2025年3月31日月曜日

Class hours / 授業時数  2025年3月31日(月)

このビデオの話はよくわかりませんが、カリキュラム・オーバロードという問題もあるのかと思いますが、本質は違うような気がします。それほど授業時数にこだわる理由が私にはちょっとよくわかりません。


学校の授業の回数とか時間数とかについて、日本は少し厳しい基準を設けています。時間に厳しい(punctual)な社会だからかもしれません。私もすっかり癖になっているので、時間は比較的守ります。が、いい加減な人もいるし、国によってはかなり柔軟な考え方をしています。今朝の新聞の記事に、小学校や中学校の授業時数のことが書いてありました。「大幅超過」と見出しがありました。教師が足りないと言っているこの時節、授業がやり過ぎということです。本当にそうなのかな?と私は思います。

というのは、授業ってそんなに時間通りに何かをしているわけではなく、学習自体を決められた枠で測ることは意味があるのかと思います。たとえば、50分の授業で先生が課題を出して40分経って、10分それについて説明し、生徒もそれで満足し、宿題もなく、課題も確認しません、というような授業と、50分間先生が話し、黒板にいっぱい書いて、生徒はそれをノートに取りました、というような授業と、生徒が課題についてグループワークをして、成果を発表した、という授業などを、比較するとします。それって同じ時間数と考えるのは、無意味だと思いませんか。

教師や教育に携わっている人はわかると思いますが、授業と一口に言っても多様です。考える、作業する、ものをおぼえる、訓練する、動く、数える、描く、読む、書く、話す、聞く、メモをとる、コンピュータを操作する、鑑賞する、演奏する、スポーツする、遊ぶ、作る、助けるなどなど、多様です。何時間それに携わるかで単位を認める、修了する、という種類のことではない場合も多々あります。知識をテストする、技能をテストするなどは、時間数では測ることではなく、できたかできないか、です。

ある科目に標準授業時数の目安を決めることは意味があります。目標をたて評価する場合、学習する内容などを計画します。それは授業の中で修正しながら進み、目標にどの程度近づいているかで評価をします。そのために標準時数を設定することは意味があります。しかし、実施時数を数え、それが足りないとか足りたとか増えたとかいうことをとやかく言うのは本末転倒です。そのようなことを、きっちり守ることにどれだけの意味があるのかは疑問です。

    School Hours Around The World


多くの国で、授業日や時間数はよく比較されます。しかし、実施時間数を綿密に記録して、それを守っているケースはおそらく少ないと思います。そのようなデータはないのではないか、あったとしても正確だとは思えません。生徒からしたらかなりバラツキがあり、先生からしても実際どのように教えているかは量的に確認するのは困難です。教師が説明する、課題をする、グループで活動する、個人で活動する、図書館で作業する、外に出て観察する、作文を書く、など、そのような量的な時間を記録することは、ほぼ無意味です。つまり、授業時数は学習時間数ではなく、物事を理解するのに早い子もいれば遅い子もいるなど、ばらつきが多過ぎます。

個人的な経験ですが、ふつうの人よりは世界中の多くの授業を見てきました。授業時間に関して決して厳密ではありません。学習内容も様々です。教師が差配することが多く、時間割も多様ですし、教師も休むあるいは出張することが多々あります。その様子を見ると、かなり柔軟です。大切なことは、生徒の学習で、障害があり支援が必要な生徒など、移民の生徒などの対応に重点をおいていたりします。生徒の欠席についてもそれほど重視しません。大切なことは学習したかということです。

文部科学省がどのように考えているのか知りませんが、大学でもコマ数と言って授業確保に躍起になっています。数年前のコロナの頃、ある大学で教育実習を担当していた時の文部科学省の対応を思い出します。教育実習に行けなくなった学生の、それに匹敵する授業数や代替する課題数などを細かく提出したことをよく覚えています。大学の事務方などの対応が訳のわからない対応をしようとしたので、私の方で、その学生にとって意味のある内容を時間数とその証拠を資料としてまとめて提出しました。特に文句は言われませんでしたが、結局文部科学省は書類があればそれでよいということです。これは、この標準授業時数の問題と同じ対応です。

こんなことばかりしている日本は、いつか滅びます。


年度末 虚しい気持ち さくら見る



 

2025年3月30日日曜日

Walk / 歩く  2025年3月30日(日)

     Do you really need to take 10,000 steps a day? - Shannon Odell

私はほぼ毎日歩きます。歩くのが好きかというとそうでもありません。できれば部屋でゴロゴロしているのが好きでした。しかし、最近は、それもつらいです。寝ているか椅子に座っているかが多いかもしれません。椅子に座ってテレビを見るかパソコンに向かっているかどちらかです。机に向かって座ることは最近あまりありません。そのために、外に出るとできる限り歩きます。

Why Walking Helps Us Think

というThe New Yorkerの記事を読みました。身体を動かすこと、歩くということ(walking)と書くということ(writing)は、考えること(thinking)と強く関係するという記事です。その中で次のように述べています。

Such maps clarify how much these novels depend on a curious link between mind and feet. Joyce and Woolf were writers who transformed the quicksilver of consciousness into paper and ink. To accomplish this, they sent characters on walks about town. As Mrs. Dalloway walks, she does not merely perceive the city around her. Rather, she dips in and out of her past, remolding London into a highly textured mental landscape, “making it up, building it round one, tumbling it, creating it every moment afresh.”

確かに誰もが経験することです。歩きながら考えていて、どこを歩いているかも記憶がないとか、景色を見ながら違うことを想起していたりすることです。次のようにも述べています。

Perhaps the most profound relationship between walking, thinking, and writing reveals itself at the end of a stroll, back at the desk. There, it becomes apparent that writing and walking are extremely similar feats, equal parts physical and mental. When we choose a path through a city or forest, our brain must survey the surrounding environment, construct a mental map of the world, settle on a way forward, and translate that plan into a series of footsteps. Likewise, writing forces the brain to review its own landscape, plot a course through that mental terrain, and transcribe the resulting trail of thoughts by guiding the hands. Walking organizes the world around us; writing organizes our thoughts. Ultimately, maps like the one that Nabokov drew are recursive: they are maps of maps.

