2024年9月30日月曜日

ティーチャーリサーチ(teacher research) 2024年9月30日(月)

フッサールについて前回触れました。哲学としてフッサールを論じるのは、私には無理です。が、「哲学って何?」となると、あまりハードルを高くする必要はないと思います。哲学者は、英語で philosopherですが、thinkerとも言います。単純に「考える人」は哲学者でよいと思っています。西洋哲学の学術的な知識がなければ、哲学を論じてはいけないなどと考えるのは愚の骨頂であり、いわゆる「象牙の塔」にいればよいのでしょう。私は好きではありません。

その意味で、リサーチもハードルを高くすることは決してよいことではありません。大学では「卒論(graduation thesis)」というシステムがあります。現在は形骸化しているかもしれませんが、大学を修了する意味で重要です。高校の過程でも、探究ということがカリキュラムとして注目されるようになりました。以前より小学校から「自由研究」「調べ学習」などがあり、「総合的な学習の時間」も設定されてきました。つまり、これらは、すべてリサーチです。

リサーチには多様な形があります。論文も多様です。しかし、私が関わる英語教育関連の論文は、いつの頃からか量的研究が主流となってきました。この10年でだいぶ変わりましたが、統計的な分析処理をしないと認められないという意識が植え付けられるような状況もありました。また、論文の書き方の作法も厳しく、教育関係の論文では「観察、仮説、検証が必要」と制限している場合もあります。多くの場合、ある書き方を推奨している場合もあります。たとえば、「「〜を、〜において、〜ようにすれば、〜のようになり、〜が育つであろう」などと仮説設定の仕方を提示しています。要するに、形式を重視し、リサーチの本質が裏に隠れてしまうことがあります。このように、多様なリサーチがあるにもかかわらず、量的リサーチに偏る傾向があることは事実です。

現象学は、質的リサーチにおける方法の一つです。教育という現場には比較的適応するリサーチだと思っていますが、手順が明確に決まっていない、あるいは、工夫し、施工しなくては行けないために、実際にはあまり行われていません。現象学だけではなく、質的リサーチ全体は、自然科学系の実証研究の印象が強く、英語教育関係ではいまだに多くありません。

私は、ずっとTeacher researchを提唱しています。単純に「教師がリサーチをする」という意味で使っています。日本語にする「教師研究」となり、違う意味になるので、ティーチャーリサーチと言っています。10年以上も主張していますが、ほとんど日の目を見ないです。もう少しがんばります。私とは少し観点が違うかもしれませんが、次のビデオが参考になると思います。

教師が実践の中で無理なく遂行できるリサーチ」(『英語授業をよくする質的研究のすすめ』(ひつじ書房)より)リサーチの方法は多様です。

家のかえで 9月30日 秋かな?


2024年9月29日日曜日

フッサール (Edmund Husserl) 2024年9月29日(日)

      Introduction To Edmund Husserl’s Phenomenology

生きている私たちの周りにあるのは、すべて現象です。確かに存在しているはずですが、一旦その世界から消えれば、すべての現象は感知できなくなります(と思います)。しかし、そのことを確かに共有することは、ほぼ不可能に近いかもしれません。自然科学は、ある条件のもとにそれを可能にしています。哲学の探求も究極的には同様のことを目標としています。芸術もそうです。そのような現象を理解することは大切です。

現象学をここで説明することは私には不可能で、その能力はありません。が、「志向性(intentionality)」という考えはよくわかります。私たちの意識が対象に向かって働いていると考えです。現象学の基本は「還元(reduction)」と言われています。つまり、余分なものを削って、シンプルにするということでしょう。別の言い方をすると、「エポケー(epoche)する」(判断を停止する)という段階をうまく活用することらしいです。このことを「現象学的還元(phenomenological reduction)」と説明しています。この思考のプロセスを「ノエシス(noesis)」と呼び、その結果から出てきた意味を「ノエマ(noema)」と呼んでいます。それによって生まれた現象が本質的直感(intuition)となり意識(consciousness)となると理解しました。専門家に言わせると、おそらく不正確でしょう。が、このようなプロセスは省察にも役立ちます。

