2025年2月28日金曜日

Passport (Identification) / 旅券 2025年2月28日(金)

パスポートもどんどんと自動化され、出国するにも入国するにも人の手を介さなくなっています。passportはMerriam-Websterによれば次のように説明されています。

a formal document issued by an authorized official of a country to one of its citizens that is usually necessary for exit from and reentry into the country, that allows the citizen to travel in a foreign country in accordance with visa requirements, and that requests protection for the citizen while abroad

日本の場合は、多くの人が一つのパスポートしか持っていませんが、複数のパスポートを持っている人もいます。

入国審査などで、ときどきID (identy document, identification)(身分証明書)を要求されることがあります。日本人はふつうIDカードを持っていません。免許証、保険証、マイナンバーカードなどがそれに代用されます。

An ID document (short for identity document or piece of identification) is any document that can be used to prove a person's identity. ID documents are passports, ID Cards, IC Cards, Citizen Cards.

身元を証明するカードを多くの人は持っています。日本の場合は、身元を証明するためには戸籍(family registration)が必要です。この制度は、日本が明治以来「家」を基本に統制してきた名残でいまだに続いています。「ファミリーヒストリー」などという番組があります。代々家族が何をしてきたかがわかるようになっているのは驚きです。つまり、身分や出生が明らかになるというシステムです。

他の国のことはよく知りませんが、日本でもどこでも宗教と繋がっていて、教会などに行くと記録が残っているというシステムもあるそうです。詳しくは知りません。しかし、移民や移住が多くなると、このシステムもかなりむずかしくなります。「夫婦別姓」がいつまでも許可されないのは、このような明治以来の伝統と関係していますが、選択できるのだから、夫婦別姓は問題ないと思うのですが、何か日本が守ってきた伝統は壊したくないのでしょう。

さて、パスポートですが、ローマ字(ABC)で自分の表記を決めなくてはいけません。漢字、ひらがな、カタカナは使えません。が、表記は自分で選べるので、パスポートが夫婦別姓とはあまり関係なく、便宜的には申請の際に好きに選べば良いのでないかと思います。旧姓のままでも問題ないです。パスポートは番号で管理されているので、その番号が意味を持ちます。さらに写真や指紋などAI技術が発達し、個人の情報は確実に管理されます。犯罪やテロなど国際的な問題などは、このように管理しないとどうしようもないので、個人情報の保護もどこまで守れるかは定かではありません。

マイナンバーカードには反対意見がありなかなか進みません。政治の不透明さが信頼をされない一つの理由です。個人情報がすべて管理されるのは怖いと反対する理由はよくわかりますが、すでにそうではなくても個人情報は管理されています。といわけで結論なのですが、パスポートとIDとマイナンバーカードなどをいっしょにしてもらえると、余分な費用もかからずに、また手続きも一括で便利だと思うのは、私だけでしょうか。マイナンバーカードを保険証として使っていますが、私は便利です。信頼できる政府や制度ならば、もっともっと便利でお金のかからないシステムが開発されれば、衰退する日本も豊かに暮らせる社会を維持できるのではないでしょうか?


パスポート 今年更新 春うらら




2025年2月27日木曜日

Travel / 旅 2025年2月27日(木)

旅というのはおもしろいものです。ちょっとした日常を離れて違う暮らしをするというのは、いつも居場所がある人にとっては、やはり趣が違います。いつもとは違う環境、生活、文化、人と触れ合うことで、何か気分が変わります。私は、旅はそれほど好きではありませんが、違う環境にいることは好きです。たとえば、店に入る、食べ物を食べる、乗り物に乗る、通りを歩く、どれもおもしろい発見があります。

昨日は、ある学校を訪問しました。今回の旅の目的の一つでもありますが、学校を訪問するのも旅の一つです。知らない場所にタクシーを使わずに公共交通機関を使って行きます。お金を節約するという目的もありますが、途中で出会うすべてのことが新鮮です。電車に乗る際でも、乗り方が国によって違います。現在はほぼカードなどでタッチして改札を通り、電車に乗ります。車両の椅子の配置も微妙に違いますが、自転車やキックボードなどを持ち込むことができたりして、日本よりはスペースが広くとってある車両もあります。そこで乗っている乗客を観察するのがとても楽しいです。昨日も訳のわからないことを喋りながら歩き回っている人がいました。

電車を降りるときも、改札があったりなかったり、無人の場合も多いです。そこでバスに乗ったり、トラムに乗り換えたりします。バスは、駅名を表示するバスとそうではないバスもあり、どこで降りるかは自分で携帯の位置情報を見るか、運転手にあらかじめ言っておくかしないと乗りすぎてしまいます。バスの乗り方もさまざまです。前から乗る、真ん中から乗るなど、運転も日本からすると荒いので気をつけなければいけません。次のビデオはMelboruneの例です。

学校に着くと、受付(reception)や事務室があります。最近はセキュリティも厳しくなりつつあります。招待されたとしても厳しいチェックをくぐり、アポイントをとった人が迎えに来てくれます。しかし、これも人に寄ります。一度入ると後は比較的自由ですが、教室や通路は鍵がかかっていることが多く、勝手にいろいろなところには行けません。学校の先生や生徒を観察するのは、これも一つの旅の楽しみです。

私の旅はいつも研究調査という明確な目的があります。物見遊山ということは最近はほぼありません。ちょっと偏った旅かもしれません。学会に行く、大学に行く、活動などに参加する、フィールドワークをする、などなどです。大学での研究活動はほぼ旅だったような気がします。travelは語源的には「移動する、働く」などの意味がありますから、私は本来のことをしているというだけです。

これまで、地球上の各大陸(南極を除く)には足を運びました。大したことはありませんが、一応私の中では満足です。ただ行けばいいということではなく、そこで何かをするということがほぼ伴っているので、このくらいが適当だろうと思います。が、いつまでできるかはわかりません。体力的にも金銭的にもそれほど余裕はありません。円安のせいで、日本からどこへ行っても費用はかなりかかるようになりました。そろそろ旅ともさようならかもしれません。


春愁や 旅に始まり 旅にいる


2025年2月26日水曜日

Sex and gender issues / 性について 2025年2月26日(水)

       What's the Difference Between Sex and Gender

性というのは生まれつき持っている質のことです。英語では、sexやgenderとしてよく使われています。日本語の「性」はそれだけではなく、性質、性格、生まれ持った性などの意味を広く持ちます。いわゆる男女などの営みは、いろいろな表現がありますが、日本語では「セックス」という表現で言われるようになりました。次第に、性はセックスの意味が強くなったような気がします。Sexは英語ではオスとメスという生物学的な意味です。