「歩くという行動は世界を構成し、書くということは思考を構成する」とあるように、私が歩くのは自分がいまある存在を確かめているような気がします。歩かないと脳がそれを理解してくれないような気がします。知らない場所に旅をすると、まず歩いて確認します。そうすると脳にも地図ができます。書くという行為は最近あまりしてません。このようにタイプします。実際の手書きとは違いますが、考えます。ときどき、メモを取ります。ぐちゃぐちゃなメモですが、私の脳にとってはとてもいい感じで記憶に残ります。私は字を書くのは嫌いで、絵とか図を描きます。その方が理解しやすいのです。

似たような表現で、「知行合一」(知識と行動はいっしょ)という陽明学で有名な王陽明が唱えた考え方とされていますが、確かに知識だけでは意味がないでしょう。知るということと、それと関係する行いは多くの場合いっしょの方が適切です。それと似た言葉で、「主客合一」(主観と客観はいっしょ)と言ったのは西田幾多郎です。自然科学では客観が重視されています。主観は科学的分析には適さない、人によって違うからということです。西田は、主観と客観はいっしょといいます。分けることはできないという主張です。このような考えは当時から強く多くの人が言っていますが、これはなかなか証明することができません。

歩くことと書くことなど、人間の行動が脳と関係することはある程度証明されています。しかし、思考にどう影響するかは微妙です。しかし、私は、歩くことは、私が考えることに大きな影響を与えていると実感します。書くということは、たぶん、手を使うことが脳と関係しているので、それが思考に影響を与えると考えることができます。しかし、これらは証明されてはいないでしょう。そうではない場合も多々あるからです。歩くことも書くこともできない人でも考えることはできます。

さて、それはどうでもいいことですが、私は歩きます。雨でない限り毎日歩きます。階段も登ります。走ることは最近やめました。考えたいからです。景色が見たいからです。特にこの時期はサクラやその他の花がみんなきれいでこころが和みます。


空の青 川の青にも あたたかし






2025年3月29日土曜日

The school year /学校の年度 2025年3月28日(金)、29日(土)

日本の学校の年度は、4月1日に始まり、3月31日に終わります。昔から、日本の年度はこの方式です。1886年(明治19年)からこのようになり、そのままです。特に理由はありません。しかし、いつの間にか、春は入学式と桜というイメージが定着し、歴史となりました。欧米に合わせて9月入学としてはどうかという意見が昔からあります。理由は、留学に不利だということです。しかし、大筋変わりません。学校の9月開始は本当に世界標準なのでしょうか?

結論から言うと、決まりはまったくなく、国によってかなり違います。たとえば、合衆国、イラン、メキシコは9月〜6月、オーストラリア、ブラジル、ナイジェリア、南アフリカは1月〜12月、中国は9月〜7月、コスタリカは2月〜12月、フランスは8月〜6月、ロシアは9月〜5月、韓国は3月〜2月、エジプトは10月〜5月、インドは6月(7月)〜2月(3月)などなど。年度という概念がない国もあります。学期で動いている国もあります。要するに、4月から始まり、3月に終わるという年度にデメリットはないということです。

この時期は教育の中にどっぷりと生きてきたので、身体に染みて少し気分が違います。なぜなんだろうと思います。70年間のうちで、小学校ちょっと不登校の私でも、60年間以上は生きてきました。いまはこうしてまったく関係なく生きています。昔は学校というところは嫌いで、機会があればサボることばかり考えていました。教師になっても基本的にそれほど好きな場所ではありません。生活のために働いていました。しかし、子供や生徒と接するのは嫌ではありません。むしろ関わりたいと今でも思います。

幸い、少し関わる事ができているので楽しいですが、この時期が嫌になる子どもたちもたくさんいます。学校という制度に縛られていると、そのレールから離れると、もう戻るのは至難の技です。多くは、「勉強が嫌だ」とかいうことではなく、レールに乗っていることが嫌なのです。入試のシステムは相変わらずプレッシャーです。また、友達との関係もプレッシャーです。不登校や自殺や非行など相変わらずです。どんなに助け舟を出そうともシステムが変わらない。

私は、ギスギスすることが嫌いです。多様な考えを包含する柔軟なシステムが、人が豊かに生きるためには必要です。そこでもまたギスギスしますが、さらに柔軟な対応をすることがカギだと思っています。厳密、厳密、となると絶対にうまくいきません。ルールが支配する社会はやはり息苦しいのです。教育は人をコントロールすることではなく、それぞれの生き方を支援することです。それとともに社会全体を可能な限りよい方向に導くことです。そのためには、過去にしがみつくのは得策ではありません。ゆるやかにしなやかにたおやかにやっていきたいと思います。


蒲公英に そっと尋ねる 楽しいね



2025年3月27日木曜日

Philosophy / 哲学 2025年3月27日(木)

退職してから、哲学(philosophy)の本をよく読むようになりました。多少時間ができたので、読書や趣味をしています。哲学は奥が深く、結局言葉と思考の遊びで、厳密さが要求されているようです。哲学自体は、西洋哲学が基盤です。その歴史は、The Basics of Philosopyが簡潔(と言っても長い)に記述しています。私は、単純に、ギリシャに始まり、ローマ時代からキリスト教が入り、神学(theology)と交わり、イスラム教は別に発展していますが、近代の西洋哲学へと発展していったと理解します。東洋あるいはその他の地域でも哲学や宗教はもちろんありますが、それとは流れが違います。

日本は、江戸の頃までは、日本古来の思想に、インドや中国からの思想が影響を与え、独特に発展してきましたが、明治から、西洋に追いつけという方針で、科学技術だけではなく、法律、経済、社会、文化などの仕組みを取り入れ、学術的にも、哲学なども重要な分野となりました。西洋も同様で、東洋などの考えも取り入れ、少しずつ変化してきました。が、以前として日本の「哲学」は、philosophyとはなっていないように感じます。なっていないというか、やはり違うという感じがします。

現在、西田幾多郎の「善の研究」を読み出しました。読みながら、その苦労を実感しています。自然科学(natural science)の発展により、哲学も存在論(ontology)と認識論(epistemology)という大きな区分で発展してきました。西田の思想は、やはり、日本的な思想であり、哲学なんだと思います。少ししか読んでないので、あくまで現時点ではそう感じています。西洋が、「存在とは何か?」「知識とは何か?」という問いを追求しているのにたいして、日本の思想は、「人はどう生きるか」「日のこころとは何か?」などの問いが中心となっていて、人なくしては考えも何もない、というような傾向があります。西田幾多郎の哲学もそれにあたると思います。「善とは何か」という問いから、純粋経験ということから議論を始めています。

