2024年12月31日火曜日

形而上学 / metaphysics 2024年12月31日(火)

形而上学とは、「形(物理、自然)の上にある学問」という意味で使われるようになったようです。ギリシャ哲学から発展し、英語では、metaphysicsで、meta(それ自身、それを超えるもの、超など) + physics(物理、自然)という複合語で、形而上学とほぼ同じように語が作られています。成り立ちを知っていると、わかりやすいと思いますが、「形而上」という熟語がわからないとピンと来ないでしょう。metaphysics = physics about physicsというような意味です。

Metaphysics.comに次のような説明があります。

  • Metaphysics acknowledges and respects the beauty in ALL of God’s Creation.
  • Metaphysics is religion without dogma.
  • Metaphysics does not explore religious beliefs and laws created by man, but rather, it explores the immutable laws of nature, set by The Creator, God/Universal Presence, in the creation of the Universe.
  • Metaphysics is a branch of philosophy that studies the ultimate nature of existence, reality, and experience without being bound to any one theological doctrine or dogma.
  • Metaphysics includes all religions but transcends them all.
  • Metaphysics is the study of ultimate cause in the Universe.
  • Metaphysics is the only science capable of inquiring beyond physical and human science.

この考えによると、「物理や自然を超えた哲学、神学、宗教、世界など」を総じてmetaphysicsと言っているようです。日本では、形而上学は哲学で、特に存在論(ontology)を主に扱っているようです。ごく一般のシロウトからすると、とっつきにくいことばです。形而上学は日本でも宗教と関連して考えることも当然です。

こうしてみると、形而上学とmetaphysicsはほぼ同じ意味で使われています。しかし、私には、metaphysicsのほうがやはりわかりやすいように感じるのです。たぶん、形而上学という用語が哲学と関連して、何か難しい言い回しであり、存在論や認識論を扱い、形而上学は弁証法とも関連して難解な印象を刷り込まされていたからでしょう。

日本は、古来から仏教や中国思想を取り入れてきました。漢字は難解で、その難解な漢字が読めて意味が理解できることが学問であるという文化できたような気がします。明治からは、それがドイツ語になり、フランス語になり、英語になり、さらにはラテン語になり、同様の文化が中心になりました。それぞれを言語を漢字に翻訳し、かえって難解にしました。哲学用語、医学用語、科学用語などがそれにあたります。

現在は、専門用語は日本語にあえて訳さず、そのまま使うか、カタカナ語あるいは略語として使う傾向があります。これはこれでまた難しくなる部分もあります。私の個人的な考えでは、英語は英語のまま、あるいは、それぞれの言語はそのまま借用するほうが適切ではないかと思うようになっています。日本語は崩れるかもしれませんが、それぞれが並行しつ使われる時代になりつつあるように考えています。


大晦日 あるべきようわ 形而上





2024年12月30日月曜日

学習指導要領の改訂 / Revision of the Course of Study 2024年12月30日(月)

   【「学習指導要領」改定へ】 阿部文科相…中教審に諮問 “子どもたちの意見”反映も


学習指導要領の次の改訂のための準備が始まったそうです。私の仕事は教育なのでどうしても気になります。以前は「学習指導要領は詰め込み過ぎ」という日記を書きました。何のために改訂するのかよくわかりません。細かいことを決めて、上意下達(じょういかたつ)をもう何十年もやっています。昔高校の教員をしているときには、残念ながら学習指導要領はきちんと読んだことはありませんでした。絵空事のように思っていたし、現実には役立つとは思いませんでした。

現在の学習指導要領は、「平成29・30・31年改訂学習指導要領の趣旨・内容を分かりやすく紹介」で大体把握できます。詳細に知るためには、何百ページにも及ぶ冊子を読まなければいけません。暇があったら読んでみてください。

平成29・30・31年改訂学習指導要領(本文、解説)

対象とする読者は、教師です。改訂のたびに多くの研修会があり、多くの教師はそれに参加することがほぼ義務付けられています。大学では教職課程を担当していたので、だいたい読んでいます。文部科学省は、シラバスに学習指導要領を入れないと審査を通してくれません。要するに、現実を把握しているわけです。

書いてある内容には反論はありません。いいことが書いてあります。誰も非難しないような内容になっています。たとえば、「生きる力学びの,その先へ」「子供たちに必要な力を三つの柱」「主体的・対話的で深い学び(アクティブ・ラーニング)」「カリキュラム・マネジメント」「社会に開かれた教育課程」「保護者の皆さまの働きかけ」など、すべてを学校(教師)に委ねるわけです。これをすべて真面目にやっていたら、教師はやりたくなくなりませんか?

今度の改訂がどうなるかわかりませんが、これまで方針は変えないでしょう。文部科学省は、管理するという基本を何十年も変えていません。不登校の生徒が増えて、カリキュラムも多様化していますが、学校というシステムは変えていません。教育課程、教科書、授業時間数、クラスサイズ、教職課程などなど、基本は同じです。例外的に柔軟にしているようですが、その申請のシステムは複雑です。

報道によると「柔軟な教育課程」が強調されているようです。賛成です。授業時間が少し短縮されるようです。クラスサイズなども検討されるのでしょう。しかし、短縮した時間も管理して、生徒の自習時間とするなどと報道されています。管理するのは誰でしょうか?その時間のカウントが足りなかったら補習をするのでしょうか?学校には「柔軟な教育課程」をどう管理しているか、おそらく報告することになるのでしょう。