幼い頃は温泉町に育っていたので、公衆浴場は温泉で、男女がいっしょだったような記憶があります。いつの間にか男女は別となり、女性は裸を見せるものではなく、赤ん坊にお乳をあげることも人前でははばかるようになりました。小学校に入ると、男女別は当たり前になり、中学校に入学する頃には男女を意識するようになり、それが当たり前のようになり、男女の役割が自然に植え付けられたように思います。今でもそれは変わらないかもしれません。

このような意識は時代の流れにより変わるようです。テレビで裸が登場したり、いかがわしい内容などが、ふつうに放送されていた時代がありました。今とは質が違いましたが、そんなものかなと思い不思議にも思いませんでした。「いかがわしい」という基準があるならば、私には今の方がもっと辛辣な気がします。そこにあるのに誰も何も言わないというような陰湿な感じです。たとえば、インターネット上にはそのような情報が溢れています。ソーシャルネットワークも然りです。アニメやマンガやゲームの世界がどうなっているかは知りませんが、狭い世界のこととして野放しになっているかもしれません。

実際は知りませんが、「パパ活」などと言われた売春も、男女問わず行われているようです。性を売りにすることが悪とは言えず、場合によっては、それも生活のための認めるような風潮もあります。これらはマスメディアからは一応排除されていますが、世界中で静かに進行しているような気がします。というのは私の誤解なのでしょうか?

このビデオは恐ろしいです。本当なのでしょうか?これを止められない社会はどうかしています。

しかし、この流れとは逆に、男女などにかかわらず、肌の接触や露出を制限するような雰囲気が日本はとても強いような気がしてなりません。肌を露出し売春するという形態ではないようです。マスクをする、フードをかぶる、水着は昔風の肌を覆うものを着用する、夏でも長袖を着る、強い匂いや汚いものを嫌うなど、さまざま事情があると思いますが、人と人との接触を嫌う傾向がありますが、人によってはこのようなことを平気にやってしまうということです。それでも、ふつうの男女の付き合い方は、ハラスメント意識が強くステディな関係でない限り、すぐには深くはならないという傾向は変わらないようです。しかし、このような風潮は昔からありました。今に始まったことではありません。

他の国はどうかと言えば、人にもよりますが、まだ、肌の露出は多く、人目を引くような格好をする人もいます。男女の区別はなくなってきていて、かなり自由です。基本的に、いわゆるカジュアルなスタイルが市民には定着しています。もちろん社会的なマナーはありますが、特に気になりません。現象としては、世界中同じような流れですが、日本の場合は、性については少し不思議な考え方をしているような気がしてなりません。

たとえば、日本の痴漢行為や盗撮は、他の国とは微妙に違います。日本の独特な隠そうとする性の考え方と関係しているような気がします。ふだん接触や露出が少ないので、機会があればそのような行為をそそられるのではないでしょうか?売春が見えないことによって、かえって変な幻想の中で行われ、それを悪い大人が利用しているという構造が考えられます。

明らかに犯罪行為は罰せられる必要がありますが、男性女性の区別もなくなるとともに、さらに不思議な空間を作ってしまう可能性があります。私は、もう少しおおらかな関係性を築き、一人ひとりの性(単にsexではなく)を大切にして、心地よい生活が互いにできる社会に向かうことが大切なのではないでしょうか。


はこべらや 自由にしよう 性と姓


2025年2月25日火曜日

Schools / 学校 2025年2月25日(火)

いまままで日本や世界の学校をいくつ訪れたでしょうか。埼玉県の高校の教員の際は、ほとんどそのような経験には恵まれませんでした。行きたいと思っても、金も暇も機会もなかったごくふつうの教員でした。ただし、ALTと言われる外国人指導助手と触れ合うことが多々あったので、それは貴重でした。高校の教員を辞めたのきっかけに毎年いくつかの国を訪れ、学校を訪れ始めました。

学校というのはどこにでもありますが、こどもを預かっているので、誰でも自由に入ることはできません。学校授業公開日などを日本は設定していますが、それなりの対策を取って実施しています。学校を公開する理由は、あまりにも閉鎖的で世間と遊離しているような教育があったからです。この批判に応えるために、学校をある程度社会にも見えるように工夫してきています。それとともに、セキュリティはしっかりしてきています。

たとえば、世界中の多く学校は犯罪履歴のある人を制限しています。そのために、Police Checkなどと犯罪がないという証明書を提出しないと部外者は基本的に学校には入れません。特に性犯罪には厳しくなっています。課題は、学校という空間に限られず、ソーシャルネットワークの発達により、子どもたちが知らない大人と簡単に接触できるような仕組みが生まれました。ソーシャルネットワークを子どもに制限するようなルールも作られつつあります。

要するに、学校には二つの軋轢があります。一つは社会に公開し、社会とかかわり合う教育を推進することです。もう一つは、それに反して、子どもたちを、社会の悪から守る方向です。この二つは相反することで、両立はむずかしいと考えられます。それでも、その相反することを同時に学校は取り組まなければなりません。

まったく知らない学校でも、昔は訪れることは可能でした。ある程度説明すると、先生の判断で教室にも入り、写真やビデオなども撮ることができました。が、正確には記憶していませんが、十数年前から徐々に厳しくなりました。それでも、ある程度お互いの信頼性ができれば許可されるようになっていましたが、それも厳しい規制がかかり、映像にかんしては同意書のようなものがいくつも必要になっています。

私の研究は、学校文化みたいなことが重要な部分があります。そのために、学校を訪れ、生徒と話し、先生と話し、授業を観察し、メモをとり、記録を丹念に積み上げて、ときどきはアンケートや何かについて生徒に書いてもらったりしてきました。今はもうやりません。先生や生徒や授業を研究の材料とだけして、匿名性を担保し、同意書を集め、倫理規定を守りながら、制約された研究をすることにあまり意味を見いだせなくなったのです。

研究のための研究はやめて、学校を訪れ、何か力になれないかといつも思うようになりました。いまままでヨーロッパ、アジアの多くの学校を訪れました。オーストラリもアフリカも行きました。機会があまりなかったので、北米や南米にはあまり行ってませんが、少し行ってます。日本の学校はかなりあちらこちらに訪問させていただきました。現在も研究というよりは実践に活かせるように定期的に訪問させてもらっています。

さて、学校とはなんでしょうか?私は学校は基本的に嫌いな場所でした。しかし、運命の悪戯で教員になり、学校は好きではありませんが、変えたいと思っています。もっと誰もが居心地の良い学校がいいと思っています。不登校などという変な表現が世間を賑わすようなことがない、誰もがちょっと勉強したいと思えば行ける学校がいいと考えています。きっとそう思うのは、私がもともと学校が嫌いだからなのでしょう。


如月に 学校訪ね 我思う




2025年2月24日月曜日

Weak yen and the world / 円安と世界 2025年2月24日(月)