私は、哲学というのを誤解しているのかもしれませんが、単純に「考えること」と理解していました。「知を愛する」がphilosophyという英語の意味と言われています。しかし、いろいろな書籍を読むと、どうも違うようです。哲学的方法論や数学的な思考や先行文献主義などについて、やたらとうるさいです。哲学の専門については、その作法を知らない人には何も言わせない、あるいは、わからないように操作しているようにしか見えないものもあります。特に、日本語の翻訳はそうです。英語の方がわかりやすい。たとえば、現象学的還元は英語で、phenomenological reductionと言います。reductionの辞書的な意味は「削減」です。還元の意味にありますが、還元は「元に戻す」という意味です。ちょっと違います。ある説明では、現象学的還元を「確信の成立の条件と構造」と説明しています。これはよくわかりません。専門家的に言うとそうなのでしょうが、たぶん、「現象をスッキリとする」というのが現象学的還元のことだと、私は理解しています。

哲学は私たちの生活でとても重要です。最近の世相を見ているとそう思います。いろいろな現象が極端に歪曲されて理解され、意見の対立が起きているような気がします。もっと物事をスッキリと正確に見て合意形成をして、よく生きる(wellbeing)をするには、哲学は重要だと考えます。


春霞 哲学しよう 気分よく

 

2025年3月26日水曜日

Starting over by John Lenon  2025年3月26日(水)

本日はJohn Lenonの歌だけでお願いします。好きな歌です。もう知らない人も多いのでしょうね。

 (just Like) Starting Over

Our life together is so precious together

We have grown, we have grown

Although our love is still special

Let's take a chance and fly away somewhere alone

It's been too long since we took the time

No-one's to blame, I know time flies so quickly

But when I see you darling

It's like we both are falling in love again

It'll be just like starting over, starting over

Everyday we used to make it love

Why can't we be making love nice and easy

It's time to spread our wings and fly

Don't let another day go by my love

It'll be just like starting over, starting over

Why don't we take off alone?

Take a trip somewhere far, far away

We'll be together all alone again

Like we used to in the early days

Well, well, well darling

It's been too long since we took the time

No-one's to blame, I know time flies so quickly

But when I see you darling

It's like we both are falling in love again

It'll be just like starting over, starting over

Our life together is so precious together

We have grown, we have grown

Although our love is still special

Let's take a chance and fly away somewhere

Starting over

Starting over 「やり直し」は、好きな歌です。そのままと言えばそのままで、JohnとYokoのその時なのでしょう。しかし、私はこの歌を聴くと、単純に「やり直そう」という気になります。

やり直したいことはたくさんあります。「人生が二度あれば」などといつも思います。しかし、それはないわけです。いつもその時その日を何があっても生きていかなければならないのは事実です。「後悔先に立たず」もその通りです。でも「もう一度二人でやり直そう」というのは、虚しい響きです。John Lenonはそれをあからさまに歌っています。また、それが嫌味なく、私のこころにスッと入ってきます。これは何なんでしょうよう。


里桜 やり直しなし 開花かな


2025年3月25日火曜日

Wildfires / 山火事  2025年3月25日(火)

山火事(wildfires)が起きています。乾燥していると自然に火事は起きます。オーストラリアなどの乾燥した木々があるところでは日常的で、bushfiresと呼ばれています。ちょっと前のLos Angelsの山火事の被害は悲惨でした。日本でも先日の大船渡、現在の今治、岡山の火事は心配です。日本の場合は、日の不始末が原因ではないかという噂がありますが、それはそれとしても乾燥が大きな要因でしょう。

数年前に、多摩川河川敷でもちょっとしたボヤがありました。私は散歩中だったので、消防に通報しましたが、多くの人がすでに通報していて、すぐに消防が来て消化しました。その時は確かに乾燥していたので、燃え方は早かったです。消失面積はかなりありました。翌日になっても木から煙が出ていました。

以前、軽井沢に山小屋を持っていたときに、暖炉の灰を捨てるときは気をつけていたのをおぼえています。しっかりと消火しないと危険です。一度消火したと思った灰がもとでまた燃えていたのを見たことがあります。山や森での火の不始末は確かに危険ですが、やはり乾燥が大きいです。日本はそれほど大きな山火事はあまり聞いたことがありませんが、よほど乾燥しているという異常気象が大きな原因であるのは間違いありません。それに加えて、山火事を広げるのは、風です。

NASA Earth Observatory を見ると、firesについての世界の状況を見ることができます。本日のサイトを見ると、韓国の山火事が紹介されていました。もちろん、日本の大船渡も紹介されています。

Wildfires frequently occur in Japan between January and May, when the air is drier, but they tend to be much smaller in size than the one burning in early 2025, according to news reports. However, conditions were unusually dry leading up to this event. Ofunato received only 2.5 millimeters (0.1 inches) of precipitation in February 2025, the lowest monthly total for February in a record going back to 1964. Strong winds that fanned the flames and steep terrain that challenged containment efforts also contributed to this fire’s growth, experts told news outlets.

Fireということで世界中の山火事が2000年から2025年までどこで起きているかを見ることができます。それを見ると日本はほとんど目立ちません。アフリカ、アジアなどが目立ちますが、世界中で起きています。

On Earth, something is always burning. Wildfires are started by lightning or accidentally by people, and people use controlled fires to manage farmland and pasture and clear natural vegetation for farmland. Fires can generate large amounts of smoke pollution, release greenhouse gases, and unintentionally degrade ecosystems. But fires can also clear away dead and dying underbrush, which can help restore an ecosystem to good health. In many ecosystems, including boreal forests and grasslands, plants have co-evolved with fire and require periodic burning to reproduce.

それによると、枯れ木などをきれいにする意味では効果的であると書いてあります。

10年以上前にLA に行ったとき、山並みに煙を見ました。「火事ですか?」と尋ねると、ドライバーは「いつものことです」と応えたのをよくおぼえています。野焼き(field burning)は農業で多く行われていますが、二酸化炭素の放出という点で課題もあります。ある意味で昔から必要に応じて自然の火事は発生しています。人間は火と付き合って生きてきたので、このような山火事の被害が気になるようになってきたのは、おそらくその付き合い方がよくない、あるいは、気候が変動していることに人間が追いついていないということになるのかもしれません。


山焼きや あれこれ想う 新学期




2025年3月24日月曜日

Parental controls / 子どものネット使用規制  2025年3月24日(月)

子どものインターネットやソーシャルメディアの使用が問題になっています。このような問題はいつの時代もあります。本、雑誌、映画、劇場、ゲームセンターなどなど、あげればキリがありません。これらは確かに規制されてきました。管理者を特定したり、場所を制限したり、親の管理のもとで、子どもを排除することが比較的やりやすかったと言えます。それでも、どうしても漏れることもありますが、子どもとの知恵比べで、社会的にも一つの成長のための壁のような存在として機能してきました。