フッサールが、 自然科学における実証的研究作法に一石を投じようとして現象学の方法論を確立しようとしたことは確かです。存在論(ontology)と認識論(epistemology)という哲学の論争も長く続いていますが、自然科学の発達とともに、人の意識の探求も進みます。フッサールのように、人の世界や生活を現象として精査して探究しようとしたのは、確かにすごいと思います。私には何度も読み返しても理解できない点が多いですが、このような思考は重要だと思い、不十分ではあっても考え、言語化することにしています。

この日誌を綴りながら、フッサールの現象学が少しでもわかるようになることが、一つの目標です。

秋時雨 トボトボ歩く 河川敷 




2024年9月28日土曜日

Global warming & Climate change 2024年9月28日(土)

地球温暖化(global warming)や気候変動(climate change)という言葉が使われ、毎日当たり前のように聞くようになりました。

       Summer 2024 was hottest on record, EU climate change monitor says


本当に暑いと感じる日々でした。今年はどこにも行かずに家にいることが多く、確かにエアコン三昧でした。節電は理解できますが、生きるためにはどうしようもないです。
地球温暖化は、地球全体に暖かくなっている現象です。また、気候変動は、それに加え、海面上昇、永久凍土が溶けるなど、氷河の縮小、花や植物の開花時期が変わることなど、を表します。なんとかしなければと、世界中で取り組もうとしていますが、それぞれの事情でコントロールが効きません。おそらくこんな感じで破滅的な状況に進んでいくとしか予想できない状況です。
私は、暑がりです。暑さは苦手です、関東地域に住んでからもう長くなりました。それでも高校教員のときは、テニス部の顧問で毎日テニスコートに出ていました。若いということは素晴らしいことだと、いまになって思います。ある時間に何か目的があって活動することは、暑くても苦にならないのですが、それがいつまでもそのまま続くともうダメです。特に夜になっても暑さが続く場合は無理です。

さて、地球を守るためにどうしたらいいのでしょう。個人的には、ゴミの仕分け、プラスチックを使わない、歩く、電気ガスを節約し、シャワーにする、EV車に乗る、カーボンニュートラに気を遣う、など。その程度です。多少の役には立つのでしょうか?
多摩川を散歩していると、プラスチックなどのゴミが散乱しています。どうやってもなくなりません。すべてのゴミは多摩川に流れ、海に行きます。川はだいぶきれいになっていますが、おそらく相当の小さなプラスチックが海に溜まって行きます。さらには、多摩川の護岸工事でコンクリートがどんどん投入され、川に生息する生物に影響を与えています。木も伐採されています。見た目はきれいになっていますが、長期的な環境整備の計画が自治体にはないように思います。
ヨーロッパの都市をあちらこちら見ました。日本に比べると、市民が楽しめるような工夫があり、環境にもやさしくする努力が都市計画として進められているところが多いように思います。日本はその視点が弱いです。東京都内はゴミ箱を回収して現在は持ち帰りの方針を推進しています。そのために各地域の人がゴミ集めなどに対応しています。
個人の努力では限界があります。政府や自治体がもう少し計画的に対応して、住みやすみ町づくりをしていくことが、一見ハードルが高そうに見えますが、早道だと考えています。
来年はもうすこし過ごしやすい夏を!

秋めくや 暑さの中にも さわやかさ



2024年9月27日金曜日

オーバードーズ 2024年9月27日(金)

        Over-the-counter overdose reversal drug to be available


2024年9月26日木曜日

ミュージカルが好き 2024年9月26日(木)

          Memory (Reprise) | Cats the Musical


私はミュージカルが好きです。CATSを30年前にロンドンで見ました。たぶん、それからロンドンに行くとミュージカルやオペラを見ます。理由は簡単です。芝居はある程度内容を知らないとむずかしいからです。それと、ミュージカルの方が楽しい。

ウェブ(https://tour.catsthemusical.com/)では次のような案内があり、いまだに世界中で演じられています。もちろん日本でも。

Andrew Lloyd Webber’s record-breaking musical CATS returns. Adapted from TS Eliot’s ‘Old Possum’s Book of Practical Cats’, this "groundbreaking musical" (Daily Express) comes together in a sparkling fusion of music, dance and verse.