円安(weak yen)は切実に感じます。数年前と較べると、日本で暮らしている私たちが海外に出たり、輸入することに大きな影響があることは実感します。逆に言えば、日本に来る人、日本の製品を買うことは大いに助かるし、輸出は儲かっているのでしょう。どこから物事を見るかです。世の中はよくできています。

旅行者に日本人が少なくなったなと感じています。特にこの時期は、大学生にとっては長い休みの時期のはずですが、一時期より少ない印象を持ちます。昨年もそうでした。コロナを挟んで状況が大きく変わったような気がします。アジア人の旅行者を多く見ますが、中国や韓国の人が目立ちます。旅行者だけではなく、アジア人の生活者も多いです。日本人は少ない。日本食の店、寿司、ラーメンなどは、かなり多くなっています。また、けっこう美味しくなっています。

ホテルは、円安だけのことではなく、かなり高額になり、昔ふつうに泊まっていたホテルは泊まれません。みなさんが、お金持ちになり、私が貧乏になったという感覚です。以前もYenが弱い時代がありました。そのときもたいへんでしたが、現在とは事情が違うような気がします。円安だけではなく、日本の立場が確実に弱くなっている気がします。

2月24日と言えば、ロシアがウクライナに侵攻した日です。あれから3年が経ちました。ロシア上空を飛行機が飛べなくなり、燃料費も高騰し、物流が滞り、それをきっかけに、多くの物価が上がりました。すぐに終わるかと思った紛争も泥沼に入り、一般市民は疲れきっています。当初からウクライナが悪いなどという人もいました。ロシアの一般市民は紛争のことは気にしていますが、どうしようもできない権力構造に何も言えません。トランプがロシアと取引をして争いだけは止めようとしています。結局、正義などはあってなきが如しです。

円安とともに日本の役割や立場も弱くなってきました。弱くても、その中で振る舞っていけばいいと思いますが、人間というのはそうはいきません。いつまでも昔の栄光を引きずります。豪華なホテルやレストランには行かず、スーパーでビールとパンなどを買い、ファストフードを食べ、タクシーに乗らずに、バックパッカーのように旅を楽しみます。分相応に生きる。


ウクライナ 3年経っても 春は遠く




2025年2月23日日曜日

Autoethnographyとethnographyとanthropology 2025年2月23日(日)

質的研究(qualitative research)は、私にとってもライフワークの一つです。量的研究(quantitative research)が嫌いなわけではありません。が、教師という仕事にかかわり教育という領域で活動していると、自然とそうなりました。私が若い頃は科学的アプローチが流行りで、数値的なデータ(data)が重宝され、それ以外は研究とは言えないような雰囲気がありました。当初からそれはおかしいと思い、大塚英語教育研究会に通うようになり、日本の英学から始まった多様な研究の必要性を教えてもらいました。

その関係で、データの統計的な処理だけではなく、思考や現実を大切にすることにしてきました。PhDのテーマとなったlanguage teacher cognitionの研究はその最初の一歩となりました。あれやこれやと模索しましたが、体系的に考えるまでには至らず、現在まで来ています。一つの結論は、「日本の英語教師の認知は複雑で、言語教師という枠組みではくくることはできず、正確に捉えるには動的(dynamic)で適応的(adaptive)に考えることが適切だろう」となっています。つまり、複雑な職務の中でそれぞれの環境で多様に活動する日本の英語教師は、単に言語教師ではなく、教師という大きな枠組みの中で機能し、他の国の英語教師と比較するのは適当ではないということです。

autoethnographyには適切な訳語はありません。「オートエスノグラフィー」というようにカタカナ語あるいは英語そのままで使用するのが妥当のようです。これを議論するには、まず、ethnographyとは何かを理解しておく必要があるでしょう。定義は多様ですが、University of Virginiaでは次のように説明しています。

Ethnography is a qualitative method for collecting data often used in the social and behavioral sciences.  Ethnographers observe life as it happens instead of trying to manipulate it in a lab.

エスノグラフィーとは、社会や行動の科学で使われるデータ収集の質的方法ということです。日本では文化人類学などの領域で「民族学」として定着していましたが、近年誤解があり、カタカナ語で言われることが多くなっています。もともと「ethno-」は、race, culture, people, nation, class, caste, tribeなどを意味する接辞で、「あるグループの人」を意味しています。よく似た接辞に、「anthropo-」があります。これは、man or human beingsを意味し、anthropologyは「人類学」とされてきました。こちらも現在では当初より幅広く使われるようになっています。

学問がますます細分化され、細かい分野の研究をすることが研究者の役割のようになる昔も今も変わりません。一般の人がわからないように専門用語を並べ、人を煙に巻くことが学会では当然のようになっています。もちろん、先端的なことを真摯に取り組む人たちも多くいますが、そうではない私のような人もいます。私は、むずかしいことをむずかしく言うのは好きではありませんが、いつの間にか、知らず知らずのうちに、人がわからないことを言っていることが多くなってきたと自覚しています。

その面から、エスノグラフィーは以前から関心を持っていましたが、どのように人を観察し理解するのかについての方法論がよくわかりませんでした。そのため、現象学などを参考に、インタビュー、観察、日誌、実践記録など、言葉と行動をもとに、コード化、カテゴリー化などで、要素を抽出し、ある傾向を見つけ、それを総合して還元することで、何かを発見するというプロセスを、リフレクシヴィティ(reflexivity)(研究対象との相互的な関係を重視して常に認識を確認する作業)を担保しながら、研究を進めるという手法を基本的にとってきました。いわば、それも一つのエスノグラフィーの手法とも言えます。大切なことは、どれほど人を納得させることができるかにあります。

Autoethnographyは、ただそれを既存の言い方に当てはめただけです。duoethnographyという言い方もあります。何がどう違うか区別するのはむずかしいと思いますが、このような質的研究の方法論が多く展開することは、とてもいいことだと思っています。数値だけで物事は動くわけではなく、「人」が常にかかわるわけですから、エスノグラフィーは常に重要です。AIが急速に進歩していますが、エスノグラフィーがAIと強調しながら利用されるのは当然でしょう。


メルボルン 暑さ涼しさ 夏の終わり



 

2025年2月22日土曜日

Autoethnography / 自分の思考の生きた記録 2025年2月22日(土)

本日からこの日記のタイトルを変えました。理由は、長いということと、次第に「自分の思考の生きた記録」のようになってきたので、autoethnographyとしました。

Williamson K., & Johanson G.(2017).  Research Methods: Information, Systems, and Contexts: Second EditionChandos Publishing.によれば、「個人が文化社会につながる方法として著作」というようなもので、自分と他者との関係性について自分で探索することとしています。

Autoethnography is “research, writing, and method that connect the autobiographical and personal to the cultural and social” (Ellis, 2004, p. xix). Chang (2008) emphasised that autoethnography is about understanding the relationship between the self and others. The role of ‘culture’ is fundamental, as is clear from Ellis’ quotation. Moreover, while accepting the notion of ‘individual culture’, Chang stated her “nonnegotiable premise: the concept of culture is inherently group-oriented, because culture results from human interactions with each other” (pp. 16–17).

