2025年4月30日水曜日

Blackout and power outage / 停電 2025年4月30日(水)

停電(blackout or power outage)がスペインとポルトガルで起きました。国単位で大規模な停電が起きるということは久しぶりです。日本では大きな停電はあっても地域的なものです。大規模な計画停電は2011年の東日本大震災のときにありましたが、停電はあまりありません。

スペインもポルトガルも行ったことがありますが、報道によると相当な影響があったようです。夏の暑いときでなくてよかったと思います。原因はまだはっきりしないようですが、スペインの送電網の管理企業が、フランスとの送電線の接続を失い、スペイン側で発電量が急激に下がり、不安定になって起きたようです。ヨーロッパ全体の送電網に課題があるようです。


この図は世界の電気の利用状況を表したものですが、パッと見るとアフリカが圧倒的に電力が供給されていないことがわかりますが、必ずしもそうではなく、日本のように安定的に供給されている国は珍しいと言わざるを得ません。たとえば、南アフリカでは計画的に停電があります。また、電力量が制限されている国もたくさんあります。

電気はエネルギー源としては重要になっていますが、国によっては電源はそれほど満足できるほど供給されていません。Our World in Dataによれば、

At a global level, the share of people with access to electricity has been steadily increasing over the last few decades. In 2000, 2 in 10 people lacked access to electricity; this number has since decreased, with fewer than 1 in 10 lacking access in recent years.

少しずつ電気を利用できる人が増えているにはまちがいありませんが、都会と地方ではかなりの差があり、利用の質もかなり差があります。データによれば、以前よりはかなりよくなっていることがよくわかります。その点で日本は先進国であり、あまり感じませんが、中国などの変化はかなり急速であることがよくわかります。

しかし、今回のスペインとポルトガルの問題は、電力の供給と需要というよりも、何か不具合がある場合に、私たちの生活に相当の影響が起こり得るということがあり得るということです。電力の供給が麻痺することにより、交通も仕事も生活もすべてが機能を失なってしまい、それが国全体に影響するということです。ウクライナやミャンマーなどの紛争地域などは場所によっては生活に電気が機能していないという状況が日常的にあるわけで、報道されていないだけです。

私の生活を考えただけでも電気がない生活は考えられない状況です。ほぼすべてに電気がかかわっています。幸いにも、EV車が電池の代わりになりますが、それだけです。今回のことで電源喪失が、あちこちで起きている上水道や下水道、ガスなどの老朽化にともない、次々と事故が起こりそうな都市生活なので、地震や台風や火災だけではなく、さまざまなことを想定しておかないといけないと思った次第です。


春の宵 夕映にあり 多摩川と 



2025年4月29日火曜日

Japanese imperial era system / 日本の元号 2025年4月29日(火)

今日は「昭和の日」(Showa day)という祝日です。いつの間にかそうなっていました。日本はこのような祝祭日(public holidays)(正確には「国民の祝日」)が多いようです。

元日    成人の日        建国記念の日 天皇誕生日

春分の日  昭和の日        憲法記念日 みどりの日

こどもの日   海の日               山の日               敬老の日

秋分の日      スポーツの日    文化の日         勤労感謝の日

ちなみに、この時期はゴールデンウイーク(The Golden Week)と日本は呼んでいます。「昭和の日」はもともと昭和天皇の誕生日でしたが、昭和天皇が崩御した後は自然が好きだったことから「みどりの日」となり、それが移動して、現在は「昭和の日」となっています。

昭和という年号は、私が生まれて育った時代であり、歴史上も暗い悲劇の時代でした。それを受けてその後は平和な時代が長く続いています。明治、大正、昭和と、日本は江戸時代(the Edo period)の鎖国(isolation or closed to the outside world)から脱却し、開国して急速に欧米に追いついて戦争し敗れた。しかし、その後急速に復興し、経済大国になったが、その先に経済的に力を失ってしまい、今日に至っている。「昭和の日」は、そのふりかえりの日のような気がする。

その後、平成となり、令和となり、それぞれの元号において、実にいろいろなことが起きてきました。個人的には、元号はほとんど意識しなくなっています。西暦の方が経年的に見られるし、国際的に考えると、日本だけの元号は意味がないでしょう。台湾には中華民国暦(1912年を紀元)がありますが、元号は日本だけです。暦はいくつかありますが、天皇の在位にもとづく元号は日本だけが維持しています。歴史的には価値があるのでやめるわけにはいかないでしょう。国の文書は両方の年号を併記してもらえるとありがたいと思います。

日本の元号は、西暦645 年の「大化」に始まり、「令和」が248番目になるそうです。しかし、本当にそれほどしっかりとした考えでこれまで来たとは思えません。南北朝時代などがそうです。さらには、天皇というシステムも明確に機能していたかどうかも危うい面もあったように思います。しかし、長く続いてきたことを誰もやめることができません。象徴としての天皇制はこの先も元号などの伝統とともに、何もなければずっと続くことでしょう。それが日本という国の誇りでもあるのです。

私個人にとって、この元号はほぼ意味がありません。昭和に生まれ、平成を経て、令和になったというプロセスは、私の人生にとってそれほどの境目にはなっていません。が、昭和の終わりは、1989年で、平成の始まりは、1989年です。正確に言うと、1月7日までが昭和64年で、1月8日から平成元年になります。「崩御」という表現もその際に知りました。どのような頃だかあまり記憶がありませんが、家庭も落ち着き、高校教員として元気よく活躍していた頃だと思います。バブルの頃ですが、私個人としてはあまり恩恵に預かっていません。しかし、そのときの昭和の終わりは、明治の終わりのような気分を感じていたかもしれません。それとともに元号というのはコロコロ変わるものなんだなとはっきり意識しました。その後は西暦志向になりました。私にとっての「元号」の喪失です。


昭和の日 昭和は遠く なりにけり


2025年4月28日月曜日

Sports & club activities at school / 学校の部活動 2025年4月27日(日) & 28日(月)

日本の学校の部活動は実に日本的な活動です。他の国ではあまりないボランティアの活動です。もう何十年も不明確な状況で続いています。なぜかわかりませんが、誰も文句が言えない状況で、最近になって「働き方改革」の一環として、また、教師や教育研究者などから強く意見が出され、さらには、教員の成り手不足、不人気などから、ようやく制度をきちんとしようとし出しました。しかし、問題はそう簡単ではありません。

解決の糸口は、学校から地域に部活動の運営を移すという方策です。しかし、学校の制度にもクラブ活動や課外活動は位置付けられていて、部活動を学校からそう簡単には移せないのが現状だと思います。学習指導要領に「特別活動」という章があります。なぜかこの章は重視されている傾向があります。というか、日本的な教育の特徴を表しているかもしれません。これがある限り、部活動の地域移行や学校活動からの除外はありえないはずです。