Andrew Lloyd Webberは、当時から素晴らしいミュージカル音楽を次々と発表し、現在も活動しています。冒頭のYouTubeは有名なMemoryです。

1991年に訪れたとき、Aspects of Loveも鑑賞しました。この二つが私のミュージカルとの最初の出会いです。日本ではほとんど見ません。理由は、日本語と英語の問題です。演劇や映画は原語で鑑賞するのが好きだからです。ミュージカルなども日本が舞台であれば日本語がいいです。英語で演じられるミュージカルは、やはり英語で見たい。

日本で鑑賞しない理由は、チケットが高いからです。もちろんロンドンでも高いチケットは高いですが、私は安いチケットを手に入れてみることにしています。昨年訪れたロンドンでも1ポンドが200円程度でしたが、オペラもミュージカルも5000円程度で見ました。十分楽しめます。

ロンドンのミュージカルはWest Endという地域で多く演じられます。始まる前や終わった後の雰囲気も好きです。私は金持ちではありませんので、豪勢なレストランで食事するということはほとんどありません。パブでビールとフィッシュ&チップスなどをいただき、ミュージカルを鑑賞し、終わった後にまたパブに行き、いっぱい飲んでホテルに帰る、という感じです。

最近は一時期のミュージカルの芸術性は下火で、良い作品はないような気がします。エンターティンメント、音楽などが中心でストーリー性が欠けていると私は思います。CATSの原案となったT.S. Eliotの絵本も有名です。YouTubeで朗読がありました。参考まで。

秋深し ミュージカル見て ビターちびり 

2024年9月25日水曜日

芥川龍之介 地獄変  2024年9月25日(水)

芥川龍之介の『地獄変』の話は、私にはよくわかりません。みなさん、よく知っている(?)と思いますが、元になった『宇治拾遺物語』の話はまだわかります。

『宇治拾遺物語』 「絵仏師良秀、家の焼くるを見て悦ぶ事」

これも今は昔、 絵仏師良秀といふありけり。家の隣より火出で来て、風おし掩ひて責めければ、逃げ出でて大路へ出でにけり。また衣着ぬ妻子なども、さながら内にありけり。それも知らず、ただ逃げ出でたるを事にして、向ひのつらに立てり。見れば、すでに我が家に移りて、煙、炎くゆりけるまで、大方向ひのつらに立ちて眺めければ、あさましき事とて人ども来とぶらひけれど、騒がず。「いかに」と人いひければ、向ひに立ちて、家の焼くるを見てうち頷きて時々笑ひけり。「あはれ、しつるせうとくかな。年比はわろく書きけるものかな」といふ時に、とぶらひに来たる者ども、「こはいかに、かくては立ち給へるぞ。あさましき事かな。物の憑き給へるか」といひければ、「何条物の憑くべきぞ。年比不動尊の火焔を悪しく書きけるなり。今見れば、かうこそ燃えけれと、心得つるなり。これこそせうとくよ。この道を立てて世にあらんには、仏だによく書き奉らば、百千の家も出で来なん。わたうたちこそ、させる能もおはせねば、物をも惜しみ給へ」といひて、あざ笑ひてこそ立てりけれ。その後にや、良秀がよぢり不動とて今に人々愛で合へり。 

これだけの話ですが、良秀の気持ちは芸術家として、なんとなく理解できなくはないです。が、芥川の『地獄変』は、娘がどうして焼かれてしまうのか理解できません。YouTubeは便利で、要約もあります。読んでいなければ読んでみてください。朗読もあります。

絵や音楽の才能はあまりありませんが、好きな方です。私は、心地が良いものや美しいものが芸術だと思う方です。写実(realism)は必ずしも芸術ではないと考えます。
英語には、realityとauthenticityという語があります。Oxford English Dictionaryは次のように定義しています。

reality = the true situation and the problems that actually exist in life, in contrast to how you would like life to be

authenticity = the quality of being genuine or true

realityを追求することは重要だと思いますが、対象によります。殺人というrealityを追求すると、実際に人を殺すことにつながります。それはおそらく倫理的に問題があります。それに対して、authenticityは言語教育ではよく言及されます。「本物であるという質」と辞書では言っています。日本語だと、真正性ということですが、定義は微妙です。情報関係でよく使われる言葉で、「あくまで本物と感じられるという性質」というような意味で使われています。