しかし、インターネットが登場して、それが学校でも導入され、学習の欠かせない道具となりました。インターネットやソーシャルメディアも制御できないわけではありませんが、個人と個人がつながり、それが他者の目に触れないようにすることが容易になり、管理者が世界中となり規制がほぼ困難になっています。メディアリテラシーが叫ばれて久しいですが、個人個人の欲求までは、単なる社会道徳だけでは制御できません。ネット上のカジノは法律違反だと言っても説得力がありません。大麻もそうです。子どもを親の管理下でコントロールすることも、統一教会の問題もあり、「子どもの権利条約」などについてもきちんと理解する必要があるでしょう。

オーストラリアでは、ソーシャルメディアの使用を制限しようとしています。しかし、ネット社会で育っている若い人は否定的です。情報にアクセスすることをどのように制限しても、おそらくそれは破られます。法律を破ったら罰則を与えるという対応がどれだけ効果があるかは疑問です。「子どもたちで話し合って使用方法を考えさせて決めよう」という安易なことを言う人もいますが、それが効果的である場合は、おそらく何もしなくても、よくないメディアにはアクセスしなくなると思います。ある一定数の子どもはそんなことをしても使うでしょう。

私の結論は、事実を的確に伝えることがまず大切だと思います。犯罪などに巻き込まれないように守る、ゲームばかりをしていればどうなるかを伝える、カジノや性的なサイトを閲覧すると被害にあう可能性があることを伝える、ネット社会は実際の社会と同じで悪い人は必ずいるから気をつける、ネットはマインドコントロールの罠に陥るから気をつける、YouTuberはネットの中で育つわけではない、などなど、私たち大人が陥りやすいことが、そのまま子どもに波及するので、大人も子どももネットの悪い点をきちんと知ることが大切でしょう。

それを理解して、これから社会はネット無くしては生きていける社会ではないということを学び、メディアリテラシーを学習し、それが有効に使えるようになることが重要だと思います。学校は、そのようなことも学ぶ場です。これからはコンピュータの知識や技能は必要です。プログラミングもけっこうですが、ネットを活用する技能を確実に身につけるように工夫するカリキュラムが必要でしょう。また、そのための教員研修も必要でしょう。その際に「〜すべき」という道徳論で処理するのはよくないと思います。事実をしっかりと把握して、適切な思考と行動が重要になると思います。


木の芽ふく 山野に力 ありありて 




2025年3月23日日曜日

The cat / 猫  2025年3月23日(日)

猫を飼っています。トンキニーズ(Tonkinese) という種類です。Purinaでは次のように説明されています。

Tonkinese

The Tonkinese is an Oriental type cat with a gently rounded head that has large, open eyes that range from green to light blue in colour. Ears are broad and set wide apart giving this cat an intelligent expression. The Tonkinese or ‘Tonk’ has a firm, muscular body that is long and lean, this is accentuated by the very short, fine coat that lies close to the body and has an incredibly silky texture. Overall, this is a very attractive and ‘neat’ cat, without the extremes of some of the Oriental types.



説明にあるような猫ではなく、「どんくさい」猫で、内気で閉鎖的な性格です。いわゆる「家猫」で外の社会を異常に怖がります。私にはまったく懐いていません。毎日のように私を見ると逃げます。が、追っていくと、ある場所に行くとお腹を出してひっくり返ります。お腹をさすってやると喜び、満足するとまたどこかに行きます。ほぼ毎日その連続です。

猫と犬はどちらが好きかと言えば、猫です。犬は嫌いではないですが、いまままで3回噛まれたことがあるので、自分から寄っていくことはありません。多摩川の河川敷を歩いていると、犬を散歩に連れている人が多いです。犬を放し飼いで散歩させるのは禁止されているはずですが、リード(leash)をつけないで多くの犬が遊んでます。私は何度かその放し飼いの犬に吠えられます。なぜかわかりませんが、私の気持ちを読めるのでしょう。以前は、ある女性の人が、犬にリードをつけないで散歩させている人に向かって、「今度見たら殺すからね!」と叫んでいたのを記憶しています。マナーは守っていただきたいですが、ケースバイケースですね。

猫はその制約を受けませんが、私の住んでいる地域ではほぼ多くの人は家猫のようです。野良猫はあまりいませんが、ときどき見かけます。そのような野良猫に餌をあげている人が以前いましたが、町内会の人が「野良猫には餌をあげない」運動をして、最近ではそのような行為はなくなりました。

10年くらい前に、LAに行ったとき、バスの中で子犬を抱えている人と話したことがあります。その際、その人は精神的な病気があり、犬は彼のtherapy dogで、この犬がいないと困ると言っていました。その人はごく普通の人でしたが、親切な人で私を私が探していた本屋さんまで犬といっしょに案内してくれました。日本ではそのようなtherapy petを連れて歩っている人はまだ見たことがありません。

What to know about animal therapyでは、次のように説明されています。

Animal therapy or pet therapy refers to the use of animals as a way to help people cope with and recover from some physical and mental health conditions.

日本でも、アニマルセラピーとして多くの団体があり、かなり浸透しているようです。代表的なペットは、犬、猫、馬、うさぎらしいですが、日本では欧米に較べるとまだまだという感じです。英国のPets As Therapyを見ると、ボランティアなども参加してかなり活発に活動しているように見えます。

素人考えですが、ペットは癒し効果は高いので高齢化社会の日本ではこのような考えはもっと広まってほしいと思います。

私も高齢者です。我が家の猫とどちらが先に死ぬかという心配もあります。高齢者がペットが飼うのは避ける傾向はありますが、高齢者こそペットに癒される必要があるでしょう。しかし、日本では衛生面などで医療からは遠ざける可能性が大です。コロナの際には、高齢者施設では家族にも会えない厳しい状況があり、現在でも感染を恐れて面会が許されない場合も多々あります。

私は、猫に嫌われていても、猫にそばにいてほしいと思います。


花があり 猫いる家で 暮らしたい




2025年3月22日土曜日

Soseki Natsume Sanshiro / 『三四郎』夏目漱石  2025年3月22日(土)

     Book Review | Sanshiro by Natsume Soseki

夏目漱石は、私の世代の人ならば誰でも知っている作家です。今回は、『三四郎』について書きます。『吾輩は猫である』『坊ちゃん』などとともに初期の作品で、いまままでちゃんと読んだことはなかった小説です。なんとなく話は知っていましたが、今の時代にはとても合わないかと思いましたが、意外に読んでみると新鮮な驚きがあります。

『三四郎』の冒頭は次のように始まります。

うとうととして目がさめると女はいつのまにか、隣のじいさんと話を始めている。このじいさんはたしかに前の前の駅から乗ったいなか者である。発車まぎわに頓狂な声を出して駆け込んで来て、いきなり肌をぬいだと思ったら背中にお灸のあとがいっぱいあったので、三四郎の記憶に残っている。じいさんが汗をふいて、肌を入れて、女の隣に腰をかけたまでよく注意して見ていたくらいである。...

