Frank Sinatra - Just In Time
この日記は、私の「阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)(the way I should be)を綴っています。というわけで話題は私の意識の流れ(stream of consciousness)で進むので、あちらこちらに飛びます。明恵上人は一途な人でしたが、人のことが好きだったと思います。そのために華厳経の発展に寄与しました。彼は浄土真宗や日蓮宗など自分の宗派を作らず、高山寺で阿留辺畿夜宇和を実践しました。坐禅もたくさんしたそうです。
坐禅は私はしたことがないので、よくわかりませんが、何も考えないということはないだろうと思います。ただ座っているだけではおそらくないでしょう。人は煩悩の塊です。煩悩は生きている限り続きます。煩悩とどう折り合いをつけて、自分と社会をどう位置づけ、仏を慕い、生きただろう明恵上人を、私は好きです。阿留辺畿夜宇和は、その場その場でどう生きていくかを考え続けることだと思っています。「こうすべき」と考えるのではなく、「どうあるべきか」を常に考え続け、最適と思うわれる道を探すということです。
正解などはないのが世の中です。メルボルンも物価高で、みなさん困っているようです。授業料が高くなり、学校が閉鎖となったそうです。学校がお金がないから突然閉鎖ということは、あまり考えたことはないですが、そういうこともあっても仕方がないのです。どこの国も規則は厳しい面があり、杓子定規に考えると何でもすんなりとはいきません。責任問題になるので担当者は安全第一を考えます。ある意味で、正解は何もかかわらないこともかもしれません。
しかし、世の中はそれではおもしろくないのです。「かかわる(involve)」ことは、生きる上で大切なことだと思います。ひとりで生きていくとしても、誰かと、何かとかかわります。自分が嫌だと思っても、対象側から寄ってくることも多々あります。それを避けるとしてもかかわります。坐禅はその意味でも大切なのかもしれません。
明恵は次のように言っています。
我は後世を資からんとは申さず。只現世に有べき様にて有んと申也。聖教の中にも行ずべき様に行じ、振舞べき様に振舞へとこそ説き置かれたれ。現世には左え右え(とてもかくても)あれ、後生計り資かれと説かれる聖教は無きなり。仏も戒を破て我を見て何の益かあると、説給へり。仍て阿留辺幾夜宇和と云七字を持べし。是を持つを善とす。人のわろきは、態とわろきには非ず。悪事をなす者も、善をなすとは思はざれども、あるべき様にそむきて、まげて是をなす。此の七字を心にかけて持たば、敢て悪き事有べからずと云々。
私自身は、明恵上人には遠く及ばすすが、教育者としてずっと生きてきて、まだ教育にかかわっています。今回もメルボルンではいくつかの学校を訪ね、先生に会い、授業を見ます。昨日はメルボルン大学で話をしてlearner-centrednessについて考えました。人はそれぞれ違う(これは当たり前ですが)のです。
Learner-Centered Approach
そのことを素直に受け取れば、人が嫌がること、これはおかしいと思うこと、その場その場で自分の意思に従い行動することが基本だと思います。「悪き事」は何かも違います。それも理解しながら生きていくということが、私にはとても大事だと思っています。
悪き事 それは何かと 惑う春