「特別活動」の目標は次のようになっています。

集団や社会の形成者としての見方・考え方を働かせ,様々な集団活動に自主的,実践的に取り組み,互いのよさや可能性を発揮しながら集団や自己の生活上の課題を解決することを通して,次のとおり資質・能力を育成することを目指す。

⑴ 多様な他者と協働する様々な集団活動の意義や活動を行う上で必要となることについて理解し,行動の仕方を身に付けるようにする。

⑵ 集団や自己の生活,人間関係の課題を見いだし,解決するために話し合い,合意形成を図ったり,意思決定したりすることができるようにする。

⑶ 自主的,実践的な集団活動を通して身に付けたことを生かして,集団や社会における生活及び人間関係をよりよく形成するとともに,人間としての生き方についての考えを深め,自己実現を図ろうとする態度を養う。

この「特別活動」の中には、クラブ活動(小学校のみ)、学級活動、ホームルーム活動、児童会、生徒会、入学式、卒業式、修学旅行などさまざまな活動があります。よく見ると、日本の教育の特徴をよく示しています。かなり柔軟な活動で授業時間数としては35時間を割り当てられていますが、おそらくそれでは数えることはできない活動です。多くの生徒にとっては、学校活動として非常に記憶に残る活動で、これらを抜きにしては学校はありえないかもしれません。

私自身が高校教育に従事している際も、この特別活動にはやりがいも感じました。が、その分負担となる活動でもありました。日本の教師の仕事が、いつの時代からかわかりませんが、この「特別活動」を重視するようになりました。それは世界共通ですが、なぜか日本は過剰です。この背景は複雑です。労働運動が盛んだった頃、教師の政治への関与を求める運動がありました。組合を中心にイデオロギー、給与、労働などについて組合を中心に運動がありました。私も参加したことがありましたが、学校が生徒の非行や暴力で荒れていた時期に、部活動に全生徒が参加するなど、なんとか生徒が学校に関心を持つ一つの対策として推進したことがありました。私もそれには同調した時期がありました。高校生が学校活動に後ろ向きになって、荒んでいる姿を見ると、部活動に集中し更生する姿は一つの対策として有効と感じていました。つまり、働き方がどうのこうののとか言うよりも、教師として生徒に向き合うことが大切と感じていたと思います。

学習指導要領には、「部活動」について社会の批判を受けて次のような文言を入れてあります。

教育課程外の学校教育活動と教育課程の関連が図られるように留意するものとする。特に,生徒の自主的,自発的な参加により行われる部活動については,スポーツや文化,科学等に親しませ,学習意欲の向上や責任感,連帯感の涵養等,学校教育が目指す資質・能力の育成に資するものであり,学校教育の一環として,教育課程との関連が図られるよう留意すること。その際,学校や地域の実態に応じ,地域の人々の協力,社会教育施設や社会教育関係団体等の各種団体との連携などの運営上の工夫を行い,持続可能な運営体制が整えられるようにするものとする。

作文です。行政が責任逃れをするための文言です。現在は、マスコミの批判、教員(なり手)不足などにより、部活動のあいまいな位置付けをなんとか解消しようとしていますが、おそらくうまくいかないでしょう。理由はいくつか考えられます。

教師の仕事が、本来の学びの支援に特化する必要があります。教師の資質が揺らいでいます。大学の教員養成が形骸化していることが大きな要因です。それぞれの専門の学習が不足する人が教師になっている現状は否定できないからです。必要のない教職科目が多く、特別活動、道徳教育、総合的な学習などに関する実践が重視され、専門科目の知識や指導実践の内容が不足しています。たとえば、英語教育においては、近年の言語学で重視される応用言語学や第二言語習得やバイリンガル教育などの科目が軽視され、従来の英語文学や言語学だけが焦点を当てられています。以前、大学教員の頃かかわった教職課程再課程認定申請において、「第二言語習得」という科目を申請したら認められませんでした。理由は定かではありませんが、「英語科教育法」でカバーできるという理由だったと思います。

「部活動」についてはもっと複雑です。教師の中には、部活動を担当するために教師になった人が多くいます。マスコミはなぜかそのような声を拾っていません。私が教職課程に携わっていた頃は、中学生や高校生の頃の部活動がもっとも印象に残っている活動で、先生になりたい理由になっていました。部活動自体を面倒見ることは、楽しいことで、充実感があります。部活動に専心することは、授業実践にも役立ち、そのほかの仕事にも役立ちます。部活動が負担に感ずるのは「やらせられた」ときです。「部活動」自体は、教師が主体的にかかわる必要はないとされています。生徒が自主的に行う活動だからです。負担となるのは、土日や休日の勤務です。大会などで行かなければいけない、引率の責任も生まれ事故があれば教師の責任です。この辺りが誰も責任を取ろうとしないシステムの瑕疵が最大の問題でしょう。

文部科学省がすべてを中央集権的に管理したいのならば、その点を誤魔化さずにスッキリさせる必要があるでしょう。そうでないならば、各スポーツ団体、各文化活動団体などが、学校の「部活動」にかかわるイベントを学校とは関係ない事業として実施することでしょう。このような活動は社会的にも重要で、教育的です。が、現在のように教師の関与を義務としないことです。現在でも教師のボランティア(強制的)ですから本来のボランティア活動として実施しなければいけません。やりたい人はたくさんいます。もしやりたい人がいなければやめるべきでしょう。

それが自然です。


学校は ゴールデンウイーク 部活動




2025年4月26日土曜日

Currency exchange / 為替 2025年4月25日(金)&26日(土)

為替(currency exchange)がニュースで毎日のように話題になっています。また、株式市場(stock market)も目が離せない状況です。アメリカ合衆国のトランプ大統領の相互関税(reciprocal tariffs)を重視する政策の影響です。コロナを経て世界中の金融の動きがガラッと変わりました。私は特に株式にはそれほど興味もなく、投資(investment)もしていませんが、円高(appreciating yen) や円安(depreciating yen) は私の生活には大きく影響しています。

本日の為替レートは、1ドルが142.84円、1ユーロが162.84円、1ポンドが190.37円です。この3つの通貨は、私にはたびたび必要で、以前より比べると、円高の頃からすると40円から50円は違います。また、相互関税ということになると当然私たちの生活に影響を与えることになり、物価がさらに上がることになります。

私には為替の仕組みはよくわかりませんが、次のような説明があります。

Current international exchange rates are determined by a managed floating exchange rate. A managed floating exchange rate means that each currency’s value is affected by the economic actions of its government or central bank.

