです。英国では、王族がいて、貴族もいて、歴史的にそのような仕組みが生き続いていることは当然だと思います。他のヨーロッパでも同様です。しかし、日本の皇族とは質が違うように思います。王様だからというだけで神とは違います。フランスのように駆逐されることも多々あるわけです。

次の記事が現在の英国の社会階層意識を反映しているように思います。

How do Britons define social class?

56% of Britons identify as working class, while seeing job and income as the most important factors in identifying class

Most Britons consider themselves to be working class, including nearly half classified as living in middle class households

Britons are divided on whether your social class matters in Britain today

Only 38% of Britons say they have a strong attachment to a class identity

Britons tend to think the distinction between classes is not very clear in modern Britain

Job and income are seen as the most important factors in determining social class in Britain

Attending university, owning your own home or earning more than the average salary do not stop you from being working class, say Britons

Britons more likely to say class is determined by your upbringing than your current circumstances

これらの記事の要点を読むと、日本の現状とそれほど変わらないと思います。生活が豊かになり、落ち着いた生活ができることを望み、労働者であることを卑下することもないように思います。

それでも、日本と同様、社会の階層をひけらかす人がいます。私は、英国に入国するときにときどき、Mrではなく Drを使います。そう聞かれるからです。それは、一つにはclassに重きを置く風潮が残っている証拠ですが、勲章などと同様で何か努力している人にはそれなり称号を与えようとすることで、家柄とは違うように思います。

私は、スコットランドが好きです。スコットランドはイングランドに虐げられた歴史があり、スコットランドに昔から住んでいる人は、パブでその話でも盛り上がります。本気かどうかはよくわかりませんが、そういうところが好きです。上流社会にいるよりは、労働者として生きているほうがかっこいいと考えます。


ハイランド 冬のドライブ ウイスキー


2025年1月17日金曜日

The Great Hanshin Awaji Earthquake /阪神淡路大震災 2025年1月17日(金)

30年前のこの日に 阪神淡路大震災がありました。朝からニュースで追悼行事などがあり、思い出しました。当時は、埼玉県の高校に勤めていて、足を怪我して担任を外れて、教務主任をしていた頃です。学校内のことでは学校運営のことで嫌なこともあり、高校の仕事にうんざりしていた時期かもしれません。その翌年修学旅行の生徒引率で神戸にちょっと寄ったのをおぼえています。そして、故あって高校教育から離れました。

その後も、たくさんの地震や津波や台風や豪雨などがあり、その度ごとに防災対策や被災者への対応など、復旧復興は課題となっています。研究が進み、少しずつ予測や予防や備えなどの対策も進んでいると思います。昔からすれば改善はされていると思いますが、やはりその場その時の柔軟な対応が重要です。被害が出た場合のその後の支援も、過去の例やルールなどに縛られることなく「寄り添う(cuddle up, sympathize, support, etc.)」ことが求められます。昨年の能登半島地震の災害でも、これまでの経験が生かされていないような批判を聞きます。

おそらく正解は何もなく、同じことがくり返されていくでしょう。忘れないことは大事ですが、前を向くことは必要です。私が思うには、当分の間、地震を予知することはできないと思います。ある程度予知ができたとしても、その後に続く災害を防ぐことも予測できません。どんなに防災を施しても、複合的な要素があり困難です。さらには、災害になり住んでいる環境が破壊された場合、それを元に戻すことは意味がないだろうと思います。その状態から次にどう生きていくかを考えるしかないと思います。そのための支援を行政は考え、柔軟に対応することが大切だと思います。

先日、南海トラフ地震臨時情報が宮崎での地震の際に取り沙汰されました。いくら説明されても、個人的には問題だと思います。「地震予知はできないけど、、一応知らせます」という程度のことであれば、大袈裟に発表するのはやめた方がいいでしょう。「この間地震がありました。念のためまたあるかもしれません。地震はいつどこであるかはだれもわかりません。いつもどおりちょっと気をつけてください」程度でよいのではと思います。

災害というのは、地震に限らず交通事故や病気など、個人的にはいつどこで起こっても仕方がありません。起こったら対応しなければいけません。自分が死んだらそれはできませんが、生きている限りは見過ごすことはできないでしょう。先日、私の同級生の岩田一次先生が逝去したと聞きました。授業をしているときに倒れて、寝たきりになり、昨年の10月に病院で息を引き取ったそうです。その知らせは、いろいろな意味で考えさせられました。「そういうことなんだ」と思いました。岩田先生は学生時代はお世話になった人で、酒もタバコもやらない、真面目な人ですが、一度だけ泥酔したことがありました。いい人でした。合掌。私も近いうちに同じようになるので、毎日をきちんと生きようと思います。


寒い朝 今日も一日 幸せに