要するに、自分の思考や行動をこのように記述することにより、他者とのかかわりを持ちながら、何かについて探求していくことと考えました。しかし、私の日記はあちらこちらに飛ぶので、正確にはautoethnographyには当たらないかもしれません。方法論はさておき、1年間記録しようと決めたので流れのままに記録します。

退職したことでしがらみがなくなり、これといった達成しなければいけない仕事や研究が特にありません。自由なわけです。漫然と生きればそれで済みますが、それではあまりおもしろくないと思った次第です。あれやこれやと身体が動く限り、自分がかかわってきた教育にいまだにかかわっています。日記というと内心の醜い部分や恨みや妬みや怒りを書くのかもしれません。あるいは、事実を淡々と記録するのかもしれません。が、この日記は、阿留辺畿夜宇和を柱にしています。

このブログは、ほぼ誰も読みません。Googleでも広がりません。私も広報しないし、誰からもフィードバックもありません。ほぼ自分に対して書いています。しかし、それがおもしろいのです。つまり、この日記は誰でも見ることができますが、誰も見ないということです。インターネットというのは実に便利ですが、恐ろしい面もあることがようやく自覚できてきました。私はネット上にはかなりの情報が上がっています。それを異なる視点から狙っている集団があるという恐ろしい事実です。

最近ようやく気づいたので少し注意するようになりました。しかし、いまさら過去のものを取り下げても勝手に拡散してしまうので、もう遅いということです。生きている限り、足跡は残ります。有名人はその意味でかわいそうです。賢い人はその仕組みを知っていて実に賢く利用しています。また、その仕組み自体が透明性に欠けていて、疑心暗鬼(まさに私の現在がそうかもしれません)がはびこり、ネット上にはデマが横行し、真実が結局わかりずらくなっています。現在のメディアの現状を見ると恐ろしいと感じます。Social mediaもそろそろ考えものかもしれません。

さて、 autoethnographyと変えたからと言っても何も変わりません。私はあと数ヶ月これを以前と同様続けることにします。


2月末 どこへ向かうか この日記 



2025年2月21日金曜日

Learning languages / 言語を学ぶこと 2025年2月21日(金)

私たちは言語を使って活動をします。私であれば日本語が母語(mother tongue, native language, first language, etc.)で、生まれてからほぼこの言語を使ってほぼすべての日常生活をしています。生まれてからどうやって日本語を身につけたかは自覚がありません。物心つく頃には家庭や友達や学校で使っています。学校dは「国語」という科目で、ひらがな、カタカナ、漢字を学びました。しかし、私は書き順という概念がなく、今でもメチャクチャです。まったく関心がありません。ひらがなやカタカナもときどきよくわからなくなります。たぶん、それらの文字を画像として捉えているせいでしょう。

音声に関しては、聞くことも話すこともそれほど得意ではなく、おしゃべりではありません。アナウンサーのように明確な発音はできません。最近では年齢のせいか聞き間違いも多く、雑音のある場面では聞き取りはむずかしくなってきています。読むことも書くことも同様で進歩するということはありません。この日記も書き間違いばかりですが、とにかく見直さないことを決めて、打ち続けています。

英語は、一応使って仕事をしています。文法や語彙や発音については人よりはその仕組みを理解していますが、多様に使用されている英語の進化にはなかなかついて行けないのが現状です。英語学者や言語学者と言えるほどの知識もないと言えるでしょう。一応英語圏の大学で「博士 (PhD = doctore of philosophy)」の資格は有していますが、人に自慢できるほどではありません。

言語を学ぶことは、ふつう言語学をすることではありません。英語などの外国語を学び使えるようになることを目的とするのが、多くの人の目的です。しかし、日本ではどうでしょうか?外国語として英語が2020年度から正規の科目として小学校に導入されました。その現状には問題点も指摘されています。中学校からほぼすべて生徒が外国語としての英語を学び始めて80年になりますが、悲しいかな現状は悲惨なものです。何が問題なのでしょう。

私の結論は、学校教育なんてそんなものだということです。日本だけではありません。世界中学校の科目だけでその言語が使えるというようなことはありません。学校の学習は結局学習でしかなく、「使用(use)」には至りません。ある言語が使えるようになるまでには、相当の時間と労力が必要です。一時期英語学習を中心に、応用言語学、第二言語習得などの研究が、Communoicative Language Teaching (CLT)を中心に盛んになりました。メカニズムや学習に必要なツールは進歩したと思いますが、「使用(use)」までには多少の能力の違いがありますが、ある程度の時間がかかり、それに至る道は個人によります。

多言語多文化の地域はたくさんあります。学校教育でも外国語学習や複数の言語を使いながら学ぶ工夫は進められています。そのような多言語多文化の状況はやはり貴重で、そのような環境の中で言語を学ぶことは意味があります。日本はそうではありません。国語がすべてで、英語が外国語です。韓国語や中国語は外国語という意識よりは地域の言語という意識の方が強いです。しかし、今日では中国語や韓国語などの言語が街の中に取り入れられている状況は、ようやく多言語多文化社会が意識できる状況ができつつあります。

言語を学ぶことは、やはり世界を広げることにつながります。社会は、もう少しふつうに多様な言語を使うことを奨励すべきと思います。翻訳技術が進んだとは言え、言語を使うのは人間の特異な能力です。それをもっと開発することは、世界がもっと近くなる一つ道です。様々なツールを使いながら言語をもっと活用する知識と技能を高めることが、私たちの世界や思考を豊かにすると、私は思います。


梅日和 国語だけでは 寂しすぎ 


2025年2月20日木曜日

The way I should be / 阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ) 2025年2月20日(木)

この日記は、私の「阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)(the way I should be)を綴っています。というわけで話題は私の意識の流れ(stream of consciousness)で進むので、あちらこちらに飛びます。明恵上人は一途な人でしたが、人のことが好きだったと思います。そのために華厳経の発展に寄与しました。彼は浄土真宗や日蓮宗など自分の宗派を作らず、高山寺で阿留辺畿夜宇和を実践しました。坐禅もたくさんしたそうです。

坐禅は私はしたことがないので、よくわかりませんが、何も考えないということはないだろうと思います。ただ座っているだけではおそらくないでしょう。人は煩悩の塊です。煩悩は生きている限り続きます。煩悩とどう折り合いをつけて、自分と社会をどう位置づけ、仏を慕い、生きただろう明恵上人を、私は好きです。阿留辺畿夜宇和は、その場その場でどう生きていくかを考え続けることだと思っています。「こうすべき」と考えるのではなく、「どうあるべきか」を常に考え続け、最適と思うわれる道を探すということです。