要するに、為替が変動することがマーケットを活性化するというようなことらしいです。確かに、この仕組みに長けている人は、お金をうまく動かせば儲かりそうです。実際儲けている人もいるし、そうでない人もいます。が、総じて、通貨を持っている人には有利な気がしてます。ビジネスでは、お金を動かすという技術が重視されます。ただ銀行やタンスにおいておくだけでは何も変わりませんが、金などに換えたり、土地を買ったり、会社に投資したりして、お金を動かし、自分の資産を増やすということです。

よく考えると、貨幣そのものの実体がなく、電波や光のように動いて、それによって人や物が動くのは少し変ですが、すでにそれには慣れてきました。銀行の口座やカード払いにすっかり慣れて、記録もできて、わかりやすくて、私は気に入ってますが、そのシステムが壊れたら使えなくなります。為替も信用なので、円が価値がなくなれば無駄になります。現在は金が高騰していて、また、土地も高騰していて、芸術作品なども高値の傾向があります。何かゲームのようで誰かに操られているように感じるときもあります。

労働や物に対する対価(consideration, compensation)として貨幣が交換の中で使われてきましたが、現在ではそのようなシステムではすでになくなり、マネーゲームのシステムの中で交換が行われています。現在はデジタル通貨(digital currency)が広く普及するようになりました。クレジットカードはその一つです。また、bitcoinというような暗号資産(cryptoassets,  cryptocurrency)も使われています。 このような通貨が使われるシステムは、仮想の中にありますから、信用性や安定性がなければ使えません。たとえば、The Bank of Englandでは、Central bank digital currency (CBDC) として、次のように説明しています。

Central bank digital currency (CBDC) is money that a country’s central bank can issue. It’s called digital (or electronic) because it isn’t physical money like notes and coins. It is in the form of an amount on a computer or similar device.

The Bank of England is the UK’s central bank and together with HM Treasury, we are looking closely at the idea of a central bank digital currency for the UK. If we introduced one, we’d call it the digital pound.

You may have heard of Bitcoin, Ether (Ethereum) and XRP. They are examples of privately issued digital assets (sometimes known as cryptocurrency or cryptoassets). CBDC are different to cryptoassets in several important ways.

Firstly, cryptoassets are issued privately. If anything goes wrong with a cryptoasset, there’s no central bank or government that can step in. 

Secondly, the value of a cryptoasset is volatile. It can go up or down quickly in a very short space of time. This isn’t ideal when making payments. If we decided to issue them, digital pounds would be stable and retain their value over time. 

CBDCは銀行というシステムによって担保され、信用され、安定していますが、暗号資産は私的であり変動します。クレジットカードは安定性が高いですが、暗号資産は変動するので投資の対象となります。

株価と為替はまだ実体が見えますが、暗号資産は、投資の対象となっているにもかかわらず、実体がよくわかりません。しかし、通貨も含めてデジタルになると、すべて実体が見えなくなります。言い方を換えると、デジタルの中では仮想の実体を作ることが容易です。現状ではそのようなこともあるかもしれませんが、そのあたりはうまく説明されているようです。しかし、実態はわかりません。

通貨や為替は交換により成り立ちます。その交換も信用により成り立っているわけで、紛争などによりその交換様式が信用を失墜し、安定しなくなれば、どうなるかわかりません。現在いくつかの紛争があっても、社会経済的には通貨の流れはコントロールされているようですが、されていない部分もあります。この先、紛争が大きくなり、国と国の信用関係が崩れ、国際関係が壊れれば、実体のないデジタルの信用性が崩れない保証はありません。世の中は確かにデジタルのおかげで便利になりましたが、すべてをデジタルとするのは今日の繁栄を築いてきた貨幣による交換システムを破壊することになるかもしれません。

私は為替に関しては素人でよくわかりませんが、それほど長い歴史があるわけではなく、現在のデジタル化による見えない通貨交換システムはちょっと怖いと思います。「大丈夫です」という人がいたら教えていただきたいと思います。


ふらここや デジタル空間 どこにある 


2025年4月24日木曜日

Nagasaki Dejima / 長崎出島 2025年4月24日(木)

The hidden religion banned in Japan for 200 years - BBC REEL


長崎という場所は、江戸時代以来、あるいはそれ以前から、世界に開かられた港です。また、キリスト教であれば、キリシタン禁止令より潜伏キリシタンというような一つの暗い歴史を作り、それが明治になり開国されたことにより、キリスト教にとっては独特の意味を持つ場所になりました。さらに、日本にとっては悲劇的な敗戦の大きなきっかけとなった原爆投下により、広島ととともに核兵器禁止廃絶の象徴となりました。その長崎に数年前より訪れるようになり、私にとっていろいろと考えさせられる場所となっています。

長崎には、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館や浦上天主堂があり、グラバー邸があり、端島(軍艦島)があり、ハウステンボスがあり、米軍基地があり、五島列島、対馬などなど、多数の意義深い場所があります。自然は豊かで、歴史も文化もあり、多くの観光客や訪問者がいます。しかし、人口は減っているそうで、若者は流出し、多くの地方都市と同様に高齢化が進み、どのように地域を発展させていくかが課題のようです。

私自身が訪問する目的は、CLILという統合した学習としての英語教育の推進が目的です。この地でCLILの理念を生かした学校をつくりたいという熱意を持っている人を支援しようとしています。大学の教員を退職してから好きなことをしようと思い、CLILの普及に努めようと決めて3年ちょっとで、毎日が新鮮で勉強になります。今ままで出会ったことのないような人に、無職のおじいさんという形で、営業のような形態であちらこちらで人と会います。ビジネスといえばビジネスですが、私にはビジネスはできません。ほぼ失敗です。

教育者としての私は、それなりの自負がありますが、それ以外ではまったくの素人で対応がわかりません。政治家の人、起業家の人、社会活動家の人、ビジネスの人などなどと話すことがあり、なるほどなと勉強になります。公務員、大学教員の経験しかない私は、なんと狭い世界に生きてきたのかと反省しきりです。できるかぎり首を垂れて生きることに決めていますが、ときどきムカムカとすることもありますが、長崎の海を眺めたり、他の自然を美しさ、街並みの歴史、人の所作などに触れるとすぐに忘れます。


長崎に出島というところがあります。歴史の中でしか知らないところですが、長崎港の一角にひっそりとその景観を残している場所があります。ほとんどが復元したもののようですが、その中に、神学校の建物があります。明治11年に建てられた出島英和学校、聖アンデレ神学校の校舎として使わていたそうです。由来はわかりませんが、英和(つまり、angloとJapaneseという意味のようですが)という学校はその当時あちらこちらにあり、英国と日本を融合したという意味として使われていたと考えられます。今でもその名残を持つ大学があります。出島は、オランダが使用して日本と貿易をしていたので、オランダはプロテスタントの国ですから、あっても不思議はないのですが、江戸より前は、ポルトガル人によってキリスト教は布教されているので、カソリックです。長崎にある古い教会はほぼカソリックのようですが、ここではカソリックの中にプロテスタントの神学校があるのはなぜか興味をそそられます。

布教はアメリカの影響だと思いますが、出島の歴史は暇があれば調べたいと思っています。潜伏キリシタンは異端の宗教のような印象を最初は持たれていたようですが、迫害された江戸時代を生き延びて今日長崎のキリスト教として地元の人に親しまれ、さらにはプロテスタントとも融合しているようであれば、これは素晴らしく日本的ではないかと思いました。今後も長崎には来るのでそのようなことを楽しみに訪れたいと思っています。


快晴の 長崎の空 春の昼




2025年4月23日水曜日

The Moomins / ムーミン一家 2025年4月23日(水)

ムーミン」という言葉はみんなが知っています。フィンランドのTove Janssonがつくった話にもとづいた言葉です。ムーミン」は英語ではThe Moomins(ムーミン一家)という意味を表していますが、Moominという用語は、抽象的にMoominの世界を表すようにして使われています。というのは、The Moomin Familyはムーミンの世界に登場する多くのCharactersを含んでいるからです。

The Moomins are the central characters in a series of Moomin books and a Moomintroll comic strip by Tove Jansson. The adventurous Moomin family live in their house in Moominvalley and have many adventures with their various friends.