私には、地獄は誰も見たことがない、経験したことのない状況と考えられるので、それを表すために、不条理で狂気じみた行為は、後味が悪く、それが写実であっても、「見たくない」のです。名作と言われる『地獄変』ですが、どうも理解できません。そうは言っても、どうしても気になるので、ついつい惹かれてしまいます。

いい季節 読書の秋です 地獄変

2024年9月24日火曜日

ペットと暮らす  2024年9月24日(火)

  Pets for the Elderly

2024年9月23日月曜日

日本人学校  2024年9月23日(月)

このビデオはメルボルンの「日本人学校」を紹介しています。このような在外教育施設がどのような活動をしているかは、実はあまりよくわかっていないのではないでしょうか?個人的にはいくつかのこのような学校を訪れたことがあります。いくつかの国は同様の教育機関を大きな都市に持っています。日本にもたくさんあります。

「日本人学校」および在外教育施設は、文部科学省が、いわゆる「一条校」( 学校教育法第一条に規定された学校)として位置付けた学校です。基本は、日本国籍を持つ児童・生徒の学校です。これに対してインターナショナルスクールはそうではありません。1956年にタイのバンコクに設置されて以来、現在、世界49カ国・1地域に94校が設置され、約16,000人が学んでいるそうです。現在学んでいる児童・生徒数は、海外子女教育振興財団が次のように公開しています。

https://www.joes.or.jp/cms/joes/pdf/zaigai/teacher/2024_01_04.pdf

メルボルンは日本人が多く在住し、地元の学校で学んでいる人も多く、開放的な印象があります。が、中国のような国となると事情はまったく違うでしょう。今回深圳で起きた事件が政治的に悪い方向で影響を与えることを危惧します。個人的な経験では、中国でもあからさまな反日的な行動は経験したことがありません。どこに行っても多くの人は、人として親切です。場合によっては、日本人よりも親切な人が多いです。良い方向に向いてほしいと願います。

さて、「日本人学校」という教育は、基本的にexclusiveなシステムで私は反対です。個人的には、せっかくの機会なので、現地の学校に入って、その教育を受ける方がよりよい経験ができると思います。実際、日本でもそうですが、義務教育の範囲では、各学校は受け入れてくれます。補習授業などの制度もあるので、それでも日本の学校の教育は受けられるようになっているはずです。実際、多くの国の学校を訪れると、日本人国籍を持つ生徒に出会うことがあります。中国でも同様です。

外国で日本人学校という枠組は、どうしても閉鎖的になってしまい、また、外部から見ると、何をしているんだろうと疑念を抱かれる可能性が高いと思います。日本でもそれは同様です。内部から見ると、実際そんなことはないと考えますが、多くの学校は安全のために閉鎖的にならざるを得ないの現状です。

どこでもそうですが、お互いの言語や文化が同じ人が集まります。この傾向は仕方がないように思えますが、現状では、多くの国で、いくつかの言語を使える教育が推奨されています。日本はその意味で特異です。「国語」としての日本語が圧倒的に重要です。中国もその傾向ですが、中国は実は多言語多文化の国です。そのためにウイルグル語とかチベット語は弾圧される傾向にあります。日本の中にも多くの言語を母語とする人が暮らしています。小中学校でもますます日本語を母語としない児童・生徒が増えています。教育はどちらかと言うと、その対策をきちんととらなくてはいけないと、私は考えます。日本人学校も、日本の教育を維持することに力を注ぐよりも、個々の事情に対応し、多言語多文化に対応できるシステムや人材を育成することなどに方針を転換する段階に来ていると考えるの間違いでしょうか?