フィンランドの教育がすべていいとは思いませんが、多少参考になると思います。何でも管理しようとせずに、教師と生徒が豊かな時間を学校で過ごせるようにすることが大切だと思います。学びは、授業時間の量の管理ではなく、学ぶ質の問題です。学校に来なくても、自分で学べる環境はAIなどの発達により簡便になりました。PISAなどの学力調査に一喜一憂するのではなく、質を高める「柔軟な教育課程」を議論してもらいたいと思います。


12月も 三十日となりて 思う未来







2024年12月29日日曜日

弁証法 / dialectic 2024年12月29日(日)

       Argument and Dialectic (Aquinas 101)

神学は、Thomas Aquinasによって体系化されたと理解しています。その際に弁証法(dialectic)は重要な議論の土台となりました。そのおかげで、神学が、自然科学や哲学などの人文学の基礎として西洋では位置付けられるようになったと理解しています。その中でも哲学とは最も密接に関連しているように思います。そこで神学でも哲学でも重要な思考の方法として弁証法について考えます。

弁証法というのを正確に理解している人は少ないと思います。私もその一人です。哲学では、弁証法を、アリストテレス、カント、ヘーゲル、マルクスなどに代表される方法論において、様々に細かく複雑に議論されています。英語では、dialecticと言われています。それは次のように辞書的に説明されています。

a method of examining and discussing opposing ideas in order to find the truth (the Britannia dictionary)

dialectは「ことば」という意味です。英語的に考えれば、「ことばを使って真実を探求するために調べ話し合う方法」というように考えられます。弁証法も「弁論によって証拠を見つける(証明する)方法」と単純に考えることができます。しかし、哲学的には様々な議論があり、一般的には弁証法は定着しません。

Richard Sennettという社会学者によれば、dialogic(対話的)と比較して次のように述べています。

Dialectic conversation: A verbal play of opposites, which should build up to a synthesis, i.e. a resolution of differences. This is obtained by discovering common ground by listening to each other, and rephrasing the opposition so as to evidence commonalities. The Platonic dialogue is a masterful example of such dialectic conversation. Unity of mind comes at the end – and ‘truth’.

Dialogic conversation: The discussion does not discover common ground; rather it expands reciprocal understanding. Opposite ‘truths’ face each other off – dialogic conversation is meant to find room for reciprocal accommodation, not resolution.

要するに、弁証法とは、相対立するものを話し合い、共通のものを見出していく論理的な対話の作業で、それに対して、対話は、単に共通理解を図っていくような対話の作業と考えるとわかりやすいと思います。神学においては、神の正当性や存在を示すことは重要です。聖書(神の証拠の記述)に書かれていることの正当性をさらに多くの人に理解してもらうために、弁証法は重要です。それとともに、一般的には対話も重要となります。

学問としての「哲学」はことばの定義は重要なので仕方がないかもしれませんが、西洋哲学の紹介が日本語でなされて以来、宗教も含めて難解な言語が使われ続けています。英語の方が、私にとってはわかりやすいし、ラテン語などでも同様です。「弁証法」はギリシャ語では、dialektike techneだそうです。平たく言うと、「人とどう対話するかという技術」となります。英語でもdialectic (conversation)です。「弁証」と「対話」がほぼ同様の意味合いがあることは、日本語からは類推しにくい時代になっています。

結論は、弁証法という用語を、ギリシャ哲学、神学、カントやヘーゲル、マルクスなど哲学的アプローチの作法は大切ですが、もう少し一般的に使えることばとして流通できるようにすべきと思います。私個人は、日本語は定義が難解なので、dialecticという英語を使うようにしています。問題かもしれませんが、その方が親切な気がします。その点から、ソクラテスの対話は有効でわかりやすい気がします。


ゆく年や 残り3日に なりにける






2024年12月28日土曜日

神学 / Theology 2024年12月27日(金)28日(土)

今回の日記は、事情により2日分とします。神学(theology)について考えたいと思いますが、私にとっては遠い話題で、ほぼわかりません。しかし、西洋哲学についてのある本を読んだときに初めて神学について知りました。その際、西洋哲学と神学は密接につながっていると感じました。西洋哲学の始まりはもちろんギリシャ哲学ですが、キリスト教神学(Christian theology)は、それを神(God)あるいは主(Lord)を中心とした体系をギリシャ哲学をもとに構築し、自然科学や哲学を生み出してきたと理解しました。

神学はもちろん広く神を研究することでしょうが、ここで議論する神学は基本的にキリスト教学における神学です。その意味で、英語にかかわる自然科学、人文科学、哲学という学問は、いずれも神学と関連します。日本に生まれ日本で育った私には、その壁がいつも存在していたように思います。あえて言えば、日本のキリスト教者も多くはそのような壁を持って生きてきたように思います。遠藤周作の『深い河』『沈黙』などの小説を読むとそのような感じがします。

昔、埼玉県の幸手市のあたりで高校教員をしていたときに、放送委員会を担当し、生徒といっしょに地元にあるマリア地蔵を調査して番組を作ったことがあります。地元に伝わる隠れキリシタンの調査をして古くから住んでいる家を訪ねて由来を調査しました。そのキリシタン神話は、いわゆるヨーロッパのキリスト教とは大きく異なります。マリアという仏を信仰するというような印象を当時持ちました。

東洋英和女学院大学に勤めていたので、プロテスタントの東京神学大学のウェブサイトを見てみました。牧師を養成するような大学と思いますが、詳しくは知りません。卒業生はキリスト教の聖職者に就くのかと思う程度です。それによりますと、学習領域は、聖書神学、組織神学、歴史神学、実践神学とに分かれています。