いわゆるムーミンは、Moomintrollのことです。次のようにウェブで紹介されています。

A brave and loyal friend

Moomintroll is kind, caring and curious, a great lover of nature and a true friend. His life is full of excitement and adventure, thanks to his daring companions and the tolerant – and somewhat eccentric – Moominmamma and Moominpappa. Although he can be a sensitive character, anxious not to offend and susceptible to being teased (especially by Little My…), Moomintroll is bold and courageous whenever it is required of him. He is inclined to look for the positives in any situation and to embrace every experience that presents itself, making him a lot of fun to spend time with!

“Isn’t life exciting! Everything can change all of a sudden, and for no reason at all!” Moomintroll, in the book Moominpappa at Sea, 1965

基本的にはこのムーミンが物語の主人公ですが、全体ではそうはなっていなくて、特徴のあるキャラクターがたくさん出てきます。それがこの話に多くの人を惹きつけるポイントなのだろうと思います。

私は次のキャラクターが印象に残っています。

Ninny, the invisible child

Ninny is an invisible child who has become invisible after being treated badly for a long time. She comes to the Moomin family to perhaps become visible again thanks to their care. The invisible Ninny is proper, polite, and, according to Moomintroll and Little My, annoyingly bad at playing. Everyone in the family tries to help Ninny in their own specific ways. They provide security, teach her to play, challenge her to take up space and show her emotions. During her time with the Moomin family, Ninny changes and becomes more and more visible. The visible Ninny is strong-willed and full of emotions and surprises everyone with her ability to take action. 

Toveはヘルシンで生まれたスウェーデン語が母語のアーティストで、「ムーミン」はスウェーデン語で書かれています。それがフィンランド語や英語に訳されて、さらに多くの言語に訳され、世界中で知られています。日本では1990年代にアニメで放映され、明るく楽しいムーミン一家として定着して、今日のキャラクタービジネスとなっています。

しかし、多くの人は、物語自体はあまり知らないかもしれません。それぞれのキャラクターに自分を投影し、「ムーミン」の世界観が好きなようです。実際、私もすべての話は知りません。

フィンランドを訪れるようになってから、少しずつ背景を理解するようになりました。Toveはアーティストで「ムーミン」はその一部です。Toveの生き方や作品を見ると、「ムーミン」に登場するキャラクターのそれぞれが生き生きと理解できるようになりました。人はそれぞれコンプレックスがあり、悩みがあり、生きづらさを抱えています。彼女もそうだったのでしょう。それを癒してくれる場が「ムーミン」という架空の場所で、それは楽園でなく、フィンランドのような自然の中にあるスピリチュアルな世界なのでしょう。私も小さい頃は群馬の田舎の山の中で育ちましたが、温泉町で人もそれなりにいて、旅人もいて、一人になりたければ林の中に入れば簡単に動物や植物を触れ合い、自分の世界に入ることができました。

人はそういう場が必要なのだと思います。そういう場には当然「ムーミン」のような環境が大切なのでしょう。その点で、「ムーミン」は好きです。


雨の街 長崎訪ね 海光や



2025年4月22日火曜日

flexible school curriculum / 柔軟な学校カリキュラム 2025年4月22日(火)

現在、2030年度の学習指導要領改訂に向けて「柔軟なカリキュラム」「学びの多様化」という方針が出されています。年間の授業時数を弾力的に考えて、効率よくカリキュラムを編成する実践例が報告されています。基本的にはとてもよいことだと思います。よい方向で議論されてよい提言が出されていくことをただただ期待します。学習指導要領は10年ごとに改訂されていますが、いままで方針はよくても現実は変われない文化が根強く残っていて、徐々には変わっていますが、別のところで問題が起きて、現状では、教育は決しよい状態ではないようです。教育の二極化が広がっているのではないでしょうか?

それはさておき、「柔軟なカリキュラム」「学びの多様化」について、私見を述べます。この方針は多くの国でほぼ同じです。社会が多様化し、さまざまな面で複雑になり、一国だけで考える時代は終わっていると考えます。ロシアやイスラエルのようにこれまででは考えにくいことを平気でやっていて、それを誰も止められません。アメリカ合衆国も現在何をしでかすかわからない状況です。教育だけがそれに巻き込まれないということは不可能です。学習指導要領を遵守して、方針を決めているという世間離れしたカリキュラムは少し考えたほうがよいでしょう。

しかし、実際には、特例として多様な学校やカリキュラムが運営されています。その多様な運営は自由にはできません。文部科学省の認可などが必要です。そのために多くの書類を揃え申請し、認可を受けた学校は、学習指導要領にもとづくある決まったルールによって運営がされているような気がします。その実践は報告する義務があり、しがらみを受けます。つまり、「柔軟なカリキュラム」「学びの多様化」と言っても、なんでも柔軟ではなく多様でもありません。文部科学省は、「教育課程の編成は、学校教育法施行規則に示す総授業時数及び各教科等の時数、学習指導要領に示す各教科等の目標・内容に基づく必要がある」としています。これを大前提として、個々の児童生徒に着目した教育課程の特例を打ち出し、不登校、特異な才能、日本語指導について検討しています。この判断を各校長に任せると言っています。これは無責任なやり方と言ってもいいでしょう。校長はその責任は取りたくありません。

また、これに関する議論を「柔軟な教育課程編成の促進について~各学校が編成する一つの教育課程では対応が難しい子供の包摂~」の中で公開しています。網羅的で、私たちはやっていますというアピールのようで、なんとなく「絵に描いた餅」という印象を持ちました。

柔軟なカリキュラムのもとで、日本語指導が必要な児童生徒、校内外の教育支援センター等に通う不登校児童生徒、特定分野に特異な才能を有する児童生徒を支援する

ということです。当たり前です。どうやってそれをするのかということが課題です。つまり、不登校、特異な才能、日本語指導については、特別と考えているわけです。これではインクルーシブとは言えません。「柔軟なカリキュラム」「学びの多様化」を目指すならば、ふつうのカリキュラムの中に学びの多様化を図る必要があるでしょう。

