ゆとり教育でも授業時間が増加?カリキュラム・オーバーロードの実態と解決策
このビデオの話はよくわかりませんが、カリキュラム・オーバロードという問題もあるのかと思いますが、本質は違うような気がします。それほど授業時数にこだわる理由が私にはちょっとよくわかりません。
学校の授業の回数とか時間数とかについて、日本は少し厳しい基準を設けています。時間に厳しい(punctual)な社会だからかもしれません。私もすっかり癖になっているので、時間は比較的守ります。が、いい加減な人もいるし、国によってはかなり柔軟な考え方をしています。今朝の新聞の記事に、小学校や中学校の授業時数のことが書いてありました。「大幅超過」と見出しがありました。教師が足りないと言っているこの時節、授業がやり過ぎということです。本当にそうなのかな?と私は思います。
というのは、授業ってそんなに時間通りに何かをしているわけではなく、学習自体を決められた枠で測ることは意味があるのかと思います。たとえば、50分の授業で先生が課題を出して40分経って、10分それについて説明し、生徒もそれで満足し、宿題もなく、課題も確認しません、というような授業と、50分間先生が話し、黒板にいっぱい書いて、生徒はそれをノートに取りました、というような授業と、生徒が課題についてグループワークをして、成果を発表した、という授業などを、比較するとします。それって同じ時間数と考えるのは、無意味だと思いませんか。
教師や教育に携わっている人はわかると思いますが、授業と一口に言っても多様です。考える、作業する、ものをおぼえる、訓練する、動く、数える、描く、読む、書く、話す、聞く、メモをとる、コンピュータを操作する、鑑賞する、演奏する、スポーツする、遊ぶ、作る、助けるなどなど、多様です。何時間それに携わるかで単位を認める、修了する、という種類のことではない場合も多々あります。知識をテストする、技能をテストするなどは、時間数では測ることではなく、できたかできないか、です。
ある科目に標準授業時数の目安を決めることは意味があります。目標をたて評価する場合、学習する内容などを計画します。それは授業の中で修正しながら進み、目標にどの程度近づいているかで評価をします。そのために標準時数を設定することは意味があります。しかし、実施時数を数え、それが足りないとか足りたとか増えたとかいうことをとやかく言うのは本末転倒です。そのようなことを、きっちり守ることにどれだけの意味があるのかは疑問です。
School Hours Around The World
多くの国で、授業日や時間数はよく比較されます。しかし、実施時間数を綿密に記録して、それを守っているケースはおそらく少ないと思います。そのようなデータはないのではないか、あったとしても正確だとは思えません。生徒からしたらかなりバラツキがあり、先生からしても実際どのように教えているかは量的に確認するのは困難です。教師が説明する、課題をする、グループで活動する、個人で活動する、図書館で作業する、外に出て観察する、作文を書く、など、そのような量的な時間を記録することは、ほぼ無意味です。つまり、授業時数は学習時間数ではなく、物事を理解するのに早い子もいれば遅い子もいるなど、ばらつきが多過ぎます。
個人的な経験ですが、ふつうの人よりは世界中の多くの授業を見てきました。授業時間に関して決して厳密ではありません。学習内容も様々です。教師が差配することが多く、時間割も多様ですし、教師も休むあるいは出張することが多々あります。その様子を見ると、かなり柔軟です。大切なことは、生徒の学習で、障害があり支援が必要な生徒など、移民の生徒などの対応に重点をおいていたりします。生徒の欠席についてもそれほど重視しません。大切なことは学習したかということです。
文部科学省がどのように考えているのか知りませんが、大学でもコマ数と言って授業確保に躍起になっています。数年前のコロナの頃、ある大学で教育実習を担当していた時の文部科学省の対応を思い出します。教育実習に行けなくなった学生の、それに匹敵する授業数や代替する課題数などを細かく提出したことをよく覚えています。大学の事務方などの対応が訳のわからない対応をしようとしたので、私の方で、その学生にとって意味のある内容を時間数とその証拠を資料としてまとめて提出しました。特に文句は言われませんでしたが、結局文部科学省は書類があればそれでよいということです。これは、この標準授業時数の問題と同じ対応です。
こんなことばかりしている日本は、いつか滅びます。
年度末 虚しい気持ち さくら見る
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