聖書神学は、聖書の研究と言えるのでしょう。組織神学は教義学、倫理学、弁証学と分かれ、それぞれについてキリスト教の立場から考え、福音(the gospel)に確信を持つ、歴史神学はキリスト教の歴史を学び、実践神学はその名前のとおり実践のようです。それに対して、カソリックの立場もあります。日本では上智大学などがその代表例でしょう。が、プロテスタントとカソリックの対立は私にはよくわかりませんが、仏教やイスラム教などと同様なのか違うのかは時代や背景によるものと思います。

キリスト教を理解するには、the gospelは一つのキーワードと思っています。その名前のとおり「良い知らせ」です。新約聖書(the New Testament)の冒頭は、Mattew, Mark, Luke, Johnのthe gospelで始まっています。いずれもイエスに関するよい知らせを記述しています。キリスト教神学はいずれもこの聖書の世界を体系化する意味での学問と考えてよいと思いますが、それをきちんと思想的にまとめた人は、Thomas Aquinasだと言われています。神が存在する理由を証明しようとしたことで知られています。

年の瀬に 神は存在 するかしないか




2024年12月26日木曜日

孤独死、孤立死 / dying alone or lonely death 2024年12月26日(木)

孤独死 (kodokushi) という言葉が使われれるようになった。英語では、dying aloneとかlonely deathとか言われる。少し意味が違うようだ。8月30日のBBCが、Nearly 40,000 people died home alone in Japan this year, report saysという見出しで報道した。

Taken from the first half of 2024, the National Police Agency data shows that a total of 37,227 people living alone were found dead at home, with those aged 65 and over accounting for more than 70%.

高齢化社会となり、これは予想されたことで、必ずしも日本だけの問題ではないと思います。問題は、一人で亡くなり、しばらくそのまま放置されたり、身元がよくわからないということのようです。遺品の整理や埋葬などの処理が滞るということでしょう。

家族などが中心だった社会が個人社会に変わっていったことで、社会が孤立化している傾向です。悲しいと言えば悲しいですが、一人で死んでいく人にとっては、すべてが悲劇とは言えないかもしれませんが、周囲から見れば惨めとしか言えません。というか、ひどい社会だなと嘆くしかないでしょう。

終活(end-of-life planning)は定番となった日本語です。私も70歳ですが、考えてます。「残された人に面倒をかけないように」という日本的な発想です。葬式に関しては、家族葬がふつうになってきているので、あまり心配しませんが、家族葬です。お墓は高いし、生まれた場所からも離れて暮らし、兄弟それぞれ別の暮らしですから、納骨堂のような形式でよいと考えてます。遺品はできる限り整理してから死のうと思っています。寂しい話ですが、少しずつ準備しています。

孤独死にしてもそうでなくても、病院で死ぬこともそうでなくても、諦めてます。生まれてくるときは、周囲に見守られてきたようですが、死ぬときは、いずれにしても期待はできません。期待してもしようがないです。

私は、去年の今ごろウオーキング中にブロックにつまずてい頭を痛打しました。死んでもおかしくない転び方でしたが、運よく1年生きました。検診があるたびに、肺に影がある、膵臓の検査が必要だ、糖尿病になっている、目が耳が喉が歯が。。。あちらこちら故障だらけです、生きているということは、楽しいことも多いですが、辛いこともたくさんあります。死は以前よりは確かに近づいてきてます。死んでもいいやと思う世の中になっているような気がします。若い人たちにはよい時代であってほしいと思います。

しかし、742人の若い人が孤独死をしているそうです。それぞれに事情があるのでしょう。多いのか少ないのかわかりませんが、社会の歪みかなと思わないわけにはいきません。

Over this three-year period, the TMEO handled 1,145 cases of deaths among young people in their teens to thirties. These individuals died under unnatural circumstances while living alone. Among these, 64.8% (742 people) were kodokushi cases, as defined by the TEMO.

Of the 742 individuals, the largest group was aged 30–39 years, totaling 402 people. This was followed by those aged 20–29 years (325 people) and 15–19 years (15 people). There were no cases for those under 15. Additionally, the data revealed that kodokushi among people in their twenties and thirties has been increasing each year.


年末に 一人は寂し 寂しすぎ




2024年12月25日水曜日

クリスマス / Chrismas 2024年12月25日(水)

クリスマス(Christmas)はお祭りの一つで、特にキリスト教に関連するイエスが生まれた日として意識している人は少ないでしょう。私自身も特に宗教上のお祝いとは考えていませんが、楽しみます。クリスマスツリーのイルミネーションを見て、クリスマスに関連する歌や曲を聞き、年末の雰囲気に浸り、美味しいものとケーキを食べる、という風です。年末年始の一環の行事であり、豆まき、ひな祭り、子どもの日、七夕、お盆、花火、夏祭り、秋祭り、お月見など、神道や仏教由来のお祭りなどと同様に、感謝し、楽しむというイベントの一つがクリスマスです。

ヨーロッパのクリスマスマーケットは、キリスト教徒の人たちを中心に地域の人たちがクリスマスを楽しむ一環です。しかし、キリスト教徒ではない人にとっては当然関係ない行事です。イスラム圏ではもちろん関係ありません。しかし、それはそのときの状況によるのでしょう。宗教が違っても仲良く暮らしている分には互いを尊重し楽しむこともおそらく問題ないと思います。その点、日本の在り方は、私はよいと思います。宗教や信条が違うから、互いの文化を受け入れないということでは、グローバル化する社会は生きられないでしょう。

ウクライナやガザの紛争は悲劇です。宗教は少なからず関連しているようです。大きくは政治的問題なのでしょうが、歴史的な経緯もあり、根が深い問題です。このような問題は、あちらこちらで絶え間なく続く、人類のガンのような存在です。ついこの間までは、グローバル化という観点から国連などを中心に、地球温暖化対策に向かって協力する姿勢がありましたが、現在はほぼ皆無です。政治的な対立の中でかろうじて進んでいます。が、それぞれの国がそれぞれの国益のために行動しているように思えます。常に苦しむのは、何の力もない庶民であり、女性やこどもです。