そのためには、学習指導要領にはない思考を入れなくてはいけません。学習指導要領にある目標、教科科目、単位、授業時数などなど、不登校、特異な才能、日本語指導の必要な児童生徒それぞれのニーズに合うようにして、その学びを支援しなくてはいけません。それは学校教育に最前線で関わる教師の仕事にもかかわっています。長期的な視点に立って考える必要があります。その意味で、学習指導要領はあくまでガイドラインであるということを徹底すべきで、現場の先生方の創意工夫を優先していただきたいと思います。学校の先生が自由に改革をできるような環境作りが文部科学省の仕事ではないでしょうか?いい考えが出てくると思います。学習指導要領でしばり、管理するのはそろそろ思い切ってやめましょう。それができなければ、いくら学習指導要領を改訂しても、また新たな問題が出てくるでしょう。


春の雨 長崎は雨 それもよし



2025年4月21日月曜日

Local warming / 地域(局所の)温暖化 2025年4月21日(月)

北極の氷がますます縮小化しているそうです。地球温暖化(global warming) が進んでいるということです。これに対しては反論する人もいます。結局明確な証拠はないということでしょう。地球ということを考えると規模が大きすぎて、氷河期などが何回かあり、地球は暖かい時期と寒い時期を何億年という間にくり返していて、科学が進歩したとは言え、誰も明確な証拠を持っていないのです。仮説に過ぎないことがたくさんあります。現在が地球温暖化の危機にあると言っても、100年以上経てば、誰もどうなっているかわからないという状況です。

地域温暖化(local warming)という言葉はあまり聞きませんが、ないことはないようです。「局所温暖」というような意味では使われるようです。

Local Warming means heating workstations and industrial spaces by using short-wave infrared technology. This provides heat to specific areas without waste and with substantial energy savings. 

しかし、私はこのことについて少し議論したいと思います。

というのは、地球規模(global)な話は、ごくふつうに暮らしている多くの人にはピンとこないことです。日本の中でも、すべても場所が「暑い」というわけではなく、地表面の温度が、たとえば、35℃と言っても、湿度やどのような条件の温度かで体感は違います。日中35℃でも朝や夕方にある程度低くなれば、それほど厳しいものではありません。乾燥している場合と湿度が高い場合では、まったく違います。私が住んでいる場所では、温暖化は確かに感じます。70年生きてきても確かに感じます。

UNDPによる定義は、The Climate Dictionary: An everyday guide to climate changeによると、次のようになります。

Global warming is an increase in the Earth’s average surface temperature that occurs when the concentration of greenhouse gases in the atmosphere increases. These gases absorb more solar radiation and trap more heat, thus causing the planet to get hotter. Burning fossil fuels, cutting down forests, and farming livestock are some human activities that release greenhouse gases and contribute to global warming.

二酸化炭素などのグリーンハウスガスの増加による地球の温暖化のことを言っています。そして、問題は気候が変動することです(climate change)。

私は車をEV車にしました。退職しているので、活動量は減少していますから、二酸化炭素の削減には貢献していると思います。政治経済社会の活動を大きく制限しない限り、地球温暖化は解決しません。しかし、それは現状を見る限りできないようです。一般市民が考えることではなく、政治や経済の活動で考えることです。ただ、私が生きている体感としては温暖化しているとは感じます。

その意味から、私は「local warming」を考えます。local warmingをなんとかしようと思います。夏であれば、エアコンディショニングの使用を控えることのほうが効果があると思います。木を植え、木陰を作ることが有効だと思います。交通機関も制限するほうが良いと思います。つまり、夏の暑いときは活動を制限する。現在居住している環境で熱を発生する原因を制限し、冬もストーブや暖房機の温度を制限しても暮らせるように工夫する。1年間、電気の使用をかなり制限すれば二酸化炭素は減ります。働き方を変えて、生活を変えることで、local warmingは正常になると考えます。

もし、それでも変わらなければ、global warmingのメカニズムが間違っているということではないでしょうか?地球温暖化をビジネスにすることで、かえってglobal warmingを加速させているとは考えられないでしょうか?


春の風 暑いと言えど ここちよし







2025年4月20日日曜日

Personal data / 個人情報 2025年4月20日(日)

個人情報(personal data)の秘匿(cofidential)がこれほど大切な世の中になるとは思っていませんでした。名前、住所、電話番号、年齢、仕事、家族、性別、趣味などなど、すべてが公開されることは危険なことに出会う可能性をつくり、それを集めて販売するビジネスも成り立つ時代になりました。いつごろそうなったのかはあまり記憶にないのですが、個人情報の保護に関する法律( Act on the Protection of Personal Information)が、 2005年に施行される以前だと思います。おそらく、1990年代ごろから名簿などの廃止が始まり、年賀状が衰退し、インターネットが普及し、携帯電話やメールなどが使われ出した頃と同時期に始まったのでしょう。私が高校の教員を辞めて大学に移った頃です。個人情報の定義は、「生存する個人に関する情報であって、この情報に含まれる氏名、生年月日その他の記述等により特定の個人を識別することができるもの」としています。

個人情報保護法ガイドラインを見るとかなり細かく示してあります。インターネット上をざっと見るだけでも、そのほかにもたくさんの関連の情報があります。つまり、それだけ重要なこととなっています。報道を見ているだけでも、名前や学校や家を特定されることによる危険性がたくさん報道されています。特に子どもや女性が気を付ける対象です。さらには、特殊詐欺などに見られるように、私のような高齢者がターゲットになっています。確かに、私の世代はおおらかな時代で電話帳があり、個人情報の共有は必要なことでした。互いの信頼のもとに共同体を構成していたと思います。が、それがあっという間に壊れ、現状のように匿名性(anonymity)で生きる環境には慣れていません。

私は、教育という社会で生業をたててきましたので、匿名性に関しては注意しなければいけません。しかし、そればかり大切にすると、教育はやはり成り立たない、あるいは、成り立たせるのがむずかしい。LINEの交換は現在では禁止されていると思いますが、LINEを適切に使うとやはり学生とのコミュニケーションはうまくいきます。教育においてはそのような個人情報の共有は必要ですが、それとともにその保護の責任は重いということでしょう。次のYouTubeは英国のGeneral Data Protection Regulation (GDPR)の紹介です。2000年代に集中的に英国で教育調査をしていましたので、多くの学校でそれは徹底されていました。

ネット社会は便利であるとともに危険性が多くあり、そのネットワークが私たちの日常生活のコミュニティーにも入り、ネット社会から個人的な社会を覗き見することが容易になり、そこに土足で入り込んでくる社会です。その意味で私たちの日常はすでに大きく変わっています。

個人情報(privacy)と匿名性(anonymity)は、このようなオンライン社会になった現在では注意しなければいけないでしょう。

Privacy is a condition in which information about you is not visible to people you don’t explicitly grant permission. The classic state of privacy is being behind closed doors in your home: People can identify you as the owner of the house, but not your actions inside it.