夕暮れや 学校帰りの 友の顔 



2024年9月22日日曜日

van Gogh  2024年9月22日(日)

オランダに、クレーラー・ミュラー美術館(THE KRÖLLER-MÜLLER MUSEUM)があります。一度は行ってみたいと思い、2022年に訪れました。次の絵は有名な「夜のカフェテラス」です。どうしてこういう絵が描けるのかと思います。


どう見ても、それほどうまい絵ではないですが、描こうと思ってもなかなか同じようにはできないです。構図、色彩、テーマなど、どれをとってもゴッホで、唯一のもののような気がします。何度見ても飽きない。

ゴッホの絵は、高校生の頃から好きでよく見ていました。模写もしたこともよくありました。絵を描くのは好きでしたが、最近はほとんど描きません。が、ヨーロッパでは美術館にはよく行きます。クレーラー・ミュラー美術館は少し郊外にあり、なかなか行けなかったので嬉しかったです。ゴッホの初期の絵は暗い絵でした。晩年も暗いと言えば、暗いです。が、質が違います。ずっと生きづらい人だったと思いますが、それでも、絵という道具で彼は生き抜いたことは、誰にでもできることではなく、やはり天性のものであり、稀有な人だったのでしょう。

ゴッホは、ふつうの人の暮らしをそのまま描きたかったのだと思います。この絵もゴッホだとすぐにわかります。印象派の特徴である光の表し方がやはり違います。ゴッホの中では、これが写実なのだと思います。絵に彼の想いがはっきりと正直に現れるのでしょう。景色を描いても、人を描いても、その時のゴッホのこころ持ちがそのまま出てします。それが作品を魅力的にするのだと思います。

私は、ゴッホの多くの絵で、何気ない景色を描いた絵が好きです。模写をしてみるとわかりますが、自然が動いているのがよくわかります。そして、その景色は写真とは大きく違い、ゴッホのこころが描かれてるような気がします。ゴッホの絵の構成などがよく分析されていますが、おそらくそのことは頭にはあったとしても、それよりも彼の内面から出てくる意識がそれを直感的に理解し、絵を作っていると考えます。それが、creativtityであり、originalityであり、「生きた」ということなのでしょう。

カフェテラス ゴッホが見ている 星月夜







2024年9月21日土曜日

研究5(中国の英語教育2)  2024年9月21日(土)

 2018年に中国上海市を訪問したときのことを報告しましょう。上海には、それよりも20年ほど前に訪ねたことがあります。ガラッと変わった様子には、実際にこの目で見ると驚きでした。日本企業の進出もさることながら、IT化が急速に進み、建物も交通網も近代都市そのものだった印象でした。しかし、すべて自由ではなく制限された様子でした。その後コロナを経て状況はさらに悪くなっています。残念です。

さて、その上海では、上海交通大学とその関連の付属の学校を参観しました。中国は私一人で勝手に学校訪問はできにくく、誰かの紹介などが基本的に必要です。というわけで、実際の活動はなかなか見ることはできませんが、今回は意外といろいろな場面を見ることができ、先生方とも話ができました。次の画像は、IBプログラムの中等学校の時間割です。


20年前に上海を訪れたときも、同様の時間割を見たことがあります。つまり、寮のある学校が多くあり、このような時間割になっていますが、寮がなくてもかなりの授業数があり、成績管理も厳しい傾向にあります。しかし、IBの関係で、外国籍の教員が多く指導していました。授業はもちろん英語のみです。



別の中学校の英語の授業です。こちらもすべて英語で文法の授業でした。IBの学校が少人数で活動が中心の展開でしたが、こちらは日本の典型的なクラスと同じで、生徒数もほぼ同じかちょっと多いくらいです。ほぼプロジェクターを使い、先生が説明し、生徒が手を挙げて答えるという形式でした。


教師の英語力は総じて高いと思います。授業後の英語による意見交換もみなさん流暢な英語でした。どちらも学校としてのレベルは高く、生徒も優秀だと思います。ただし、基本的に教師中心で、どの活動も与えられた課題に対して対応するというものでした。
先生との話し合いでは、この頃はかなり開かれている感じで、特に聞いてはいけないこともなく、仕事のこと、授業のこと、教育の課題など話すことができました。日本についても関心を示し、好意的で、CLILという観点で、今後交流が続けられればということになりました。しかし、コロナと政治的な問題から頓挫してしまったのは残念です。

台風一過  近くて遠い 上海は