人類の短い歴史の中で、小さな人たちはそれに翻弄されて、簡単に殺され、殺すことも強いられてきました。宗教もそれに加担しています。どの宗教も戦争などの争いは肯定していないと思いますが、結局戦わなけば自分たちの平和は維持できないので、戦います。矛盾と言えば矛盾ですが、それが人類の真実あるいは生物の真実でしょう。

クリスマスの本来の意義は知りませんが、キリスト教のミサに参加しても厳かな気分になります。お寺や神社でもそうです。イスラムのモスクでもそういう気分になります。どこでも排除されることはありません。ヒンズー教の寺院に入るときに靴を脱ぐのを忘れ怒られたことがありますが、謝ればみなさん許してくれました。クリスマスの日は静かに平和を祈りたいと思います。私にはそのくらいしかできない。


クリスマス 一日静か 明日祈る



2024年12月24日火曜日

Wellbeing 2024年12月24日(火)

Wellbeingは、いつの間にかあちらこちらで 使われるようになり、ちょっと気になります。どういう意味なのでしょうか?と言っても、日本語でも「ウエルビーイング」でそのまま使われ、あえて日本語にしないことが多いようです。この傾向は定着しつつあると思います。英語そのまま、Wellbeingとしてもほぼ誰もが理解できるようになっています。これも、一つのグローバル化です。

わかりやすいと思います。well(よい)+ being(ある)ということです。Are you well? -- I am well / We are well ということです。以前にも書きましたが、言語は交差あるいは混ざり合うようになっています。さらには、音や文字がそのまま使われやすくなっています。外来語はカタカナで表記されてきましたが、英語など生活に身近な言語は日本語にそのまま入っています。

各辞書を見てみると、well-being (= general health and happiness)[Oxford], well-being (= a feeling of being comfortable, healthy, and happy [Longman], well-being (= the state of feeling healthy and happy)[Cambridge], well-being (= the state of being happy, healthy, or prosperous)[Merriam Webster], wellbeing (= the condition of being contented, healthy, or successful; welfare)[Collins]というような定義としています。辞書では複合語扱いですが、実際には一語となっています。英語の定義をそのまま日本語に置き換えてみると、「快適で、幸せで、健康で、豊かな気分や状態」というような意味で使われる言葉と考えてよく、総合的な幸福感や成就感や充実感を表す表現として使われるようになってきていると思います。

University of Oulu

wellbeingというとFinlandが有名です。OECDの報告書は次のようにまとめています。

Drawing on the OECD Well-being Framework, this paper outlines the state of well-being outcomes in Finland and identifies strengths, weaknesses and trends compared to other OECD countries. Overall, Finland is an established international leader in well-being and sustainability. Six key insights highlight the several challenges for well-being that remain in Finland and should be addressed in a comprehensive, balanced and inclusive way. 

Insight 1: Finland’s strengths in well-being and sustainability require forward-looking investments to stop the decline in skills and R&D, and to improve stagnant performance in key environmental areas

Insight 2: As the country takes necessary steps towards a green economy, short-term trade-offs must be managed to support an inclusive transition

Insight 3: Finland is an inclusive and equal society, but important challenges remain regarding gender equality and a few persistent gaps between different population groups

Insight 4: Finns enjoy high material well-being, but households are accumulating debt and it is becoming more difficult to afford a good home

Insight 5: Despite improvements in population health, increasing obesity ratesprevalence of mental distress and health inequalities should be monitored as they contribute to a wide range of other well-being dimensions

Insight 6: Finland needs to safeguard its strong social cohesion and social capital to address well-being and sustainability challenges

これを見ると、気分だけではなく実質的にも社会的にも暮らしが豊かであることをwellbeingと考えているようです。

私の個人的な感覚ですが、wellbeingはシンプルでわかりやすい表現で好きです。ごくふつうに使ってよいことばで、あえて特別な意味を込めて使うことばではないと思います。使いたければ使えばよいと思います。ある考え方では、wellbeingを細かく仕分けして示したり、主観的、客観的とかに分けて説明することもあるようですが、wellbeingはwellbeingでしかないし、「よい暮らし」「よい気分」などと日本語で言っても何も変わらないでしょう。大切なものは、それぞれの人の見方や考え方です。あれこれと他人の意見や情報に左右されて生きるのではなく、自分自身の生き方を模索することが、wellbeingをもてるのではないでしょうか。


よく生きる 日々の暮らしに クリスマス




2024年12月23日月曜日

冬休み / winter Holidays 2024年12月23日(月)

  Winter Holidays Around the World for Kids | World Holidays | Twinkl USA


冬休み(winter holidays)は、私にとってはけっこう忙しくもあり、楽しい思い出のある2週間です。私の仕事は教育で、高校と大学でした。夏休みや春休みと違い、学校の仕事関係はほぼない期間で、家庭や友人との時間を過ごすよい機会でした。忘年会、クリスマス、大晦日、新年、初詣など、あっと言う間の休みでした。現在は歳をとり、退職したのでしがらみは何もないですが、やはり同様なことをしています。冬休み気分は依然としてあります。

年賀状はだいぶ以前に書くのをやめました。家族や友人とスキーや温泉に行くということもありません。ただ家にいるだけで何もしません。少し掃除をしたり、物事の整理をして、新年を迎えます。