Anonymity means your actions are visible to the public eye, but your identity is not. The classic state of anonymity is being a single face on a crowded street.

なんでもかんでも個人の情報を保護する必要はなく、見えても良い部分とそうではない部分がきっちりと区別され、同意がない限り、見られたくない部分は守ることが大切です。匿名性も似ていますが、個人が不特定多数の中にあり、そのような状況でむやみに特定されることがないということです。全てを秘匿にして活動することが個人情報の保護でないと考えます。自分自身が社会性を持たなくなるのは危険で、ネット社会で匿名性を担保して活動するのは問題もあります。

ますます住みにくい世の中ですが、アイデンティティ(identity)まで失わないようにしないといけません。自分が生きてこの世に存在することを知ってもらうことは必要です。特にメディアなどに登場する人は、この点に注意が必要です。さらには、ソーシャルメディアが発達する時代には、ごくふつうの人も気をつける必要があります。この日記を書いている私も同様です。しかし、なぜ公開でこの日記を書いているかと言えば、一つのチャレンジです。


雲雀鳴く 多摩川歩く てくてくと




2025年4月19日土曜日

National assessment of learning / 学習状況調査 2025年4月18日(金)& 19日(土)

全国学力・学習状況調査(悉皆調査)が、小学校6年生と中学校3年生にCBTで実施されています。日本以外にもいくつかの国で実施されていますが、結果はその後の指導に生かすということが主流です。PISATIMSSはそのような調査を広げたもので、ある程度有効な学習状況を把握する手段です。調査の目的は、学習達成度の把握とその後の指導に生かすことです。基本的な調査内容は、読み書きと計算などの日常生活に必要な能力を測ることです。科目ごとの調査は、学習到達度を個人個人が把握することに焦点を当てているのが主流と考えられます。

日本の全国学力・学習状況調査(悉皆調査)はすべての生徒を調査します。生徒一人ひとりに結果は公表し、各学校では、その結果を指導に生かします。都道府県単位の平均点は公表されています。が、学校単位では公表されていません。日本の調査の目的は、

義務教育の機会均等とその水準の維持・向上の観点から、

〇全国的な児童生徒の学力・学習状況を把握・分析することによって、国や全ての教育委員会における教育施策の成果と課題を分析し、その改善を図る

〇学校における個々の児童生徒への学習指導や学習状況の改善・充実等に役立てる

〇そのような取組を通じて、教育に関する継続的な検証改善サイクルを確立する

妥当な目的です。が、批判も多々あります。批判は、本当にその目的のために利用されているのか?という点です。報道を見る限り、都道府県の順位づけがほとんどで、個々の生徒がその結果についてコメントするのを聞いたことがありません。おそらく受験のためのテストの結果の方が、多くの生徒にとって重要なことでしょう。

令和6年度 全国学力・学習状況調査の結果についてという詳細な報告があります。相当な労力をかけてデータを集計して分析してあります。しかし、この報告書等を誰が利用するのかを考えた場合、おそらく実際に教えている教師は読んで、自分の授業の指導に生かす時間はないと思います。利用する人は、研究者でしょう。たとえば、まとめとして、次のような教科に関する調査の結果のポイントを提案をしています。

【国語】

⚫ 事実と感想、意見との区別が明確でないなど、自分の考えを伝えるための書き表し方の工夫に課題が見られた。

⚫ 自分の考えなどを記述していても、必要な情報を取り出すことや表現の効果を考えることに課題が見られた。

→小・中学校を通じた効果的な資質・能力の育成のため、記録、要約、説明、論述、話合い等の言語活動を工夫することが重要

【算数・数学】

⚫ 図形や単位量当たりの大きさ(速さなど)について、深い理解を伴う知識の習得やその活用に課題が見られた。

⚫ 複数の集団のデータの分布の傾向を比較して捉え、判断の理由を数学的な表現を用いて説明することに課題が見られた。

→日常生活を絡めながら、活用できる知識・技能を習得させることが重要。また、データの活用については、小学校段階からデータを言葉と数を使って表現する力を身に付けさせることが重要。

この提案自体は、問題を作成した段階で、おそらくある程度予想される結果のような気がします。義務教育の段階で、これほど詳細な調査結果とその詳細な結果に合う提案をすることが、国語教育や算数・数学教育にどれほどの有効な意味があるのかは、私にはわかりません。

もっとおおらかな目標があっていいのではと思います。言語は、考える力、創意工夫など、単なる言語活動を超える力を育成することも重要です。算数・数学も単にデータを活用するだけのことではなく、問題解決力や思考の整理などの育成が重要で、国語と算数・数学は、そのリテラシー(literacy)の基礎を養うことに大切だと思います。ざっと報告書を読むと網羅的であり、調査の目的が適切に本当に利用されているのかは、私には判断できません。

報告書には、各都道府県別に結果の詳細がまとめられています。これは、おそらく比較されることを意図し、現場感覚からすると、その結果を改善する対策を取ろうとする意図が生まれてもおかしくないと考えられます。これに対する批判は拭えないでしょう。UNESCOは、What you need to know about literacyというレポートを書いています。世界的な観点から言えば、日本はおそらくリテラシーのレベルは高いでしょう。しかし、瑣末なリテラシーにこだわる必要はないと思います。レポートの中で、次のように言っています。

Literacy is a continuum of learning and proficiency in reading, writing and using numbers throughout life and is part of a larger set of skills, which include digital skills, media literacy, education for sustainable development and global citizenship as well as job-specific skills. Literacy skills themselves are expanding and evolving as people engage more and more with information and learning through digital technology.  

学習状況調査は、オンラインテストなどで測るのではなく、日々生徒と触れ合う教師の視点で調査する必要があるように思います。調査は結局はテストによって測れるデータをもとにして、アンケート調査を補足としています。それとは異なる日常の学習活動や学校活動に携わっている教師の意見や考え方は表わされていません。このような学習状況調査結果を日々の改善につなげるとすると、結局テスト対策のための指導の改善となるような気がします。

オンラインでの調査となり、デジタル技術の育成にもつながっていると思います。国語、算数・数学、理科、それに英語という学習状況調査ではなく、もう少し広い意味でのリテラシーという考え方から、小中学生の学習状況を調査した方がよいと私は思います。その際に、教育の最前線を担当する教師の考え方や意見や関与を大切にしてほしいと思います。それは教師の負担を多くするという観点ではありません。もっと学習そのものに教師の仕事をむけてほしいと思うからです。テストの準備や実施において教師が負担に感じているという話も聞きます。嫌な仕事を増やすよりも、教育や学習という仕事に集中することが、現在の日本の教育には求められていると思うのですが、私は間違っているのでしょうか?


