2025年8月14日木曜日

The end / 終わり 2025年8月 14日(木)

1年間、私の「意識の流れ」を中心に「生きた」記録を書いてきましたが、本日でさいごとします。一貫性は特にありませんが、私の中では一貫性があります。実践することで自分の限界もわかりました。しかし、「終わり」は大切です。始まりがあれば終わりがあります(Every beginning has an ending)。私も近いうちに人生に終わりを告げます。Heideggerは、Being-towards-deathについて、Being and Timeの中で論じています。死を乗り越えることが、私たちにとっては課題です。that - whichというサイトにこのことについて次のような解説がありました。私は、Heideggerについてはよくわかりませんので、引用します。

Authenticity, for Heidegger, begins when we accept and endure our own mortality. Rather than covering over or concealing death, we must acknowledge and accept the certainty of our own death.

オーセンティシティというのは、自分自身の死を受け入れることで始まるというわけです。オーセンティシティは、本物ということですが、その意味や価値は状況によって違います。しかし、「終わる」ということを受け入れることで、本物ということが意識できるのは納得します。

Accepting and enduring one’s mortality means accepting that death is entirely one’s own. One’s death is something that no one else can do for me. No one else can die for me and I also cannot die for someone else: “No one can take the Other’s dying away from him”.

死ぬということは自分しか経験できないことで、誰も他者の死を取り去ることもできないのです。

Authenticity means recognizing death, that is, accepting and enduring the certainty of death. Recognizing death—which happens as accepting and enduring— means, for Heidegger, comporting “ourselves towards death that in this Being, and for it, death reveals itself as a possibility”.

オーセンティシティは、死を受け入れるということであり、それは、自分を死の方向に向かわせることで、死が存在の中の可能性として現れるというわけです。

死というのは象徴として示されていると思いますが、確かに、私たちは死に向かう存在です。すべては「終わり」に向かう存在とも言えるでしょう。

Heideggerは、「Dasein(現存在)」という、「実際にいまそこにあるもの」という意味で、使いました。「存在(Sein)」とは?とは何かを理解することはむずかしいですが、Dasein(現存在)は、現にそこに意識としてある存在として、私たちは認識できるというわけです。その意味で、この日記は、現に存在していて、インターネット上に残ります。その残ったものは、すでに私を離れて、そこにあり、私という存在は別の存在となります。

この日記の始まりには、生い立ちのことを書いたと記憶しています。確かに私の現存在をふりかえるいいきっかけでした。70年間生きてきたという自分の意識の流れを1年間たどり、本日終わりです。しかし、終わりは始まりです(ending is beginning)。そして、また始まりは終わりとなります。これから何をするのか、ということを書いて終わることにします。

あいかわらず、CLIL (Content and Language Integrated Learning)の普及に努めます。しかし、私の思うCLILは常に変わっています。それは明恵上人の「阿留辺畿夜宇和」と通じます。この実践は死ぬまで続けると思います。さらに、フィンランドにはずっと思い入れがあるので、フィンランドの言語教育について、これまでの蓄積を整理したいと考えています。フィンランドは、ある意味で自分自身の思い込みを変えてくれた場所です。住んだことはありませんが、学ぶべき点が多々あります。フィンランドは教育において失敗したと述べている記事がありました。それは大きな間違いです。失敗は当たり前で、それを批判しても意味はなく、その失敗こそが学びの始まりです。そして、私自身の研究の中心である「教師のこころ」の探求です。これは、この日記とも強く関係しています。autoethnographyやphenomenologyの手法は大いに参考になります。それとともに、自分自身の探求でもあり、自分自身を見つめていきたいと考えています。

That's it


戦争は 必ず終わり また起きる


2025年8月13日水曜日

Soseki Natsume Kumamoto / 夏目漱石 熊本 2025年8月 13日(水)

先日、夏目漱石の熊本時代の住まいである内坪井旧邸の記念館を訪れました。この豪雨のちょっと前です。被害がないことを祈ります。旧邸は、明治29年(1896)、第五高等学校(現在の熊本大学)の英語教師として勤めた頃で、結婚と初の子どもが生まれた住まいです。そこは、熊本で5度目に転居した場所です。漱石の五高の教え子の寺田寅彦と出会った場所でもあります。