小学生や中学生の頃は、草津温泉という雪国で親の仕事の関係から冬休みは忙しかったので、年末年始は家の仕事の手伝いなどで忙しく慌ただしい冬休みでした。多少の遊びは当然していましたが、ゆっくりとした3が日ということはありませんでした。3が日をおせち料理を囲んで家族団欒というのは憧れでした。教員というサラリーマンになったのもその憧れのせいでしょう。考えてみれば、現在の状況は夢を実現した状況です。

さて、冬休みという世界中さまざまのようです。キリスト教社会では、Chrismas Holidaysというのがふつうのようです。Winter Holidaysというと1月か2月ごろの休みをいうかもしれません。ただし、ChristmasとNew Year's Dayは祝日として祝うところが多いようです。イスラム教などでは新年はまったく違います。ロシア正教も違いす。中国の新年は旧暦です。

学校という社会は、映画「小学校~それは小さな社会」に表されるような社会に代表されるように、日本人は誰もが思い、ある面では美化し、ある面では批判されてきました。よく考えてみると、夏休み、冬休み、春休みという固定観念があり、それに縛られてきたように思います。明治以来築かれてきた教育システムは必ずしも伝統として維持する必要はないのです。

不登校が定着し、教師という人材の確保が困難になり、学校という社会がある面で機能不全になりつつあるかもしれないのに、文部科学省の方針は、PISAなどの成果を指針に現状を維持しようとしています。教育に対する予算も増えず、何か誤魔化しながら、課題を先送りしています。長期的な視線で、高齢化社会、少子化の傾向を基調として、何に重きを置くのかを明確にし、学校の役割をシンプルにして、児童・生徒・学生だけではなく教師にも、休みは休みとして自由に活動できる期間として位置付ける必要があるでしょう。

「教育は何のためにあるのか?」という問いには「個人の成長にある」と考えることが大切です。休みは成長になくてはならないものなのです。


大掃除 あっという間の 冬休み



 

2024年12月22日日曜日

雪 / snow 2024年12月22日(日)

雪は好きです。日本では雪が降る冬の時期になりました。しかし、私が住んでいる東京では毎年この時期に雪が降ることは少ないです。逆に今年は毎日晴れて乾燥しています。

昔はこの時期は毎年スキー場に行ってスキーをしていることがふつうでした。車はタイヤをスタッドレスに変えて、スキーをするための準備をして、ウキウキしてました。いまは、スキーも雪もなく、ウキウキする気分もなくただ淡々と晴れた乾いた空気を感じながら、ときどき白くなった富士山と水量の少ない多摩川を見て散歩します。

私の雪の経験は、厳冬のさらっとした粉雪と春先の重たい雪です。 雪掻きは雪の種類により作業はさまざまです。また、かまくら(雪の部屋)をつくる際にもまったく違います。雪国で育ったので、雪には多くの思い出があります。が、今となっては遠い過去となりました。印象に残っているのは、雪の結晶です。理科の教科書などにもその形がいくつか載っていました。空から舞い落ちる一つひとつの雪の形がさまざまで、それが服の裾などに落ちるとよく眺めていたと記憶しています。

形がきれいなものもあれば、そうでないものもあります。図鑑に載っているものとは微妙に違います。雪の結晶というと、中谷宇吉郎という人を思い出します。『雪』という本を読んだことがあります。中身はほぼ忘れましたが、一般にわかりやすく書いてくれた本で、私の世代で、たぶん多くの科学が好きな人は手に取っていると思います。雪の結晶の写真が貴重でした。それを見ながら実際と見比べたりしました。

自然は多くのことに興味を起こさせます。雪は特にそうです。まず、白い、きれい、頻繁には見ることがない、保存がむずかしい、たくさんあると生活に支障を与える、寒いなど。私にとっては、生き方を少し深く考えさせてくれる現象です。軽井沢の山荘にいた頃は、冬の景色が一番好きでした。誰もいない、音もない、木々の葉がなく林の奥まで見える、その雪景色の中に一人いるときは幸せに感じました。日常ではないという感覚を少し味わう瞬間かもしれません。もちろん寒いのでずっとは無理です。

この冬は、たぶんそのような瞬間は持たないでしょう。この先おそらく経験しないかもしれません。それはそれでいいと思います。


雪景色 静けさ沁みる 一人いる 



2024年12月21日土曜日

大切なもの / Precious things 2024年12月21日(土)

Most Precious Things in Life: My Favorite Things Don’t Cost Money

 今日は、大切なものについて考えます。Steve Jobsはtimeと言っていますが、私にとって大切なものは何かと言うと、「自分」と答えるかもしれません。が、肉体そのものに執着はだんだんなくなりました。身体をを動かすことは、残念ながら不摂生がたたり、テニスもしなくなりました。スキーももう何年も行きません。走ることは健康のために控えることにしました。運動と言えば、ウオーキングだけとなりました。健康のために続けています。

身体は大切なものというよりは必要なものなので管理しています。健康のために体重も落とす必要があります。それだけではなく活動するために必要な筋力や機能は維持する必要があります。目も耳も鼻も口も、手も足も、排泄する能力も、食べて消化して、身体全体を管理する血液やリンパ、皮膚や粘膜も、年齢とともにどんどん衰えていきます。鏡を見れば情けなくなるくらい醜くなっていきます。大切なものには違いありませんが、それほどの愛着はもうなくなりました。

「自分」というものは、それを意識する「こころ」なのだと思います。これまでの記憶、現在の意識として思考、ものを見て感動する感情や情意、五感で感じる「生きる」という感覚など、簡単に言えば、脳神経なのかもしれませんが、「こころ」が大切なもので「自分」を存在せしめている実体なのだと思います。

self-esteemということばがあります。「自己を評価すること」ですが、日本語ではピッタリとした意味はありません。自尊心と訳されますが、ちょっと違うような気がします。Mindというウェブサイトに次のように説明がありました。

Self-esteem is how we value and perceive ourselves. It's based on our opinions and beliefs about ourselves, which can feel difficult to change. We might also think of this as self-confidence.