4月にも かかわらず暑い 土曜日


2025年4月17日木曜日

Religion / 宗教  2025年4月17日(木)

宗教(religion)は日本にとってはあいまいな考え方です。基本的には、仏教が主で、古来からある神道と結びつく(神仏習合 )という考えで定着してきたと考えられます。明治になり、神道を国教として、神仏分離令(1868年)により神社と寺が別になりましたが、文化的には離れることなく生活には結びついてきました。戦後は、キリスト教やイスラム教など、その他の宗教も今日では自由となり信仰されています。学校教育では、宗教に関する教育は行われていません。

基本的には、私のように無宗教という意識の人が多いと思います。ヨーロッパの国々を訪ねて触れ合った人の様子を見ていると、キリスト教の伝統や文化が中心ですが、宗派は様々で、年配の人は教会などに行きますが、若い人は行かない傾向にあるようです。しかし、基本的には聖書にもとづく精神が浸透しているようで、共通した意識を持っているように感じます。最近では、イスラム教圏の移民の人たちが多くなり、軋轢が生まれることもありますが、大半は、それぞれの宗教や考え方を受け入れ共存しようとしているのが現状です。

宗教や民族などに由来する争いは絶えません。特に、最近の世界の争いの根底に宗教的な対立が顕になっています。ロシアとウクライナ、ミャンマー、インド、パキスタン、アフガニスタン、イスラエルとハマスなど、直接の要因が宗教でなくても、火種となる可能性のある背景が宗教の違いに根強くあります。幸い日本は、現状では大きな対立はありません。が、1995年のオウム真理教はカルト教団の恐ろしさを経験させてくれました。

高橋和巳という作家がいました。宗教を扱った『邪宗門』を高校生の頃に読みました。そのほか、『非の器』『我が心は石にあらず』など、当時の世相を反映した人の葛藤を扱った作品を思い出します。以前に書いた高校生の頃の堀泰雄先生が推薦してくれたと思いますが、細かい内容は忘れましたが、破滅、憂鬱、転落などを扱うテーマがどれもこころに残っています。

統一教会に解散命令が出ましたが、報道を見る限りでは、解散しないような状況です。被害にあった人の影が薄くなり、報道も少なくなり、結局存続するような勢いです。以前、聖書について書きました。聖書は戦いの記録です。迫害や悲惨なことがあっても、神を信じる記録です。どんな迫害があっても生き残ってきた記録です。宗教は、高橋和巳の小説とは違い、発展していきます。「信じるものは救われる」という単純ですが明快なメッセージがどのような宗教にも共通してあるような気がします。

私の家庭は創価学会の信者でした。子どもの頃はそのような集会にも参加させられ、勤行というお経も暗記していました。しかし、私は高校生になると遠ざかりました。そのリーダーで信仰心のあった人は大学生になって自殺しました。何があったのかは知りません。私にはこの経験がずっとあります。その後学生運動や教職員組合などもなぜか経験しましたが、いずれも組織の息苦しい経験があり、子どもの頃のことを思い出してやめています。

その後宗教については興味を持っていますが、どの宗教にものめり込むことはしないと思います。


陽だまりに 猫もまどろむ 春深し





2025年4月16日水曜日

Teacher education / 教師教育  2025年4月16日(水)

私は、意欲のある人に小中高の教員になって活躍してほしいと思っています。悪口ばかり言うのはどうかと思いますが、現実を変えてほしいと強く思います。今のままでは何も変わらない可能性があります。教育が元気がない国は衰退します。意欲のある人が教員となり、学校を楽しく活性化して、日本という国を今後もずっと平和で元気のある場所にしてほしいと思うのです。

この日記で何度も取り上げる学校教育は、自分の人生のほとんどを過ごしてきた主たる活動領域です。最近の動向は残念でなりません。いじめ、引きこもり、詰込み教育、学力低下、家庭の貧困、差別、LGBTQ、不登校、教員不足、変わらない学歴偏重、私学の名門校文化、塾や予備校のビジネス、公立学校軽視、進学実績、英語教育重視、教育DX・ICTやAI偏重、教育格差などなど、挙げたらキリがないくらい多くの問題が、学校教育は抱えています。

昔から較べれば、相当に進歩したことは間違いありませんが、何かが間違っています。私が高校教員を始めた1970年代後半は、校内暴力や暴走族などが大きな問題でした。私自身も毎日その対応に明け暮れていました。授業どころではない状況でしたが、それでも何か人間的な喜びはありました。社会の見方もある面でおおらかで、厳格な罰則主義ではなく、教員の裁量は尊重されていたと思います。今でもその頃教えた生徒とはやり取りもあります。と言っても事故などで亡くなった生徒もいました。

私が高校教員を辞める頃は落ち着きましたが、また、別の問題もありました。私自身は英語教育の研究などの時間が欲しくなり、いろいろな事情で辞めて大学に転じました。教科教育法などの授業も担当できるようになり、英語教育の改善に熱心に取り組みました。その際にいい先生も多いですが、相対的にそうではない先生がたくさんいたことに気づきました。現在もその傾向は変わりません。「英語の授業は英語ですること」などのスローガンがあり、英語の先生の指導のあり方が問題になりましたが、本質は違います。そんなことで改善しないと提言し、改善方法を提言した時期もありました。

しかし、これでは変わらないと思い、CLILという学習の推進に努めて現在に至っています。しかし、CLILは宗教のような受け取られ方や、ヨーロッパの教育で日本には適していないなど、あいかわらず瑣末な学習方法や指導方法の改善に執着した展開が進められています。CLILもその一つとして利用されています。本来はそうではないと私は思っています。

教師の役割は大きく変わっていますが、やはり適切な知識と教育に対する知見が必要です。それに加えて、自分自身を向上し学習を支援する意欲が必要です。教師教育は、そのような人材を育てる場です。ところが、実態は、形式的なカリキュラムと必要だと昔から言われている科目が大きな学習項目として設定されています。

参考:教職課程コアカリキュラム(例:中学校)

教科等28単位、教職 20、教育実習7、大学独自28単位

教科等と大学独自は、教科関連でまとめられるが必ずしも必要かどうかは疑問が残ります。たとえば、英語の場合、英語文学、英語学、異文化理解、コミュニケーションなどという枠がありますが、実際、英語力に直結するわけではありません。英語科教育法も座学のような授業も多くなっています。

教職20単位は下記のような内容ですが、これはかなり負担になる場合か、あるいは、座学になっている場合です。私が教職課程を担当している際の私見ですが、現状では教員になるのに必ずしも必要とは思われない内容です。これらの科目のために多くの学生が教職を続けるのをやめていました。