三四郎が、熊本から東京に出てくる場面から始まります。小説は、その東京で三四郎が経験する様々な経験を描いています。話は単純であるが、その人生模様の描写が、巧みなプロットと文体で物語られています。この冒頭の部分だけで、背景がよくわかり、話がどう展開するのかが予想されます。田舎から上京する青年が、ドロドロとした世俗的な世界から、教養ある洗練した学問の世界へと入りながらも、そこでうまく表現できない感情に揺れる微妙な様子を、淡々と描いています。特に事件が起こるわけではないのに、東京大学周辺の環境を舞台に、日本語でうまく描いていることが、その世界に引き込みます。

東京大学にある有名な「三四郎池(育徳園心字池)」に行くと、美禰子との出会いが想像できます。三四郎が彼女を池の辺りで見かける場面はこうです。

と目を上げると、左手の丘の上に女が二人立っている。女のすぐ下が池で、向こう側が高い崖の木立で、その後がはでな赤煉瓦のゴシック風の建築である。そうして落ちかかった日が、すべての向こうから横に光をとおしてくる。女はこの夕日に向いて立っていた。三四郎のしゃがんでいる低い陰から見ると丘の上はたいへん明るい。女の一人はまぼしいとみえて、団扇を額のところにかざしている。...

感動的に描いているわけではないが、この出会いから物語が展開し、「迷える子(stray sheep)」が二人のキーワードとなります。この展開には多様な意見がありますが、私は単に三四郎のような経験を他の人たちも大なり小なりするので、共感を与えるのだと思います。誰もが迷って生きているということでしょう。変に感情的に描くのではなく、静かに描くが、その背後に人間の複雑な感情や思考が、的確に描写されているのは、漱石という人はすごいと思わせます。「三四郎」のテーマは、人によって印象が違い、多くの人がそれぞれの分析をして議論されています。私は単に構成上の巧みさが、漱石という作家を偉大にしたとは思いません。というよりは、文章がとても上手ということが、やはり後世まで多くの人に読まれている要因だと思います。

最近は、このような小説を朗読で聞く(読む)ということをよくします。自分でも黙読するのは違う感触が得られます。つまり、メディアが違うと理解も変わります。朗読をする人によってもたぶん変わるのでしょう。私は、英語の舞台が好きです。特にShakespearは読んでもわからなかったことが、舞台を見たらよくわかることがたびたびありました。その点から漱石の小説は、読むよりも聞くほうがいいのかなと思います。「ごゝろ」もそうでした。漱石はその意味で何度読んでも何度聞いても味わいのある作品が多いと勝手に思います。死ぬまでにすべてを再度聞きたいと思っています。


迷い道 三四郎池 朧月 

2025年3月21日金曜日

The Way I should be in spring / 阿留辺畿夜宇和〜春  2025年3月21日(金)

とても暖かい春らしい日です。春になるとさくら(sakura)が咲き、さくらだけではなく多くの花が芽吹きます。私の家の前のあんず(apricot)は満開です。この日記は「阿留辺畿夜宇和」が基本です。退職して3年目が終わります。が、阿留辺畿夜宇和という生き方をしたいのですが、そういうわけにはいかず、しがらみから抜け出せません。「こうしたい、ああしたい」としたいことはいっぱいありますが、結局何一つできない状況です。

NPO CLIL教員研修研究所(CLIL-ite)を設立するのに1年、NPOの目的に沿った活動を1年、活動を整理して1年、ようやく落ち着いて活動活動できるはずの1年が始まろうとしている段階ですが」、そうもいかず妥協の産物となりつつありますが、阿留辺畿夜宇和で進めるしかありません。本来描いた活動とはなっていませんが、多くの人の支援でなんとか活動していけることを感謝しています。

CLILは、ヨーロッパで生まれた教育です。当初出会ったときはとても自然で無理のないいい考えだと思いました。熱心に推進している先生方を見て、日本で始めようと考え、仲間と研究会を立ち上げ、学会を作り、研究所を作りました。あっという間の10年です。好きなことを好きなようにすることが自分の阿留辺畿夜宇和です。明恵上人が高山寺を開いたこととは比較になりませんが、私は私なりに精一杯やってきました。

考えてみると、何かを始めるのが好きなんだと自分の特性を理解しています。高校の教員のときは、SUREという埼玉大学ゆかりの会を1年間の長期研修で世話になった渡辺益好先生と真尾正博先生の働きかけで設立しました。5〜6年活動したと思います。その後、大学英語教育学会(JACET)では、言語教師認知研究会を始めました。現在も長嶺寿宣先生に引き継いで活動しています。そしてJ-CLIL(日本CLIL教育学会)、NPO CLIL-iteと運営して今日に至っています。そのほかにもフィンランドの教育をゆる〜く考える会なども一時期開催していました。

2025年の春となり、70年生きてきて、振り返ってみれば幸せな日々です。あと何年生きられるかわかりませんが、毎日毎日を楽しく生きることが、現在の目標です。「楽しく」の意味はそう簡単に説明できませんが、私の気持ちとして「楽しく」です。笑って過ごすことではなく、美味しいものを食べてすごすでもなく、酒を飲むでも、遊びをするでもありません。気分が「楽しく」です。つまり、明恵上人のように阿留辺畿夜宇和で行きたいのです。


長閑なる スヤスヤ眠る 孫の顔


2025年3月20日木曜日

The Tokyo subway sarin attack / 地下鉄サリン事件  2025年3月20日(木)

今日は30年前に地下鉄サリン事件が起きた日です。 1995年3月20日朝に起きた地下鉄サリン事件(the Tokyo subway sarin attack)は、1月の阪神淡路大震災に続いて衝撃的な出来事でした。オウム真理教(Aum Shinrikyo)はカルト集団で依然として組織は名前を変えて存在しています。

当時私は、高校の教員で教務主任を担当していて、仕事を一所懸命していた時期です。学校にも夜遅くまでいました。家庭では悪い人だったと思います。娘から時々家にいない家庭についてその後によく言われました。学校の仕事も、授業も、研究も、部活も、すごく働いていた時期です。被害にあった地下鉄は通勤では使っていなかったのですが、日比谷線や千代田線はよく乗っていました。

サリンという物質もそのときに知りました。集団無差別殺人を起こそうという心理が私にはよくわかりませんでした。当時はオウム真理教の信者がテレビに出てワイドショーなどで世間の人の多くが知っていましたが、言葉巧みに語っていたのをよくおぼえています。ある程度優秀と思われる人が、カルトに夢中になり、一人の人を神格化して、その詭弁に従ってしまうというマインドコントロールの恐ろしさは、教育という職をしている自分のこともふりかえりました。よく考えると、私もマインドコントロールのような状態にあった時期もありました。

サリン(sarin)についてはちょっと考えてみたらあまり知らないことに気づきました。そこで調べてみました。アメリカ合衆国のCDC(the Centers for Disease Control and Prevention) は病気への対処や予防などの最新の情報を提供してくれる機関です。そのCDCによると、Chemical Emergenciesという表現で説明しています。

A chemical emergency happens when a hazardous chemical is released and the release could harm people's health.