Your self-esteem can affect whether you:

  • Like and value yourself as a person
  • Can make decisions and assert yourself
  • Recognise your strengths
  • Feel able to try new or difficult things
  • Show kindness towards yourself
  • Move past mistakes without blaming yourself unfairly
  • Take the time you need for yourself
  • Believe you matter and are good enough
  • Believe you deserve happiness
分析的に見ると、なるほどと思いますが、これでは「自分」という総体(entity)は捉えられないような気がします。

私が大切にしたい「自己」は、いまここに安定して存在しているという「自己」です。それは阿留辺畿夜宇和につながるかもしれません。が、それとも違う「わたし」という複雑な存在です。それはおそらく死をもって終わるはずです。誰もが経験する死ではありますが、誰もその本質を知り得ないのです。その切ない「自己」を大切だと思うのです。

Heidegger’は次のように言っています。

If I take death into my life, acknowledge it, and face it squarely, I will free myself from the anxiety of death and the pettiness of life - and only then will I be free to become myself. 

大切なものは「自己」なのですが、結局面倒くさいので、死んでなくなればスッキリするということなのでしょうか。私もそう思いますが、ブッダの次のことばに同感するのです。「アーナンダよ、ベーサーリーは楽しい、ウデーナ霊樹の地は楽しい、ゴータマカ霊樹の地は楽しい、七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい、タフブッダ霊樹の地は楽しい、サーランダ霊樹の地は楽しい、チャーパーラ霊樹の地は楽しい」

こうありたいと私は思います。


年末に 大切なもの 生きた自己



2024年12月20日金曜日

阿留辺畿夜宇和とソーシャルメディア / the way it should be 2024年12月20日(金)

原田雪溪老師の言葉です。

さて、いろいろな意味で情報が過多だと思い、なかなか整理ができない時代だと感じます。昔から考えてみれば、自由だし、多くの情報にアクセスするのは容易になり、物も溢れ、ゴミの山ができ、捨てることの方が難しくなりました。新聞も、ラジオも、テレビも、少しずつその役目を終えて、いつの間に、インターネット、ソーシャルメディアなど、個人が発信し、「バズる」ということが頻繁に起こり、それがビジネスになり、さらには、それを利用し、社会を変えてしまうことが容易になりました。情報が溢れているようで、いつの間にかその情報に左右され、洗脳されてしまうという恐ろしい時代になりました。

時代はまったく違いますが、明恵上人の時代を思い出します。明恵は坐禅をよくしていたそうです。高山寺近くの楞伽山の二股に分かれた松の木に座る絵図は有名です。「その場所はどこですか?」と寺の人に尋ねると、「裏山です。行くのはむずかしいです」との返答だった。明恵は社会に真摯に向かい、悩んだ人だと思います。おそらく自分自身に「阿留辺畿夜宇和」を何度も何度も問いを投げかけていたのだと思います。

私自身は、情報過多の時代にあっても流されないようにといつも心がけています。が、それはとてもむずかしいです。というわけで、この日記を綴っています。一つのポリシーは、「思ったことは発言する」ということです。しかし、それに固執しない。気づいたら修正します。いい加減な人間と思われても、その場その場で自分に正直に生きることにしています。

若い人は、マスメディアには触れないそうです。ソーシャルメディアが主たる情報源であり、コミュニケーションの場らしいです。印象としては短絡的で情動的な感じがします。若い人だけではないかもしれません。多くの世代で頑なな傾向があるかもしれません。多くの人が平和な社会を求めているのは当然ですが、政治や社会の決まりが優先し平和の立ち位置が違えばルールもあってなしが如しで、民主主義は機能しなくなりつつあります。ルールを知っている人がルールをうまく使い、ルールを知らない人はまったく関与できずストレスが溜まります。阿留辺畿夜宇和も恣意的になってしまい、独りよがりに陥る可能性があります。

70年ほど生きてふりかえってみると、それなりでした。それでも阿留辺畿夜宇和は常に拠り所としています。しかし、これからの時代は厳しいなと感じます。特に自分がかかわってきた教育は課題山積です。改革をすればするほどドツボにはまっていきます。つまり、情報過多になり、頭の中で構成された理念を学びの場に場当たり的に取り入れようとして、自由な発想を育てるはずの教育は、子どもにとってはかえって窮屈になり、社会も同様な現象に染まっていきます。阿留辺畿夜宇和とはならず、いつの間にか誰かに操作されるレールの上を走っているようになり、レールから外れる人も多くなり、また、違うレールに乗ろうとします。結局、阿留辺畿夜宇和と自問することはできなくなってしまいます。

なぜか歳を取れば取るほど息苦しくなるのです。


明日を見て 生きていきたい 年の瀬に




 

2024年12月19日木曜日

感染症 / infectious diseases 2024年12月19日(木)

感染症(infectious diseases)は人類にとって大きな脅威となったのは、新型コロナ感染症(COVID-19)でよくわかったことです。しかし、インフルエンザ(influenza)など依然として流行しています。感染を媒介するは、主に、ウイルス(viruses)、バクテリア(bacteria)、菌(fungi)、寄生虫(parasites)です。これまで数多くが悲劇を招き、現在も世界中で猛威を奮っています。しかし、見えないという点、常に変異していく点、生物兵器として利用される点、また、新しい種類が突然生まれてしまう点など、怖い存在となっています。