  • 教育の理念並びに教育に関する歴史及び思想
  • 教職の意義及び教員の役割・職務内容
  • 教育に関する社会的、制度的又は経営的事項(学校と地域との連携及び学校安全への対応を含む)
  • 幼児、児童及び生徒の心身の発達及び学習の過程 
  • 特別の支援を必要とする幼児、児童及び生徒に対する理解 
  • 教育課程の意義及び編成の方法(カリキュラム・マネジメントを含む)
  • 道徳、総合的な学習の時間等の指導法及び生徒指導
  • 教育相談等に関する科目
  • 道徳の理論及び指導法 
  • 総合的な学習の時間の指導法
  •  特別活動の指導法
  • 教育の方法及び技術、教育の方法及び技術、生徒指導の理論及び方法 
  • 教育相談(カウンセリングに関する基礎的な知識を含む)の理論及び方法
  • 進路指導及びキャリア教育の理論及び方法 
  • 情報通信技術を活用した教育の理論及び方法 

もちろんすべてが無意味だとは思いませんが、実態は種々雑多で「座学」的な内容が多く散見されます。小学校、中学校、高校で実際に必要な力量は何かを考えれば、おのずと不要な科目があるはずです。先生が実際に学校でする活動を考えると、上記の基本を理解するだけで十分です。大切なことは、実際に教える内容や技能の知識であり、実際に教える方法です。実際そうはなっていないのが現状です。教師を目指す人が少なくなっている一因はこのカリキュラムにもあります。

たとえば、次のビデオを見て下さい。高校の特別活動についての学習指導要領の解説です。私はこのような細かい指示は不要だと思います。現場に任せることが大切です。これをすべて理解して、教科の先生が指導するのは過剰な要求です。

それとともに、教員採用試験の仕組みであり働き方です。養成課程が変わらず、採用試験の前倒しや簡略化、部活動などで職務の軽減化をしたとしても、決して教育の質が高まることはありません。やはり教員の質を維持する必要があります。教職大学院は失敗しています。教員は自分が学びが好きである必要があります。教員になれば学べ続けることができるという仕組みをもっと推進すべきです。「日の丸君が代反対」とか思想的な面を統制するために国の政策を教えつける時代は終わっていると思います。学習指導要領を強制的に押し付ける時代でもありません。目標に向けて、教師が工夫でき、学ぶことができる仕事にすることが、私は現状では重要だと思うのです。


新学期 夢一杯の 未来あり




2025年4月15日火曜日

Anthropology / 人類学、人間学  2025年4月15日(火)

Anthropologyとは何か?うまく説明できる人はどのくらいいるでしょうか?かなり広い領域をカバーする用語で、日本語では、人類学とか人間学とか訳されて専門分野の人がいます。私にはいまだによく分かっていません。この際、私見を述べておきます。

Merriam-Westerのオンライン辞書では、次のように説明されています。簡単に言うと、「人類(人間)の科学」で、少し詳しく言うと、歴史と空間に通じる先祖なども含み、物理的な特徴、環境的社会的関係性、文化と関連した人類(人間)の研究としています。

Anthropology

the science of human beings

especially : the study of human beings and their ancestors through time and space and in relation to physical character, environmental and social relations, and culture

起源について次のように補足しています。近年アメリカ合衆国で発展したそうです。

The word anthropology dates back to the late 16th century, but it was not until the 19th century that it was applied to the academic discipline that now bears its name. In the United States, this field of study is typically divided into four distinct branches: physical (or biological) anthropology, archaeology, cultural (or social) anthropology, and linguistic anthropology.

私が関わるのは、後半の二つ、cultural (or social) anthropology, とlinguistic anthropologyのようです。しかし、かなり細分化されてきているような印象を持ちます。もともと、human beingsを扱うわけですから当たり前でしょう。

Ethnographyについて言及してきました。この日記はその一つの活動です。辞書的な説明は、the study and systematic recording of human cultures also : a descriptive work produced from such researchとなっていて、人間を対象としていますが、その記録の仕方に関わるのがethnographyのようです。それでも明確に区別するのはむずかしいようです。

私の現在の探求の興味は、CLILという教師や活動です。私自身がCLILという教育を実践しているものとして、この日記を書いています。anthropologyと言えばそうです。ethnographyと言えばそうです。あるいは、phenomenologyと言えばそうです、と答えます。このような探求は、CLILという分野の発展にもつながり、自分個人の探究にもつながります。行き着く先がどこかは知りませんが、あと何年になるかわかりませんが、死ぬまで続けるでしょう。

しかし、この日記は1年と決めていますので、8月14日に終えると思います。


生き生きて 人間だから 春の風邪



 

2025年4月14日月曜日

The way it should be with sakura / 阿留辺畿夜宇和とさくら 2025年4月14日(月)

阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)は、明恵上人の言葉です。当時の文体で漢字を当て字として書いたそうです。漢字に何か意味があるということではなさそうです。「〜すべき」というのは、いまでは何か上から目線のように響き、あまり好きではない人が多いと思いますが、どうもそれとは違うようです。明恵は自分に対して言っていることで、他人に対して言っていることではなく、社会や自分自身に厳しく、人に対してはやさしい人です。私もそうありたいと思いますが、むずかしいですね。

この日記の柱は、阿留辺畿夜宇和です。8月15日1年間ほぼ毎日書こうと思い立ち始めました。日記は自分自身の思考の流れを辿るautoethnographyです。ざっと見ると、自分自身の思考に一定の傾向を見ることができます。それとともに、毎日何か気になることがあると、ちょっと調べるようになりました。また、話題が偏らないようになどと考えます。当初から決めていたことは、俳句で終わる、YouTubeビデオを添える、英語に関わるようにするなどです。もっとも基本的なルールは推敲しない、ふりかえらないということです。

明恵は『夢記』を綴りました。最近よく夢を見ます。しかし、ほぼおぼえていません。おぼえていなくても、自分の思考が夢の中まで入り込んでいることは意識します。歳をとると、眠りが浅くなり、ぐっすりと眠ることはほぼありません。途中何回か目を覚まします。目を覚まして起きてしまうこともありますが、また寝ます。さらに、夢の続きを見ます。夢は夢なので脈絡がありません。だからおぼえていません。ところどころの場面は記憶しています。最近はかなりスケールが大きいです。例えば今朝方は、戦時中に私はいました。なぜなのか?よくわかりません。夢です。明恵上人とは質が違います。

私の地域では、さくらも散りだしました。私は、さくらのすべてのフェーズが好きです。花についてはほぼ1週間くらいですが、その前の蕾の状態、花が咲いた後の葉がどんどんと増えていき、さくらんぼができ、葉が落ち、また、蕾をつけ、冬を耐える、という生育の中で、枝が枯れ、次第に傷んでいき、老いていく姿が、一時期の華やかさがあるために、散歩しながら見ます。他の植物も同様ですが、さくらがやはり中心です。理由は、家の前にあるからです。今年は、人に触れやすい大きな枝が2本花をつけませんでした。枯れたようです。


さくら散る あるべきようわ ありのまま