夏目漱石は、以前にも書きましたが、もともと英語教師であり、文学も語学にも通じた人です。それに加えて、正岡子規とも交流し、俳句や漢文学にも精通し、作家として今日にも通じる作品を多く残しています。私はすべては読んでいませんが、『ごゝろ』は何度も読んでいます。自分の研究手法としてのティーチャーリサーチに最も通じるヒントを得た作品です。

夏目漱石という人は、多くの人がその人となりを記述しています。なかなかむずかしい人です。熊本の生活が終わり、漱石はロンドンに留学しています。私はロンドン滞在中の住まいも訪れたことがありますが、そこで精神を病み、帰国します。ロンドンでの研究生活がどのようなものであったかは知りませんが、熊本滞在の頃よりは悲惨な生活だと思います。内坪井邸の広さを見てそう思いました。想像していたよりもかなり裕福な生活です。妻や子どもとの落ち着いた生活があったと思いました。それとは違うロンドンの生活があったことは想像できます。おそらく漱石にとっては窮屈な生活だったでしょう。

我に許せ 元日なれば 朝寝坊


菫程な 小さき人に 生れたし








内坪井邸にあった俳句です。なんとなく漱石という人の一面が推測されます。几帳面な人だったのでしょう。また、当時では耐えられないほどの期待を与えられロンドンに留学したのだと思います。英語教育に関しては、それまでの「お雇い外国人教師」からの脱却を託されていたと思います。留学して戻った漱石はある程度その使命を果たしたと思いますが、嫌だったのでしょう。その後の教授の職を辞して作家になったのは、私にはわかりませんが、嫌だったのでしょう。『三四郎』は九州から上京して東京帝国大学での生活の物語です。都会の生活での息苦しさと淡い期待などを表現していて、美穪子が呟く「stray sheep」という言葉に象徴される「迷い」が、漱石の中に渦巻いていたと、私は感じました。

坪井川の辺りにあり、熊本城を望み、五高(現熊本大学)に近い内坪井邸に、訪問者は私一人で、蒸し風呂のような天気の中でホッと一息居間に座り庭を見ていて、漱石はこの頃が一番幸せだったのではないかと思いました。庭には長女が産湯を使ったという井戸があります。そこにある句碑に次の俳句があります。

安々と 海鼠の如き 子を生めり







海鼠はナマコです。俳句としてどう評価するのかわかりませんが、「写生(observation)」の大切さを主張した正岡子規からすると、漱石の俳句は、やはり主観を大切にするような気がします。主観と主観が相互に行き来する間主観(intersubjectivity)を大切にするように考えられます。

漱石は、「私の個人主義」の講演の中で次のように言っています。

それで私は何も英国を手本にするという意味ではないのですけれども、要するに義務心を持っていない自由は本当の自由ではないと考えます。と云うものは、そうしたわがままな自由はけっして社会に存在し得ないからであります。よし存在してもすぐ他から排斥はいせきされ踏ふみ潰つぶされるにきまっているからです。私はあなたがたが自由にあらん事を切望するものであります。同時にあなたがたが義務というものを納得せられん事を願ってやまないのであります。こういう意味において、私は個人主義だと公言して憚はばからないつもりです。

漱石の言わんとすることは、これだけでは明確にわかりません。もう少し屈折していると思います。しかし、その屈折が漱石の魅力です。それと似たような部分は、私の中にもあります。人は結局そういうものなのです。


洗い髪 豪雨の後も 晴れる空







2025年8月12日火曜日

Hard to keep a journal / 日記はむずかしい 2025年8月 11日(月)& 12日(火)

続けることはむずかしい(hard to keep on) です。この日記は毎日何かのテーマで綴ることを目標に続けてきました。何かを発信するという目的ではなく、自分自身の思考の整理と記録を、1年間ルーティン化してみる実験です。しかし、絶対にという使命感はありません。「阿留辺畿夜宇和」を基本に「生きた」記録をすることです。それは、自分自身のふりかえりでもあり、現象学です。公開した趣旨は、そのことにより独りよがりにならないようにリフレクシヴィティ(reflexivity)を担保しようと意図しました。さらに、英語やYouTubeにこだわったのは、CLILという学習とのつながりを意識しました。しかし、毎日することは、退職した身で時間的には余裕があると考えていましたが、やはり厳しいものがありました。