ウイルス感染は、ウィルスが細胞の中でしか生きられないので細胞を通して培養します。バクテリア感染は、単体の組織で存在しています。害のない良いものもありますが、一部が悪性になります。菌による感染は、バクテリアや寄生虫も同様です。この他にも、プリオン病(TSEs/prion diseases)などもあります。とにかく私たちには見えないので、恐れようがないというわけです。

World health statistics 2024 - Monitoring health for the SDGs, Sustainable Development Goalsが、その報告の中で、新型コロナ感染症やその他の感染症のことを述べています。ウィルスによる感染症には、風邪(common cold)、インフルエンザ(influenza)、コロナ(COVID-19)、胃腸炎(stomach flu, gastroenteritis)、肝炎(hepatitis)、急性呼吸器感染症(respiratory syncytial virus, RSV) などがあります。バクテリアによる感染症には、連鎖球菌性咽頭炎(strep throat)、サルモネラ感染症(salmonella)、結核(tuberculosis)、百日咳(whooping cough, pertussis)、クラミジア(chlamydia)、淋菌感染症 (gonorrhea) 、性感染症(sexually transmitted infections, STIs)、尿路感染症(urinary tract infections, UTIs)、大腸菌感染症(e. coli)、クロストリディオイデス・ディフィシル感染症(clostridioides difficile, C. diff)などがあります。また、菌による感染症には、水虫(ringworm, athlete’s foot)、爪白癬(fungal nail infections)、 膣カンジダ症(vaginal candidiasis, vaginal yeast infection)、口腔カンジダ症 (thrush)など、寄生虫による感染症には、ジアルジア症(giardiasis)、トキソプラズマ症(toxoplasmosis)、鉤虫症(hookworms)、ぎょう虫感染症(pinworms)などがあります。

自分の学習のためにざっと書いておきました。が、たくさんあるということを自覚します。あたらめて思うことは、これらの組織は人間を脅かすために生きているわけではなく、人間が勝手にそれに反応して悪影響を与えられるわけです。この地球上には、植物も含めればたくさんいわゆる生命体があります。バランスよく生きていくことは大切ですが、いずれにしてもけっこうむずかしいと実感しました。感染症は免疫との関係から今後もますます脅威となっていくでしょう。ワクチンやマスクや手洗い程度で防ぐことは不可能なような気がします。

コロナ禍の中でちょっと気になる日本的な対応のあり方が気になりました。他国と較べて過剰な対応のようです。いまだにそのようです。どんなに感染を防ごうとしてもむずかしいのが現状です。衛生や人との接触は最小限にしなくてはいけないような風潮は、人と人の関係をギスギスさせます。私のような人間にとってはそちらの方がかえって危険のような気がします。しかし、ワクチンを接種することはいまだに推奨されています。受けた方がいいでしょうか?



寒くなり 雪もちらつく 師走かな





2024年12月18日水曜日

Tokkatsu 特別活動 2024年12月18日(水)

山崎エマさんのこの映画は日本の教育の実態の一部を紹介した点ですばらしいと思います。私も日本の小学校教育の良さの悪さも同感です。しかし、小学校学校の活動で「特別活動」がエジプトなどの海外でも取り入れられて、Tokkatsuとして注目を浴び、美化されているような報道がありました。本当にそうだろうか?と私は思います。私はちょっと不思議な感じがしました。特別活動は、小学校から高校までカリキュラムに位置付けられています。学級あるいはクラスという単位を構成する重要な活動となります。 学級担任となると、学級運営ということで、教師には相当の負担となることもあり、教科などの指導時間を削減する。

私は、高校の教師をしていたので、小学校や中学校に較べると大したことでもなかったが、けっこう手間がかかったのをよくおぼえています。今でもほぼ同じようなシステムと思いますが、「特別活動」にはさまざまな活動が入り、生徒と触れ合うおもしろい活動と考えられますが、教員にとって主たる仕事ではないので、私個人としては、教師の仕事の軽減を考えると、注目するのは間違いだと思います。本来の学校教育の目的を逸脱する可能性が高いと考えます。

小学校の学習指導要領の目標には、「望ましい集団活動を通して,心身の調和のとれた発達と個性の伸長を図り,集団の一員としてよりよい生活や人間関係を築こうとする自主的,実践的な態度を育てるとともに,自己の生き方についての考えを深め,自己を生かす能力を養う」とあります。これは過剰な目標です。教師が熱心であればあるほど、上から目線になる可能性があります。子どもからすれば、あるいは、保護者からすれば、学校でそこまでやらなくてよいと考えてもおかしくないです。時代は明らかに違っています。学級活動、児童会活動、クラブ活動、学校行事など特別活動の主たる活動です。学習指導要領にはそのほかかなり細かい指示があります。たとえば、「入学式や卒業式などにおいては,その意義を踏まえ,国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする」なども記載されています。


冬休み 待ち遠しいな クリスマス



2024年12月17日火曜日

Scarborough Fair 2024年12月17日(火)

The Graduate (卒業)という映画には多くのSimon & Garfunkelの音楽が使われています。その中で、Scarborough Fairが好きです。最初はまったく知らなかったのですが、イングランドのScarboroughを訪れる機会があり、イングランドやスコットランドの民謡(folk song, ballad)であることを知りました。Paul Simonが英国に滞在していた際に知ったようです。

The Scarborough Fairは、Scarboroughでフェスティバルとしてさまざまに開催されています。30年以上も前にちょっとだけ訪れました。お城もありすてきな海岸沿いの町です。Scarborough Fairと映画は何も関係ありませんが、やはり印象的な曲でよくおぼえています。しかし、Scarborough Fair/Canticle(聖書の歌)という曲の由来はいろいろありますが、当時のベトナム戦争反対の歌の一つとして考えられています。さて、変遷はいろいろとありますが、Simon & Garfunkelの歌の歌詞を見てみましょう。