Chemical emergencies can happen because of an accident, such as a train derailment, or through a deliberate release such as a terrorist attack.

If a chemical emergency happens, take steps to protect yourself and your loved ones

危険化学物質として次の物質が紹介されています。詳しくは下記のサイトをチェックしてください。

Chemical fact sheets

Ammonia   Arsine  Benzene   Bromine   Chlorine

Cyanide    Hydrogen Fluoride   Lewisite

Mustard Gas  Nitrogen Mustard   Paraquat

Phosgene   Phosgene Oxime   Ricin  Riot Control Agents

Sarin

Sodium Azide   Soman    Strychnine   Tabun   VX


サリンについては次のように説明されています。

Sarin is a clear, colorless, tasteless liquid with no smell. Sarin can evaporate into a vapor (gas) and spread into the environment.

これでは防ぎようがありません。が、次のような症状があるそうです。


Abnormally low or high blood pressure

Blurry vision  Chest tightness    Confusion   Cough

Diarrhea, nausea, vomiting, and/or abdominal pain

Drooling

Difficulty breathing, shortness of breath, and/or wheezing

Drowsiness   Eye pain and/or tearing

Excessive sweating    Headache   Increased urination

Muscle cramps   Rapid breathing   Runny nose

Slow or fast heart rate   Small, pinpoint pupils

Tremors   Weakness


Loss of consciousness

Cardiac arrest possibly leading to death

Coma   Convulsions   Paralysis

Respiratory failure possibly leading to death

Seizures   Twitching

一つ気をつけておくことは、おかしいと思えば、空気より重いので、高い場所に移動することだそうです。それと身体に触れていると害を及ぼすので、すぐに服を脱ぎ、身体を洗い、手当を受けることだそうです。しかし、どう考えても意図的にサリンが使われると逃れようがないことがよくわかります。

当時は、サリンのことなど医療機関で知識がなく、対応が遅れたと聞いています。30年前の出来事ですが、依然として被害は続き、まだまだ解決していません。災害も紛争もそうですが、人間は恐ろしいことを平気でしてしまう危険な動物です。化学兵器は実際開発されていることは予想できます。また、核兵器もそうですが、現状では個人で開発することも可能です。最近のソーシャルメディアの利用で、信じられないような情報操作があり、それを多くの人が信じてしまうようなことが頻繁にあります。

何が本当で何が嘘かなど判断はむずかしい時代になりましたが、大切なことは、やはり常に批判的な思考(critical thinking)を心得ておくことだと思います。


正しいか 正しくないか 彼岸かな

2025年3月19日水曜日

Major League Baseball / 野球  2025年3月19日(水)

大谷、山本、佐々木、鈴木、今永各野球選手の活躍でベースボールが盛り上がっています。昔と較べるとすごいことだと思いますが、考えてみれば、「憧れるのはやめましょう」はその通りだなと実感します。日本はいつもアメリカ合衆国を見てきました。私が生きている世代はそうです。戦争に敗れて何でもかんでもアメリカでした。おそらく日本だけではないですが、世界がそうかというとそうではありません。その象徴がベースボールです。

The National Baseball Hall of Fame and Museumを見るとその成り立ちがよくわかります。Baseballは合衆国の独立戦争(the Civil War)から始まります。

Cooperstown has become a synonym for “baseball” – thanks to a story about a Civil War general and the country’s love for a timeless game.

From the Civil War to Civil Rights and all points in between and beyond, the game of baseball reflects American life, from culture to economics and technological advances. It inspires movements, instills pride and even heals cities.

しかし、最近では、footballやbasketballやice hockeyに人気を奪われています。人気度は次の順だそうです。

NFL: National Football League

NBA: National Basketball Association

MLB: Major League Baseball

NHL: National Hockey League

しかし、日本から見ると、現在日本で行われているDodgers vs. Cubsの試合からわかるようにbaseballはまだ捨てたものではないようです。しかし、日本でも合衆国と違うFootball (Soccer)が人気のスポーツになりつつあります。

以前、日本の野球はアメリカのbaseballとは違うスポーツと言われているの聞いたことがあります。イチローや松井が活躍し出した頃から変わったような気がします。実質、野茂から始まったMajor leagueへの進出は、日本の野球がbaseballとしても通じるとわかり、WBCなどで日本の野球がその強さを少しずつ証明し出してから合衆国のbaseballが日本に注目するようになったようです。

YAKYU | BASEBALL The Transpacific Exchange of the Game

Baseball in the United States and yakyu in Japan exist, and in fact prosper, as a result of the emergence of transpacific systems of exchange between the two countries over the past 150 years. This exhibit will explore the wide-ranging exchange of baseball between Japan and the United States from the Meiji era to today and the transpacific circulation of baseball concepts, styles of play, fan experiences, equipment, and people that shaped the shared culture of the game. 