正解などはないのが世の中です。メルボルンも物価高で、みなさん困っているようです。授業料が高くなり、学校が閉鎖となったそうです。学校がお金がないから突然閉鎖ということは、あまり考えたことはないですが、そういうこともあっても仕方がないのです。どこの国も規則は厳しい面があり、杓子定規に考えると何でもすんなりとはいきません。責任問題になるので担当者は安全第一を考えます。ある意味で、正解は何もかかわらないこともかもしれません。

しかし、世の中はそれではおもしろくないのです。「かかわる(involve)」ことは、生きる上で大切なことだと思います。ひとりで生きていくとしても、誰かと、何かとかかわります。自分が嫌だと思っても、対象側から寄ってくることも多々あります。それを避けるとしてもかかわります。坐禅はその意味でも大切なのかもしれません。

明恵は次のように言っています。

我は後世を資からんとは申さず。只現世に有べき様にて有んと申也。聖教の中にも行ずべき様に行じ、振舞べき様に振舞へとこそ説き置かれたれ。現世には左え右え(とてもかくても)あれ、後生計り資かれと説かれる聖教は無きなり。仏も戒を破て我を見て何の益かあると、説給へり。仍て阿留辺幾夜宇和と云七字を持べし。是を持つを善とす。人のわろきは、態とわろきには非ず。悪事をなす者も、善をなすとは思はざれども、あるべき様にそむきて、まげて是をなす。此の七字を心にかけて持たば、敢て悪き事有べからずと云々。

私自身は、明恵上人には遠く及ばすすが、教育者としてずっと生きてきて、まだ教育にかかわっています。今回もメルボルンではいくつかの学校を訪ね、先生に会い、授業を見ます。昨日はメルボルン大学で話をしてlearner-centrednessについて考えました。人はそれぞれ違う(これは当たり前ですが)のです。

そのことを素直に受け取れば、人が嫌がること、これはおかしいと思うこと、その場その場で自分の意思に従い行動することが基本だと思います。「悪き事」は何かも違います。それも理解しながら生きていくということが、私にはとても大事だと思っています。


悪き事 それは何かと 惑う春


2025年2月19日水曜日

Japanese classrooms in Melbourne / メルボルンの日本語授業 2025年2月19日(水)

        Australia's States and Territories

オーストラリアは多言語多文化の国です。6つの州(state)と2つの特別地域があります。New South Wales, Victoria, Queensland, Western Australia, South Australia, Tasmaniaと、Northern Territory, Australian Capital Territoryです。言語は先住民の言語なども含めてたくさんあります。公用語は英語となっています。多くの移民の人の言語にも配慮して多言語教育を推進していますが、事情は様々なようです。詳しくは知りません。

私が現在滞在しているVictoria州では、ヨーロッパ言語やアジアの言語の授業を小学校や中学校で提供しています。インドネシア語や中国語や日本語は比較的盛んなようです。生徒はどれかの言語を選択して履修し学ぶのがふつうですが、指導する先生がいるかなど事情によりどの言語を指導するかは学校の状況によるようです。日本語の授業は前回紹介したHuntingdale Primary Schoolの日本語授業を20年ほど前に参観したことがあります。それから昨年参観する機会がありました。20年の月日は大きな変化をもたらしていました。非常に充実した日本語教育になっていてびっくりしました。その他にも日本語や中国語の授業を見る機会がこれまでたびたびありました。生徒の意欲の問題もありますが、基本的には強制するというよりは、楽しく意欲を持つような授業展開です。日本の英語教育とほぼ似ていますが、受験などという環境がないので、明確な意欲を持っている生徒はかなり熱心に学習していたことが印象的です。言語は基本的にそのような環境で学ぶことが重要だと認識しました。

大学における指導法の授業も参観させてもらったことがあります。いわゆるTESOLの指導が基本で、基本的な指導法や活動を学び、それぞれの対象とする言語に当てはめ、それぞれが指導する言語を自律して考え、互いに紹介し共有するというとても興味深い授業でした。一つの教室に多言語指導や多文化指導の観点が自然に取り入れられていた点は、日本では考えられないことでした。日本では、他の外国語を指導する学生も、英語科教育法を履修し、英語で教育実習をして、機会があれば対象とした外国語(フランス語やドイツ語など)の指導に当たることがあります。が、状況はまったく違っています。

メルボルンでは、学校によってどの言語に力を入れるかが違います。熱心にやっているところは、バイリンガルに力を入れて、CLILなどにも対応しています。州のカリキュラムは一応決まっていますが、どの程度するかは、学校や先生の裁量によって違うようです。2月と8月に学生の日本語ティーチングアシスタントなどを受け入れたり、通年で日本語支援を入れている学校もあり、日本人の日本語の先生やそうではない日本語ができる先生が担当していたりしています。それぞれの言語によって事情は違いますが、先生の力量によって授業内容も変わっています。面白いのは、イタリア語が意外と盛んです。

日本語が人気があるかどうかは、そのときの経済や社会の動向によるようです。現在は日本は景気があまりよくないので、少し翳りがあるようですが、それなりのニーズがあり、盛んなようです。マンガ、アニメ、ゲームなどで根強い人気はあり、メルボルンには日本にゆかりのある人も多く住み、少しずつ文化が根付き、他の国の文化と融合して、とてもおもしろく発展しています。しかし、このような状況は、オーストラリア全体ではなく、ごく一部であり、今後この国がどのように発展していくかは定かではありません。白豪主義などと言われた時代とは大きく変わっていますが、その頃の考え方は根強く息づいているような感じもします。


夏涼し オーストラリアは 多様なり






2025年2月18日火曜日

Japan's hidden rules and customs / 日本のよくわからない決まり 2025年2月18日(火)

HobartからMelbourneに移動しました。違いますね。Melbourneは、私が最初に来た頃からだいぶ変わったような気がします。落ち着いた多言語多文化の印象がありましたが、少しずつアジア感が強いような気がします。まだ1年ぶりに来たばかりなので、また落ち着いたら書きましょう。

さて、「空気を読む」という日本語があります。英語では正確に表せないと思いますが、read the air or mood or atmosphere or situation or room or between the linesなど言うのでしょう。日本だけではなく、大なり小なり、生活習慣に密着したことはその地域の人には暗黙の了解でわかるということあります。日本は閉鎖的な社会が続いてきたのでそれが深く根付いていることが多いということなのでしょう。あるいは、「周りと同調する」(behave in the way that other people do)というような傾向が強いということです。