Are you going to Scarborough Fair

Parsley, sage, rosemary and thyme

Remember me to one who lives there

She once was a true love of mine


On the side of a hill in the deep forest green

Tracing of sparrow on snow-crested brown

Blankets and bedclothes the child of the mountain

Sleeps unaware of the clarion call


Tell her to make me a cambric shirt

Parsley sage rosemary and thyme

Without no seams nor needle work

Then she’ll be a true love of mine


On the side of a hill in the sprinkling of leaves

Washes the grave with silvery tears

A soldier cleans and polishes a gun

Sleeps unaware of the clarion call


Tell her to find me an acre of land

Parsley sage rosemary and thyme

Between the salt water and the sea strands

Then she’ll be a true love of mine


War bellows blazing in scarlet battalions

Generals order their soldiers to kill

And to fight for a cause they have long ago forgotten


Tell her to reap it with a sickle of leather

Parsley sage rosemary and thyme

And gather it all in a bunch of heather

Then she’ll be a true love of mine

後半は、反戦的な内容になっています。が、もととなった曲は、The Elfin Knightというballad(物語歌)です。この曲を聞くと、Scarborough周辺の景色に合っている曲調のように感じます。イングランド北部にはヒース(heath)と呼ばれるheather (heath)という植物が繁殖する土地があります。たびたびくりかえされる薬草の名前、Parsley sage rosemary and thymeがとても印象的です。意味はあるようですが、ここでは省略し、この歌にとってはなくてはならないフレーズです。

歌詞の本当の意味は誰もわからないでしょう。童謡(nursery thymes)や民謡(folk songs)はみんなそうです。Scarboroughという地名もなんだかわからず当時は聞いて、実際に行ってみて、こうして由来を調べてみると、人の歴史が少しわかります。Scarboroughの近くにはWhitbyという町もあります。この辺りは海岸沿いに北部イングランドらしい景色が続いています。


スカボロー フェアはなくても 冬の海




2024年12月16日月曜日

The Sound of Silence 2024年12月16日(月)

The Sound of Silenceは私が中学生ごろに聞いた歌です。Simon & Garfunkelの曲ですが、たぶん知ったのは『卒業(The Graduate)』という映画だったと思いますが、ラジオだったかもしれません。歌詞の意味はよくわからなかったと思いますが、The Sound of Silence(静寂の音)という響きがよかったし、映画の中で使われた他のSimon & Garfunkelの音楽が印象的でした。ビデオは、彼らの歌の変遷です。

映画自体は、当時の流行だったかもしれませんが、終わりが印象的で、結婚式に乱入し、花嫁を連れてバスに乗って、さてこれから何をするのだろう・・・という、後味を残す展開です。映画自体はあまり好きではなかったですが、音楽が映画でうまく利用され、Simon & Garfunkelを知るようになりました。

中学生の頃は、朝、牛乳配達のアルバイトをして、ラジカセ(死語ですが、ラジオを録音できるようにカセットテープがついていたもの)を買いました。音楽を聴くようになったのもその頃です。英語という言語に関心を示したのもその頃です。しかし、英語の歌詞自体はそれほど気にもせず聞いていました。当時は、英語の授業と英語の歌などはほとんど結びつかないような状況でした。英語は、考えることもしない苦手でつまらない授業でした。

The Sound of Silenceの歌詞は次のようになっています。あらため読んでみると、ちょっと考えさせられます。

ーーーー

Hello darkness, my old friend

I've come to talk with you again

Because a vision softly creeping

Left its seeds while I was sleeping

And the vision that was planted in my brain

Still remains

Within the sound of silence

In restless dreams I walked alone

Narrow streets of cobblestone

'Neath the halo of a street lamp

I turned my collar to the cold and damp

When my eyes were stabbed by the flash of a neon light

That split the night

And touched the sound of silence

And in the naked light I saw

Ten thousand people, maybe more

People talking without speaking

People hearing without listening

People writing songs that voices never share

No one dared

Disturb the sound of silence

"Fools" said I "You do not know

Silence like a cancer grows

Hear my words that I might teach you

Take my arms that I might reach you"

But my words like silent raindrops fell

And echoed in the wells of silence

And the people bowed and prayed

To the neon god they made

And the sign flashed out its warning

In the words that it was forming

And the sign said, "The words of the prophets

Are written on the subway walls

And tenement halls"

And whispered in the sounds of silence

ーーーー

(要旨)暗闇はサイレンスの音とともにあり、ひとり街を歩きネオンの光の中でサイレンスの音に触れる。そこに多くの人がいるのにサイレンスの音を誰も邪魔しない。サイレンスはガンのようにでき、ネオンの神に人は祈り、ネオンは警告する。「預言者の言葉は街の片隅に書かれている」とサイレンスの音の中でネオンが言う。

なんとなくわかるが、正確には何を言わんとしているか、よくわかリマセン。確かに雑踏の中にいても人は孤独な気分を味わうことが多く、60年前と今でも状況は違うが同じ気分は誰でも持つだろうと思います。

The words of the prophets are written on the subway walls and tenement hallsという一節が印象的です。聴くところによる Paul Simonがロンドンにいるときに耳にした一説だそうですが、神の預言者の言葉は教会ではなく貧しい人たちの住んでいるところに書かれているというような意味で、そこでは、声なき声がたくさんあるという意味なのかな、勝手に考えます。The sound(s) of silenceとはそういう意味なのでしょう。


サイレンス 街角には  サンタクロース