戦争を挟んで両国は結びつき、ようやく日本の野球は認められたように思いますが、やはり、MLBの下位組織のような位置付けとなっている事実は残念です。これは経済的な規模の違いがあるので仕方がありませんが、野球をしている高校生から見れば、合衆国で活躍している日本選手は憧れです。いいことだと思います。


あまり報道されていませんが、英語教育も多少は役立っているのではないかと思います。通訳を解さずとも選手同士がコミュニケーションしている姿は、英語が特別なものではないということを気づかせてくれます。サッカーや他のスポーツでもそうですが、学習指導要領の「コミュニケーション能力の基礎を養う」という目標は、ある程度達成されていると考えてもおかしくないと思います。発音とか文法とか語句の使い方とかを正しくではなく、意味をきちんと伝えることが基本です。

また、日本語や英語以外の言語や文化にも多くの人は柔軟です。頑なに差別をする人や自国の言語や文化に固執する人は少なくなってきています。人種差別をする人はどうであってもします。それはその人個人の問題です。日本でもどこでも同様です。多くの人は、多言語多文化を尊重する風潮に少しずつなっていると、個人的な経験から感じます。

 YakyuはYakyuでよいと思います。大谷, OhtnaniはまさにYakyuでもBaseballでもない次元で個人として活躍しています。Yamamoto, Sasaki, Imanaga, Suzuki, Darvish, Kikuchi, etc.は、これからの若い人にとってはロールモデルとなることを願ってやみません。他のスポーツでも同様です。


Yakyuでも Baseballでもなく 春らんまん


2025年3月18日火曜日

Entrance examination / 入学試験 2025年3月18日(火)

高校の授業料が無料化されるそうです。よいことだと思います。教育は高校まで誰でも受けられるようにという趣旨で無料化し、就学前、小学校、中学校、高校とすべて無料にすることは、世界的な教育の流れでしょう。経済的にむずかしい国もありますが、日本は経済的にできないはずがありません。それができないのは、教育政策の誤りとしか言いようがありません。無料化にともない、無駄な入学試験はやめましょう、というのが、今日の趣旨です。

大学はほぼ誰でも行ける時代になりました。高校は昔からほぼ誰でも行きます。さまざまな理由でいかない人もいます。入学試験にかける労力は、本来教員の業務ではありません。別に業務手当が出ることになっています(現在はどうなっているか知らないので、ひょっとすると間違いかもしれません)。私が教員になった頃は、採点業務は楽しく作業できるような工夫がされていました。いつの間にかそれは解消され、今は違います。おそらく「世間」の圧力です。

それはさておき、授業料が無料であれば、どこに行っても同じように学べるような仕組みにしないと公平性がないと考えます。しかし、現状は、伝統校や偏差値という学校の違いが存在し、学校間格差や施設設備などのために、公立高校が定員割れしています。少子化などで仕方ないかもしれませんが、社会は、私立高校に目が向き、さらには、通信制高校などの柔軟なカリキュラムに生徒は集まっているようです。一律授業料が無料になれば、自然に画一的な教育をし、施設設備も十分ではない公立高校は嫌われるようにになります。

私立の中学受験が盛んになる、あるいは、小中一貫、中高一貫などが求められる傾向があるのは、考えてみれば自然です。子どもにとって良い環境を願うのは親から見れば当たり前で、授業料が無料であれば、なおさらです。どうすれば公平性を保てるかはむずかしいですが、どこでも同じように学べるという仕組みを考える必要があります。また、学校が授業料無料ならば、塾を廃止する必要があり、現状では多くの塾は受験産業があるから成り立つのだとすれば、受験つまり学力(知識)を一律に測定する入学試験をやめることでしょう。

無理かもしれませんが、学校を格付けするような格差はなくす必要があります。高校の格付けも確かに存在します。その格付けを形作るのが入学試験です。数値になるので誰もがその結果や格付けに異論が言えない雰囲気がありますが、実際は、それは一部の知識や思考を試しているに過ぎず、そのデータで学力を推定し、順位づけをしています。順位をつけないと選別はできません。その仕組みがずっと続いています。基本はあまり変わっていません。

大学が授業料を徴収し、適切な学生を選びたい場合は、その大学の趣旨に沿って選別方法を考え、入学選抜をする場合は、関係のない人が反対することは相応しくありません。が、高校まで授業料が無料であるならば、それぞれの高校が選抜することは、私は問題だと思います。小学校でも中学校でも高校でも、授業料が無料であれば、入学試験もする必要はないし、自分が通える学校に行くのが自然です。どうしても「〜学校へ」と望むのであれば、その学校を拡張すればいいと思います。公立であれば教員はどこへでも行って、そこで授業をすればよいでしょう。「〜先生」の授業を受けたいということであれば、オンラインでも可能でしょう。現在は工夫すれば多様な形態の学習は可能です。

どうしても学校の伝統を保ち、入学試験を実施し、選抜がしたい学校は、授業料をきちんと徴収して教育を提供すればよいでしょう。誰も嫌とは言わないでしょう。それぞれが選べば良いのです。すべての授業料を徴収しない小中高のそれぞれの学校は、生徒を拒まない、一度学校にこなくなっても、学びたくなったらまた来てよい、としなければいけません。授業は単位として蓄積し、必要は履修と修得単位が満たされれば修了とします。それが本来の学校だと思います。

入学試験は不要です。入学の際に選抜がどうしても必要ならば、学習意欲と学習目標を確認することです。学校に何の目的もなくただ席を置くだけということは無駄です。入学試験にパスすることが人生の目的となること、「〇〇高校」に入学すること、「〇〇大学」に入学すること、などは、つまらない目標です。何がしたいのかを重視し、学校はそれを支援する、というのが、本来の学校だと思います。


桜咲く 夢一杯の 好奇心


2025年3月17日月曜日

Walking / 散歩 2025年3月17日(月)

 散歩は最近では唯一の運動であり、楽しみです。Walkingというほど一所懸命歩くわけではなく、ちょっと汗が出る程度で歩きます。目標は、一日一万歩以上です。比較的達成しています。どこに行ってもできる限り歩くようにしています。タクシーはほぼ使いません。移動は鉄道かバスです。公共交通機関がなくても3キロ程度であれば歩きます。しかし、このような歩きの程度の運動では痩せることはありません。2万歩以上毎日歩いて、食事制限をすれば、痩せるようですが、食事制限はあまりしたくないので痩せませんでした。健康であるかと言えば、そうでもありません。加齢とともにそれなりにあちらこちら悪くなります。

7〜8年前までは、ジョッギングもしていました。これも痩せないし、膝に負担になったのでやめています。水泳は以前の職場にプールがあったのでよくやっていました。が、今はしていません。ほぼ毎日歩くようになったのは、コロナ感染の脅威が始まった2020年の4月ごろです。外出が禁止されましたが、私は多摩川の近くに住んでいるので、誰もいない多摩川は特に誰にも迷惑はかけないし、ほぼ人に会うことはないので、自由に歩けました。マスクも特に必要がありません。それから習慣化して、現在もほぼ多摩川を歩いています。

1年半ほど前に、その多摩川から外れて暗がりの市内を歩いている際に、ちょっと人が多かったので避けて脇に行ってつまずいて頭を強打しました。幸いにも脳には異常はなかったようですが、暗がりにコンクリートで固めた人通りの多い道を歩くのはやめることにしました。また、体を鍛えることを目的として、早足で競歩のように歩く人もいますが、私はしません。歩くことを楽しむ、景色を見る、匂いを嗅ぐ、花を見る、草に触れるなどなど、今日も同じように楽しみます。

