2024年9月25日水曜日

芥川龍之介 地獄変  2024年9月25日(水)

芥川龍之介の『地獄変』の話は、私にはよくわかりません。みなさん、よく知っている(?)と思いますが、元になった『宇治拾遺物語』の話はまだわかります。

『宇治拾遺物語』 「絵仏師良秀、家の焼くるを見て悦ぶ事」

これも今は昔、 絵仏師良秀といふありけり。家の隣より火出で来て、風おし掩ひて責めければ、逃げ出でて大路へ出でにけり。また衣着ぬ妻子なども、さながら内にありけり。それも知らず、ただ逃げ出でたるを事にして、向ひのつらに立てり。見れば、すでに我が家に移りて、煙、炎くゆりけるまで、大方向ひのつらに立ちて眺めければ、あさましき事とて人ども来とぶらひけれど、騒がず。「いかに」と人いひければ、向ひに立ちて、家の焼くるを見てうち頷きて時々笑ひけり。「あはれ、しつるせうとくかな。年比はわろく書きけるものかな」といふ時に、とぶらひに来たる者ども、「こはいかに、かくては立ち給へるぞ。あさましき事かな。物の憑き給へるか」といひければ、「何条物の憑くべきぞ。年比不動尊の火焔を悪しく書きけるなり。今見れば、かうこそ燃えけれと、心得つるなり。これこそせうとくよ。この道を立てて世にあらんには、仏だによく書き奉らば、百千の家も出で来なん。わたうたちこそ、させる能もおはせねば、物をも惜しみ給へ」といひて、あざ笑ひてこそ立てりけれ。その後にや、良秀がよぢり不動とて今に人々愛で合へり。 

これだけの話ですが、良秀の気持ちは芸術家として、なんとなく理解できなくはないです。が、芥川の『地獄変』は、娘がどうして焼かれてしまうのか理解できません。YouTubeは便利で、要約もあります。読んでいなければ読んでみてください。朗読もあります。

絵や音楽の才能はあまりありませんが、好きな方です。私は、心地が良いものや美しいものが芸術だと思う方です。写実(realism)は必ずしも芸術ではないと考えます。
英語には、realityとauthenticityという語があります。Oxford English Dictionaryは次のように定義しています。

reality = the true situation and the problems that actually exist in life, in contrast to how you would like life to be

authenticity = the quality of being genuine or true

realityを追求することは重要だと思いますが、対象によります。殺人というrealityを追求すると、実際に人を殺すことにつながります。それはおそらく倫理的に問題があります。それに対して、authenticityは言語教育ではよく言及されます。「本物であるという質」と辞書では言っています。日本語だと、真正性ということですが、定義は微妙です。情報関係でよく使われる言葉で、「あくまで本物と感じられるという性質」というような意味で使われています。

私には、地獄は誰も見たことがない、経験したことのない状況と考えられるので、それを表すために、不条理で狂気じみた行為は、後味が悪く、それが写実であっても、「見たくない」のです。名作と言われる『地獄変』ですが、どうも理解できません。そうは言っても、どうしても気になるので、ついつい惹かれてしまいます。

いい季節 読書の秋です 地獄変

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