Kitaro Nishida - 50 Quotes for Life from a Japanese Philosopher
昨日は娯楽について考えました。この日記は私にとっての娯楽です。 Ethnography(人の活動や思考を記録して調査すること)という考え方をもとに、自分の意識や思考や行動を記録しています。なぜここに記述するかというと、不特定の人に公開することにより他を意識して考えること、しかし、一度書いたことは推敲せずにダラダラと書くことで、そのままを記録すること、見直すことはしないことによる実在性を残すことなどを意図しています。
今日は西田喜太郎の純粋経験(pure experience)について考えます。インターネットに多くの言及があります。例えば、
純粋経験とは、主観と客観が分化する以前の意識の統一状態のことだ。こんな感じである。波打ち際に立って水平線に沈む太陽をうっとりと眺める。この瞬間、こちらに見る主観が、あちらに海や太陽といった客体があるという意識はない。裸の自然の情景が喜びの感情を帯びてたち現れるだけだ。ー https://book.asahi.com/article/11581536
「純粋経験」とは、あらゆる先入観を排除した状態で、物事をありのままに経験することをいいます。
ー https://tetsugaku-chan.com/entry/nishida
“Pure experience” names not only the basic form of every sensuous and every intellectual experience, but also the fundamental form of reality, indeed the “one and only reality” from which all differentiated phenomena are to be understood. ー https://plato.stanford.edu/entries/nishida-kitaro/#PurExp
いろいろに解釈されるので、かえってわかりにくいような気もします。私は、単に、「人それぞれが持つ意識経験で共有可能な間主観性の実体」と考えています。これもよくわかりませんね。西田幾多郎のこの考えは、現象学に共通する考えで、自然科学の客観重視の思考に異を唱えるものです。存在論(ontology)と認識論(etymology)は哲学の大きな課題ですが、西田はそれに対して自分の哲学を考え貫き通した人だと思います。
哲学や自然科学はすべて西洋の思想に根を持ちますが、アジア(インドや中国)に共通する思考はそれとは違います。西田はそれに対して一人日本にいて考え抜いた人で、その基本的な思考の中心は純粋経験です。「主客合一」という言葉を西田がたびたび使っているのは、私にはとても印象的です。私もそう思います。科学は観察が重要です。観察は気づきです。ただ漠然と見ていても何も見たことになりません。主観とされる自分の周囲で起こることの中で意識して理解したことが経験となります。それを研ぎ澄まして概念化したことが、おそらく純粋経験なのではないかと考えます。
宇宙一やさしい「哲学のえほん」 12.西田幾多郎先生の「純粋経験」
「自覚」「絶対無の場所」「絶対矛盾的自己同一」などと、さまざまな考えを使い、思考につぐ思考を重ねた西田は、おそらくそれが娯楽の一つだったと思います。私はいくつか著作を読みましたがよくわかりません。よくわからないということがわかったということが、私の純粋経験です。が、私は哲学者ではなく、教育者の端くれです。学びを考えています。その世界で考えると、物事をこのように統合的に把握することは、分析するよりも重要だと思っています。パッと見た、知った、触った、聞いた、感じた際の直観は、何においても重要です。学びはその連続だと思っています。その直観が、その後の学びの気づきになります。それがなければ何をしても無駄でつまらないような気がします。西田の純粋経験はその意味でとても好きな言葉です。
花見過ぎ 道を歩きつ 時が過ぎ