花粉症の人はたいへんでしょうが、歩くのは単に運動ではなく、人間の基本的な活動です。仕事上どうしても座っていることが多く、目、首、肩などあちらこちらが具合悪くなりますが、30分ほどでも何も考えず自然の中を散歩するのはいいことだと思います。昔、ハイデルベルク(Heiderberg)を訪れたとき、哲学者の道(哲学者の道(Philosophenweg)を歩いたことがあります。また、京都の哲学の道など、何も目的もなく歩き、考える時間は貴重な時間です。

私はこの先も歩き続けたいと思います。


なずな咲く ただ歩くだけ 歩くだけ


2025年3月16日日曜日

Sushiと寿司 2025年3月16日(日)

日本食と言えば、寿司、天ぷら、すき焼き、しゃぶしゃぶ、というのが定番でしたが、この10年ほどで大きく変わりました。おそらく日本食だけではなく、世界中の多様な料理や食物が、主要な世界中の都市に紹介され、少しずつ加工されて食されているということだと思います。アジア人としてアメリカやヨーロッパに行くと、中華かインド料理という時代は終わり、アジアの料理、中東の料理、アフリカの料理など多様になりました。現在は日本食に該当する料理店やスタンドが各地にあり、スーパーでも売られるようになりました。私の感覚では20年くらい前から少しずつ広がったようです。

しかし、いずれも日本で売られている調理とは違います。当然と言えば当然ですが、かなり洗練されて意外に美味しくなっていることに気づきます。寿司はSUSHIとなり定着しています。nigiri, handroll, inariなどの名称がついていて、基本的にはhandroll(巻物)が主流で、種類もそれぞれの地域に適したものが中に入って売られています。日本語もそのまま使われるようになり、多様なsushiが展開しています。

具体的に見ると、SUSHI SHOPでは、次のようなメニューを示している。New Creations, Combo, Poke Bowls, Appetizers and Salads, Blossom, Sushi Burrito, Hosomaki, Maki, Sumomaki, Nigiri, Sashimi, Crispy Rolls, Maki Pairings, Spring Maki, Temari, Hako & O-nigiri, Sushi Pizza, Sushi Tacos, Karaage Chicken, Maki Tartare, Platters, Dessert, Extras, Bubble Teas, Salmon, Tuna, Lobster, Shrimp, Crab, Smoked Salmon, Japanese Crabstick, Tilapia, Cheese, Tofu, Chickenなど、ウェブでは画像付きで紹介しているので、見ればわかるでしょう。また、SUSHI SUSHIでも画像で紹介している。これらを見ると、日本の回転寿司でも同様のメニューを見るので、寿司はSushiとして他の食物を取り込んで進化発展していることがよくわかる。

私は古い世代の人間なので、昔の江戸前寿司がよいので、海外に行ってもほぼ食べることはないが、スーパーなどで巻物は買ったことがあるが、けっこう食べられた。Ramen, Soba, Udonなどますます広がっている。最近の海外からの観光客の増加でこの傾向は止まることはないだろう。逆を言えば、他の国の食べ物もどしどしと日本に入って来るだろう。不思議なことにそれが刺激となりさらに美味しいメニューができる。しかし、基本あるいは定番の食習慣は大きく変わることはないような気がする。

私は、食生活にあまり拘らないので、パンでも、米でも、何でもおいしければ食べるが、昔からそれぞれの国で食べ続けられているものが好きで、それは基本的に美味しいと思っている。素朴で安価で庶民的なものはどこへ行っても美味しい。


春の菜や 土手に座りて いなり寿司




2025年3月15日土曜日

Monologue / 独り言 2025年3月15日(土)

公共の場で独り言(? monologue, self-talk)を言っている人は、ちょっとおかしいのかと思うときがあります。意味もなく何かをぶつぶつ話している人は少し警戒が必要です。しかし、そのような特性を持って生まれた人もいるので、偏見を持ってはいけません。ADHD (Attention Deficit Hyperactivity Disorder)の人は、そのような傾向がありますが、決して異常なことではありません。また、芝居では、モノローグは重要です。独り言は、英語で、talk to oneself, think out loudと言ったりします。ある意味、声には出さなくても誰もがそれをしています。

私は、基本的に声に出す独り言はありませんが、頭の中でずっと考えています。考えるには言葉が必要です。言語のこのような動的な役割を、英語で「languaging ( the process of making meaning and shaping knowledge and experience through language)」などと、Swain (2006)という人が言っています。頭の中で考えている言葉が口に出てしまうと、おそらく何を言っているか聞いている人はわからないと思います。誰かに話しているのではなく自分に話しているからです。いわゆる文法などは関係ありません。発音も語彙も関係ありません。自分がわかればよい訳です。実はこの日記も書き殴りなので、たぶん読んだ人はちょっとわからないかもしれません。つまり、この日記は私の「独り言(monologue)」なのです。

モノローグあるいは独白は芝居の用語です。有名なモノローグは、Hamletの「To be, or not to be, that is the question」でしょう。この後かなり長く続きます。独白(soliloquy)と言います。特定の相手はいません。本当に一人で自分自身に語ります。二つ目は、話す相手がいますが、会話ではありません。A Midsummer Night’s Dreamで、「My mistress with a monster is in love. ...」のセリフがそうです。三つ目は、観客に向かって話すモノローグです。四つ目は、一人芝居です。役者としては、このモノローグは役者としては重要な演技です。

私はモノローグはとても重要だと思っています。もちろん誰かと話すことも、人前で話すことも、すべて大事にしていますが、その基本はモノローグです。それは、talk to myselfでもthink out loudでもありません。やはりmonologueです。退職して人と話す機会(特に仕事上で話す)は少なくなりました。相手に気を遣う必要もなくなりました。誰とも話す機会も多くなりました。しかし、以前から一人で考える時間は多くとっています。基本的に友達がいなくても、たぶん私はまったく大丈夫です。テレビやラジオがあり、本があり、インターネットがあります。モノローグを効果的に使っていると思います。

私は、少しずつsocial mediaを使わないようにしています。Internetもそうですが、かなり操作されているような気がしています。多くの怪しい情報がたくさんあります。また、私の傾向を読んで、その方向に案内しています。media literacyは以前にも増して重要な能力になりつつあります。人とのやりとりも同様です。一人で冷静に考える、自分との対話 (monologue)の時間を取ることは、最近重要だと特に感じるようになりました。


モノローグ 我と向き合う 春時雨