日本の最近のテレビや新聞報道やソーシャルメディア (social media)(SNSという言葉は使わないようにしています)のあり方にはどうも問題があるような気がします。以前にも同じようなことを書きましたが、次のようなウェブサイトがあります。

Japan’s Unspoken and Unwritten Rules: 21 Tips to Navigate Life in Japan

その中に書かれているルールは次のような内容です。私にはつまらないようなことですが、この人はそう思うのでしょう。参考にして考えましょう。

1. Avoid Walking While Eating and Drinking

最近では日本人もしてますね。他の国とそれほど変わらない。

2. Dress on the Conservative Side

これもそれほど変わらない。

3. Keep Train Chatter to a Minimum 

これもそれほど変わらない。

4. Don’t Consider Elevators as Your Meeting Rooms

これもそれほど変わらない。

5. Don’t Stand in the Middle of Escalators

これもそれほど変わらない。

6. You Don’t Need to Open or Close the Doors of a Taxi

日本は自動式がふつうだからですね。

7. Maintain Silence and Don’t Light up in Balconies

これもそれほど変わらない。

8. No Mobile Calls in the Restaurants

そうですね。他の国でもきちんとしたところは同様です。日本でも話している人はいます。

9. Buy Omiyage After a Trip

これは人に寄ります。

10. New Home? Prepare Gifts for the Neighbors

これは人に寄ります。最近ではしない人も多いです。

11. Top Up Glasses – and Wait for Yours to Be Topped Up

これは人に寄ります。私はしない。

12. Offer Your Seat to Who Needs It More

これは人に寄ります。しない人も多い。外国の方がするかもしれません。

13. Use Chopsticks Properly 

それはそうでしょう。

14. Don’t Eat Straight from the Main Dishes

これは人に寄ります。

15. Speak Softly and Avoid Chatter 

これは人に寄ります。

16. Separate Your Garbage 

これはそのようなルールがあります。ルールに従います。が、従わない人も多い。

17. Wash Before Entering the Bath

????これは人に寄ります。

18. Service is Not about Earning Tips

チップ(心づけ)というシステムが違います。が、言われてみればふつうにサービスしてますね。

19. No Shoes Inside the Homes

生活習慣の違い。

20. Toilet Slippers Belong in Toilets

これは家庭や場所によります。が、言われてみれば、そのような場所が多くあります。確かに。

21. Keep All Team Members on the Same Page

これはその組織に寄るのではないでしょうか?

意外とつまらない指摘が多いですが、私が重要視しているのは、個人的なことと公的なことの区別がゴチャゴチャになっているような気がしてなりません。何か個人的なことで問題があると、それがすべてとなり社会的な場面から排除される傾向にあることです。犯罪者となっても容疑者であれば、社会的な攻撃はされないはずですが、犯罪者でもなく個人的な問題で人を貶めるのはやりすぎなのではないかと思います。兵庫県知事の問題、不倫やハラスメントなどの問題、ジャニーズの問題などなど、週刊誌が報道したことでスキャンダルとなったりするとで社会的に排除される傾向があります。

日本は世界でも報道に関する透明性が低い国です。皇族などの報道、権力者の報道、組織などの情報開示の問題、検察や警察の透明性などなど、課題が多い国です。個人情報保護は当然ですが、すべての情報が保護されながら、逆に垂れ流しになる根拠のない情報も巷に噂として蔓延することも度々あります。ソーシャルメディアがそれを助長している気がします。そのような噂は避けられないことですが、それに対して過剰に対応することも問題で、いじめのような構造が社会にあり、公にならない分、陰でいろいろなことが起こります。

日本は情報公開している国と言われていますが、確かに暗黙の決まりがあるような気がします。いわゆる「忖度」と言われるような決まりです。「なんとなく決まる」など、誰がどう決めたのかわからないようなプロセスが好きです。いつの間にかそうなっているという文化が好きです。それに反発すると「村八分」という無視が始まります。これがとても怖いのです。

メルボルン 複雑になり 季語はなし










2025年2月17日月曜日

Life in Australia / オーストラリアの生活 2025年2月17日(月)

オーストラリアは日本に近いようで遠い国です。私が初めてオーストラリアに来たのは20年ほど前です。学生を連れてメルボルンのMonash Universityで2週間ほど過ごしました。医療系の学生の語学研修の引率です。引率と言ってもちょっと興味があったので授業などには可能な限りつきあいました。ごくふつうの英語授業で特にメルボルンまで来る必要はなかったような内容ですが、学生は大いに楽しんだようです。

何が楽しかったかと言えば、やはりホームスティや大学キャンパスや学生同士の交流でした。受験を中心とした学習にうんざりしていたことと、医療系特有の試験重視のカリキュラムに開放された喜びでしょう。その多くは現在医療系の職場で忙しく働いていると思います。語学学習のメリットはおそらくその程度です。

3月のメルボルンは暑い時もありますが、比較的過ごしやすく、日本からすると開放的で、多民族多文化が最も興味深い点です。多くの人は親切で、個人主義的です。初めて来たときから、Melbourne UniversityとMonash Universityの先生たちと交流しました。医学部に勤務していた関係から医療系から言語系までそれぞれの分野の言語使用に関して興味を持ち、また、言語の授業を参観させてもらったりしていました。多くの日本人が同じようなことをしていたと思いますが、言語教育に関する考え方が日本と違う印象がありました。

しかし、日本人に対する英語授業は、やはりTESOLの流れで、CLTの基本的な活動に、オーストラリアの文化などを背景とした内容でした。日本語教育の授業もいくつか見ましたが、小学校や中等教育では、これも日本的な直接法と読み書きなどが主流でした。その中でも興味を引いたのは当時はimmersion教育と言っていたバイリンガル教育です。現在ではCLILという人も出てきています。

オーストラリアは合衆国と同じくらいの大きさで州によって違います。私は主にVictoria州に訪れてやりとりをしていますので、他の州とは少し違うアプローチです。英語は必要な言語ですが、英語があまりよくできない人も多いので、plurilingualismやpluriculturalismは、言い方は違いますが、基本です。また、先住民を迫害したことで常に配慮を持って接しなければいけません。その点で、ヨーロッパや北米などと大きく違います。

 すべてを知るわけではありませんが、メルボルンのHuntingdale Primary Schoolの日本語immersion (CLIL)は見るべき実践があります。日本語に限らず、インドネシア語や中国語などのアジア言語やヨーロッパ言語のbilingual educationはとても盛んです。背景は複雑ですが、各学校ができる範囲で多言語や多文化に取り組んでいる姿勢は貴重です。しかし、日本のようにギスギスとした(ちょっと失礼ですが)受験につながる競争的な実践ではなく、たおやかに(resilient, flexible, etc.)進める姿勢が印象的です。

