2025年2月21日金曜日

Learning languages / 言語を学ぶこと 2025年2月21日(金)

私たちは言語を使って活動をします。私であれば日本語が母語(mother tongue, native language, first language, etc.)で、生まれてからほぼこの言語を使ってほぼすべての日常生活をしています。生まれてからどうやって日本語を身につけたかは自覚がありません。物心つく頃には家庭や友達や学校で使っています。学校dは「国語」という科目で、ひらがな、カタカナ、漢字を学びました。しかし、私は書き順という概念がなく、今でもメチャクチャです。まったく関心がありません。ひらがなやカタカナもときどきよくわからなくなります。たぶん、それらの文字を画像として捉えているせいでしょう。

音声に関しては、聞くことも話すこともそれほど得意ではなく、おしゃべりではありません。アナウンサーのように明確な発音はできません。最近では年齢のせいか聞き間違いも多く、雑音のある場面では聞き取りはむずかしくなってきています。読むことも書くことも同様で進歩するということはありません。この日記も書き間違いばかりですが、とにかく見直さないことを決めて、打ち続けています。

英語は、一応使って仕事をしています。文法や語彙や発音については人よりはその仕組みを理解していますが、多様に使用されている英語の進化にはなかなかついて行けないのが現状です。英語学者や言語学者と言えるほどの知識もないと言えるでしょう。一応英語圏の大学で「博士 (PhD = doctore of philosophy)」の資格は有していますが、人に自慢できるほどではありません。

言語を学ぶことは、ふつう言語学をすることではありません。英語などの外国語を学び使えるようになることを目的とするのが、多くの人の目的です。しかし、日本ではどうでしょうか?外国語として英語が2020年度から正規の科目として小学校に導入されました。その現状には問題点も指摘されています。中学校からほぼすべて生徒が外国語としての英語を学び始めて80年になりますが、悲しいかな現状は悲惨なものです。何が問題なのでしょう。

私の結論は、学校教育なんてそんなものだということです。日本だけではありません。世界中学校の科目だけでその言語が使えるというようなことはありません。学校の学習は結局学習でしかなく、「使用(use)」には至りません。ある言語が使えるようになるまでには、相当の時間と労力が必要です。一時期英語学習を中心に、応用言語学、第二言語習得などの研究が、Communoicative Language Teaching (CLT)を中心に盛んになりました。メカニズムや学習に必要なツールは進歩したと思いますが、「使用(use)」までには多少の能力の違いがありますが、ある程度の時間がかかり、それに至る道は個人によります。

多言語多文化の地域はたくさんあります。学校教育でも外国語学習や複数の言語を使いながら学ぶ工夫は進められています。そのような多言語多文化の状況はやはり貴重で、そのような環境の中で言語を学ぶことは意味があります。日本はそうではありません。国語がすべてで、英語が外国語です。韓国語や中国語は外国語という意識よりは地域の言語という意識の方が強いです。しかし、今日では中国語や韓国語などの言語が街の中に取り入れられている状況は、ようやく多言語多文化社会が意識できる状況ができつつあります。

言語を学ぶことは、やはり世界を広げることにつながります。社会は、もう少しふつうに多様な言語を使うことを奨励すべきと思います。翻訳技術が進んだとは言え、言語を使うのは人間の特異な能力です。それをもっと開発することは、世界がもっと近くなる一つ道です。様々なツールを使いながら言語をもっと活用する知識と技能を高めることが、私たちの世界や思考を豊かにすると、私は思います。


梅日和 国語だけでは 寂しすぎ 


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