2025年7月16日水曜日

Spare time / ゆとり 2025年7月 16日(水)

 ゆとり教育(cram-free education)」は、1990年代ごろから浸透し、2000年代後半でほぼ終わりました。背景にはいろいろありましたが、基本は、詰め込み教育(cram education)ではなく、生徒自身が自主的に考える方向で進めた政策です。私は、当時高校の教員だったので、時代の感覚には合っていたと思いますが、学力の低下が指摘され、現在は、カリキュラムもキツくなっています。

個人的には「ゆとり教育」という実感はありません。その最中私は高校教師の仕事から大学に移りました。しかし、研究は、教師の研究をずっと続けていました。主たる分野は英語教育です。自分自身はゆとりであろうがなかろうが高校教師の頃は忙しかったです。生徒も大学に進学する人はそれなりに塾に行ったり、予備校に行ったり、部活動もしたりして、ふつうに勉強していました。そうではない生徒は、詰め込みであっても詰め込みでなくても勉強しないけれども、必死に生きていたと思います。ただ思うことは、バブルが終わり、なんとなく日本の経済力にも限りが見えて、ゆとりというよりも世の中が二極化が顕著になった時代という感じがします。豊かである層と豊かでない層が分かれ、英語学習も留学などの機会があり、国際的な視点で学ぶ人と、そうではなくなんとなく英語を学校で学ぶ人とあり、就職などの関係で英語力の資格を目指すような学習が盛んになったことと、実際に英語を使う活動が重視されるようになったと感じています。英語学習も二極化したと考えています。

英語学習へのゆとり教育の影響というのは、ほぼないでしょう。影響があったのは理数教育です。これは大きな問題でした。多くの国が理数教育は大事にしました。しかし、日本は、文系理系というような方向性を早くに示し、理系の科目や入試に関係のない科目を犠牲にして、英語などの科目を多くしました。その歪みが、国語や社会やその他の科目の削減に向かいました。選択制を取り組むことで、高校からは理数系を選択しない学生が増えました。これが、たぶん「ゆとり」と言われる批判を浴びたと思います。社会も、どちらかと言うと景気が悪いにもかかわらず、競争など厳しいことがよくないとされ、全体的に上昇志向が薄らいでいたと思います。

国際学力調査の結果などは、「ゆとり教育」の批判の理由にうまく利用されました。「英語が使える日本人」の育成などのキャンペーンもありました。これには自分自身もかかわっていたのであまり批判できませんが、英語ができればいいというような偏った考えが根づいたかもしれません。また、英語力を伸ばせばいいという教育、あるいは、実際にコミュニケーション能力が見える形の教育に偏り、それによって海外で活躍できると安易に考える傾向もあったように思います。本来は、英語だけではなく、多様な力を身につけることが大切ですが、そのような知識や態度を身につける機会が「ゆとり」により軽視されたかもしれません。当然、知識の詰め込み、基礎の定着、教養などということが叫ばれたと思います。

さて、「ゆとり」は英語でうまく表現することができません。「生きる力」「豊かな心」という文部科学省の方針のもとで使われた用語です。私は「ゆとり」をresilienceとflexibilityと関連させて捉えています。 stess-freeとかpressure-freeと下ではないです。spare timeとかpastimeという意識かもしれません。resilience (= the capacity to withstand or to recover quickly from difficulties; toughness)(Oxford dictionary)は「回復力、弾力性」というように日本語に訳されています。flexibility (= the quality of bending easily without breaking)(Oxford dictionary)は「柔軟性」とされています。「ゆとり」はその意味に近いと当時も今も考えています。決して手を抜いたり、遊んだりしたというおぼえはありません。生徒もそうでした。今よりは少しゆっくり考える時間があったように思います。その意味での「ゆとり」でした。

このような「ゆとり」は、創造性(creativity), 適応性(adaptability), 情緒(emotion), 自信(confidence), 関係性(relationships), 知識(knowledge), 学習(learning), 問題解決(problem solving), 積極性(proactivity), ウェルビーイング(wellbeing)につながります。しかし、日本は目の前の学力低下などに目が向き、江戸時代以来の伝統的な古いタイプの学習に固執します。学校教育は依然として過去の成功体験にしがみつきます。フィンランドが1970年代に転換したような教育改革は日本にはできないのです。実際、文部科学省は、学習指導要領の伝統を捨てられないで、どんどん積み重ねていきます。教育はどの国にでもそれほどうまく行きません。絶えず変化があります。それに敏感であるべき教師が主導できない体制では、教育にはある意味で「ゆとり」が必要です。


夏の宵 暑さしみじみ ゆとりあり