オーストラリアは住むのはたいへんだと聞きます。私は常に訪問者なので、ときどき行くのは楽しいです。おおらかに感じます。しかし、規則に関してはかなり厳しく、何かを実施しようとすると壁にぶつかります。この点に関してはギスギスとなったことも何度かありますが、「ルールはルール」としてきちんとしないと、異なる背景の人たちが暮らしていくには問題が多々出てきます。その点ではいつもたいへんな国のようです。

ただいまTasmaniaにいます。午前中はWellington Parkというところに、地元のローカルバスに乗って行き、ハイキングをしました。と言ってもちょっとです。疲れてすぐにやめました。しかし、ハイキングコースや自然の管理の仕方には見るべきものがあります。月曜日ということもあるのですが、人がほとんどいませんが、ポツポツといました。障害を持っている人、少し体重が気になる人、家族、自転車の人、ジョギングの人など、多様な人が利用していました。しかし、最低限の表示と管理であとは自己責任ということでしょう。コースは多様です。トイレには驚きました。ハイキングコースの入り口にはきれいなトイレが整備されていますが、無料だし、誰かが管理しているのでしょうが、そこに人が見張っているわけではありません。Hobartの街の中のトイレも無料できれいです。しかし、山の方に行くとトイレは汚いことが多いです。たまたまだったのかもしれませんが、気分が良かったです。


タスマニア 涼しい夏に ハイキング  



2025年2月16日日曜日

Tasmania 2 Hobart / タスマニア 2 ホバート 2025年2月15日(土)16日(日)

2月15日はオーストラリアのメルボルンに行くために1日移動でこの日記は書けませんでした。都合により今回は北京経由でメルボルンに行きました。1年ぶりの海外渡航と北京空港も久しぶりだったので、変わりように少し驚きました。中国の飛行機を利用しましたが、春節も終わり空いているかと思いきや混み合っていました。日本人は少なくほぼ中国の人で、キャビンクルーも中国の人ばかりのようでしたが、日本語も英語もどちらも対応していて、親切でした。機体は古いのかもしれませんが、多少の遅延がありましたが、特に問題はなく気分よく搭乗しました。

値段がとても安く多少サービスは悪いのかとと思っていましたが、北京からメルボルンはエンターティンメントも充実していたし、サービスもビールもワインも美味しくいただき、食事も問題ありません。北京空港はかなり綺麗になっていました。水なども取り上げられることはなく、メルボルンまでの飛行もスムーズでした。メルボルン空港で降機で少し待たされましたが、荷物もまったく問題はありませんでした。その後私はメルボルン空港でタスマニアのホバートに行くのにJETSTARを使いましたが、こちらは大幅に遅延してしまい、ホテルに着いたのは11時過ぎとなりました。JETSTARと私の相性はいつもあまりよくありません。

ホテルに疲れ切って到着して荷物を開けてびっくり、私のスーツケースは開けられていました。中国での検査の用紙があり「リチウムバッテリーが入ってました」と書いてありました。つまり鍵を開けてチェックしたということです。バッテリーはカメラのバッテリーで多くの航空会社は特に問題にしません。が、それを確認したということです。開ける必要があったのか疑問でしたが、中国のやり方も凄いと思いました。しかし、昔合衆国で鍵が壊されたのからすれば紳士的かなと思いましたが、許可なく開けて調べるのか?と思った次第です。

というわけで、ただいまホテルに戻りようやく日記を書いています。1日過ごした感想ですが、タスマニア(ホバート)は日曜日と変わりやすい天気のせいかとても気持ちのよい町で、気に入りました。夏なのにとても涼しく(ちょっと寒い)、避暑地という感じなのでしょう。しかし、オーストラリア感満載で自然とスポーツを愛する人が多く、いい感じです。スコットランドにもちょっと似たところがあり、気に入りました。もう少し若いときに来たらもっとよかったでしょうね。クルーズで年齢を確かに感じました。頑張らねばと思いました。

オーストラリアは、ヨーロッパとは違い、また、アメリカとも違い、とても魅力のある国です。もちろん問題も多々あるのですが、アジアとは確実にいっしょにやっていこうという姿勢があります。街中を歩いていてもそのことはとても感じます。アジアに関連した多くの店があります。会社もあります。タスマニアもそうです。アジア人には安心感があります。数年前までは、中国の人がたくさんいました。今ももちろんいましたが、政治的な問題で数年前の雰囲気とは違います。中国と日本も同様です。政治というのは恐ろしい力があります。私たちのようなごくふつうの市民は、政治で動いているわけではなく、経済や文化で動いています。政治がもう少し上手くやってくれれば、もっといろいろな交流ができるのにと思います。残念です。コロナがあり状況がまったく違っている何かがあります。なんとか解決してもっと上手くいくようにならないかと強く思います。

さて、ちょっとがっかりしたことは、Tasmanian devilです。見られそうにありません。昔オーストリアのヴィクトリア州のどこかの動物園で見たと思っていたのですが、あればひょっとするとお思い違いだったのかもしれません。動物保護の観点なのか現在は事情がわからない状態ですが、ちょっと見られそうにありません。がっかりです。


梅2月 あれから5年 仰ぐ空  


2025年2月14日金曜日

Tasmania / タスマニア 2025年2月14日(金)

Tasmanian devilって知っていますか?オーストラリアのタスマニアに生息する動物ですが、他の地域にもいるようです。20年くらい前に動物園でこの動物を見て、タスマニアに行きたいと思っていましたが、ようやく機会ができました。明日から久しぶりに海外に行きます。事情があり、昨年から国内から出られない状況にありました。ようやく出られるようになったので、昨年同様オーストラリアに行きます。その際、かねてから行きたかったタスマニア(Tasmania)にも行けることになりました。楽しみにしています。

The Tasmanian devil (Sarcophilus harrisii) is the world’s largest surviving marsupial carnivore, now found exclusively in Tasmania. Once present on the Australian mainland, they now face significant threats to their survival. Tasmanian devils typically weigh between 8–14 kg (males) or 5–9 kg (females), with body lengths ranging from 57 cm (females) to around 65 cm (males). They have a short lifespan, typically 5-6 years in the wild and up to 8 years in captivity.

このように説明されていますが、ビデオを見た方がわかりやすいです。この動物が見れるかどうかはわかりませんが、小さいですが、顔が恐ろしくて獰猛です。devilとはよくつけたものです。

しかし、Tasmanian devilは保護の対象になっていて、なおかつ顔面のガンの病気で知られています。

Save the Tasmanian Devil Program


このウェブによると、そのガンは、「悪魔の顔のような腫瘍の病気」と言われています。人間を対象とすると差別にあたるので、そのような名称は使われないでしょう。

Devil Facial Tumour Disease (DFTD) is the name given to a fatal condition in Tasmanian devils which is characterised by the appearance of obvious facial tumours.

この病気の蔓延のために絶滅する可能性があるので、救うということです。

さて、タスマニアはどこにあるかも知らない人も多いでしょう。私も具体的にはあまり知りません。北海道くらいの島で自然が豊かな印象です。日本と較べるとオーストラリアは自然を大事にする印象があります。国土の大きさからそう思いますが、日本も自然は豊富です。日本よりはオーストラリアの方が自然保護には厳しいです。コアラ、イルカ、ペンギンなど、私の経験から州によっては触れてはいけないとして保護しています。

Tasmanian Tiger(フクロオオカミ)という名称も聞いたことがあるかもしれませんが、こちらはすでに絶滅しているそうです。

とりあえず、タスマニアに行ってきます。

余寒なほ 旅の楽しみ タスマニア 








2025年2月13日木曜日

National foundation day / 建国記念の日 2025年2月13日(木)

2月11日は、建国記念の日で祝日でした。私は退職ぼけで休日とか祝祭日とは関係のない生活をしています。考えてみれば大学の際もそうでした。授業日確保であまり気にしていなかったようですが、キリスト教系の大学だったのでそちらの行事はきちんとやっていたようです。関係ありませんが、牧師の説教はどれもとてもよかったと記憶しています。が、実はどうなのかという疑問はいつもありました。

建国記念日ではなく「建国記念の日」となっているのは、戦前の「紀元節」を復活させることを想起するので、「の」を入れたそうです。つまり、「建国記念日と想定されるが事実はわからない日」ということです。確かに、日本は神武天皇から始まったとされていますが、神話の話で事実とは確定できません。大日本帝国憲法が発布した日が、1889年2月11日ですが、それにちなんでその日を設定するのもイデオロギーのために良しとされず、妥協の産物として「建国記念の日」が2月11日となったそうです。

昔高校の教員の頃、盛んにこの「建国記念の日」にこだわる先生がいました。その時はよくわかりませんでしたが、その先生の気持ちもわかります。が、私にとってはどうでもいいことでした(す)。英語では、たぶん、Japanese mythic founding dayなどとするのが適切なのかと思います。戦争はあったにしろ、天皇制を維持している日本は、その歴史の長さを誇るのは悪いことではないと思います。イディオロギーは紛争のもとですので、私は好きではないのです。

イディオロギーと簡単に言ってしまいましたが、かなりむずかしい用語です。国や団体や個人が政治的社会的経済的文化的宗教的などで対立することは、最近頻繁になってきました。それだけ自由な社会になったからで、いいことだと思いますが、それぞれが勝手になんでも主張することは、結局対立を生み、自由はなくなっていきます。

他の国でも同じだと思いますが、多くは平和を求めています。が、「平和のために戦う」というアポリア(aporia)です。戦いには錦の旗、大義名分が必要です。イディオロギーでどうにでも理屈がつけられます。紛争で傷つくのは紛争を積極的にする人ではなく結局多くの関係のない人たちです。私の生きてきた時代は幸い平和でした。日本のおかげです。瑣末なことで争うことはありましたが、イディオロギーの違いでいまでも揉め事は頻繁です。私自身も瑣末なことで争うことはありましたが、基本的に争うことは嫌いなので、何かあると引き下がります。よくないことかもしれませんが、そうしてきました。これからも残り少ない余生をそうして過ごせればありがたいと思っています。

「建国記念の日」に思うことは、「の」を入れたことにより収まっている争いの解決の仕方に感心します。高校教員のときに、「建国記念の日」に合わせて「の」の意味を強調していたあの先生はすごい人だったなと思うこの頃です。


建国の 記念の日に 平和あり




 

2025年2月12日水曜日

Rice / 米 2025年2月12日(水)

米は、日本では、「ご飯」とも言います。つまり、Gohan, which is the meal for most Japanese people, is rice.というわけです。最近は違いますが、私の世代では、riceは主食 (the staple food)です。しかし、よく考えてみると、一日お茶碗一杯くらいしか食べません。年齢のせいもありますが、そんなものです。少し前に、米がスーパーから消えました。が、それほど切羽詰まりませんでした。なければなくてもかまわないという感じでした。米が流通したときは、その価格にびっくりしました。が、「農家もたいへんだ」「これくらいが適正価格かもしれないね」などというのを耳にして、「そうなのかな」と納得していました。しかし、どうも裏があるようで嫌な気分です。日本の食糧に関する、あるいは、農業に関する政策がこれでいいのかと思います。

さらに、「日本の米は美味しい」「外米は美味くない」とよく言われていますが、本当にそうかなと思います。私はタイ米は大好きです。確かに品種改良でどんどんブランド米が増えて高額な米も増えています。それなりに手入れをするから仕方ないのかもしませんが、そんなに手をかけてつくり、高額になることが大事とも思いません。米の炊き方にも日本はこだわりがあるようですが、最近は高額な電気釜もできて、美味しいご飯が食べられるようです。

さて、それでは、米の由来などはどうなっているのか?世界のお米にはどのようなものがあるのでしょうか?調べてみると、 Plenus米食文化研究所というウェブがありました。西洋料理店「彌生軒」が発祥となる会社と案内があります。そこに「米ライブラリー」があり、米の歴史などが紹介されています。世界での米の生産量を示しているWorld Economic Forumの記事(2022)によると、次のようになっていて、日本はありません。

〜This is how much rice is produced around the world - and the countries that grow the most

そうすると、日本の米はほんとうに世界で一番美味しい米なのでしょうか?

品種としての分類よりも、次のウェブサイトの分類がわかりやすいので、参照します。

Types of Rice

詳しくはそのサイトを見てください。アジアでは2種類あるそうです。

There are two subtypes of Asian rice varieties: indica rice and japonica rice. Indica rice, which is more commonly eaten, features a long, slim grain and is aromatic whereas japonica rice features a short to medium grain, little aroma, and a distinct, sticky texture when cooked.

これによると、細長いインディカ米の方が主流で、ジャポニカ米という日本の米は亜流です。日本の米は、Sushi riceとして次のように紹介されています。

10. Sushi Rice

Sushi rice is technically short-grain white or brown rice that has a soft, tender, and very sticky texture. Sushi rice is made by combining short-grain white or brown rice with sugar, salt, and vinegar. Often times short-grain white or brown grain rice will be labeled as "sushi rice" on its packaging to denote that it is ideal for using to roll sushi. 

一番には、 Arborio Riceというイタリアの米が紹介されています。アジアでは、Basmati Riceが紹介されています。要するに、日本の米は世界でもマイナーな米と言えるでしょう。そうすると、やはり高価格になるのは決してよくないと思います。効率よく計画的に主食としての米の生産を安定的にすることが、国が第一にやることだと思います。


米のよう 多摩川岸辺 ネコヤナギ