一つ勉強したことは、何もしなければ、Google検索などにひっかからないということです。「バズる」というのはそう簡単なことではないということを認識しました。この日記のタイトルも当初は「生きた」などとし、Lived experienceなども使ったり、名前を入れたりしましたが、検索にはかかりませんでした。何か仕組みがあるのだろうと思いつつ、面倒なので何もしませんでした。何もしないと何も起こらないということです。「世の中は何かの意図で動く」ということでしょう。メディアというのは自然なものではなく、何かの意図が介入しているんだと認識しました。言い方を換えると、インターネットやソーシャルメディアは、アルゴリズム(algorism)が機能しているので、それを知っているか知らないかは大きく影響するようです。

意図は、志向性(intentionality)とも関連します。もちろん、この日記もある意図(志向性)があって書かれています。Husserlは、現象学においては志向性が重要で、「意識はつねに何ものかについての意識である(consciousness is always a consciousness of something)」と述べて、何かの対象(noema)を理解するには、それに向かう意識(noesis)との関係性を指摘しています。私が記述している日記はnoemaであり、それを意識している私の思考はnoesisであり、その志向性によりこの日記は成立しています。さらに、記録として残されるこの日記の記録は、インターネットという世界でどうなるかは、私がそれを意図的に拡散しようとすれば、ある現象が発展するのかもしれません。何もしなければ、それはそれなのでしょう。

続けるという意図は、私個人の決定です。しかし、さまざまな事情により毎日はできません。今回もそうです。それでも1年は続けようとする意図があり、続けています。動機の一つは、明恵上人の『夢記』です。しかし、明確な意図は当初はありませんでした。が、次第にはっきりしてきたのは、オートエスノグラフィ(autoethnography)という質的研究手法の体験と学習です。現象学をどのように研究手法として理解し、自分の研究に落とし込むかということを考えていました。今でもまだ模索中ですが、このような記述を積み重ねることで探究ができ、何らかの成果を出せるのではないかという気が少ししてきました。

というのは、私がかかわってきた英語教育の研究では、科学的と言われる仮説検証型の研究がいつの間にか主流となっていて、仮説を設定して、データを収集し、統計処理をして、検証するという自然科学的な手法でないと、研究として認めない風潮が強かったと思います。単に実践をまとめたものや自分の考えだけをまとめたものは、よほど先行研究が豊富でない限りほぼ無視されてきました。つまりある形でしか認められない傾向があり、そうでないものは雑文であり、作文でしかなかったと思います。しかし、日本の教育の伝統では、教育実践に関する報告書は相当に残されています。戦前から戦後にかけては、そのような提案や経験にもとづく案や実践報告はたくさんありました。英語教育であれば、夏目漱石も然り、岡倉由三郎も然りです。重要な視点がたくさんありました。英語教育史の研究がそれを物語っていますが、1980年代頃から第二言語習得などの作法が主流をなし、科学的アプローチが求められてきました。しかし、欧米ではそれだけではなく、質的研究や多様なアプローチがなされ、近年、英語教育においても質的アプローチは注目されてきています(と私は認識しています)。

そのような背景と、この日記は関連します。このbloggerというインターネットを利用した理由は、大学で勤めていた頃から利用していたからです。私が当時授業や研究会などで利用していたブログがほぼ残っていて、廃棄されていないので、いつまで使えるのかわかりませんが、まだあります。一応データとしては保存される可能性があるので、自分で自分のコンピュータに保存するよりはよいと考えました。検索エンジンに検知されないということはゴミとなるのでしょう。それでもかまわないが、私が生きているうちは残されそうです。

結論:継続するということはむずかしいのですが、継続するという意思は大切だと思うわけです。永久に継続することは不可能だと思いますが、継続しようとする意図(志向性)はあってよいと思います。その意味で、この日記は、私にとっては大きな意味があり、現象学を追求する意味で価値があった実践です。あと数日ですが、こうしてダラダラと書くという活動には意味がありました。明恵上人の『夢記』とはなりませんが、私自身の「阿留辺畿夜宇和」は追求できています。


ハスの花 あるべきようわ 日記綴る






2025年8月10日日曜日

Your English is good / あなたは英語が上手 2025年8月 10日(日)

「英語が上手ですね」と言われることがあります。しかし、「日本語が上手ですね」「国語が上手ですね」とは言われません。「絵が上手ですね」「歌が上手ですね」「ピアノが上手ですね」などとも言われます。しかし、「理科が上手ですね」「社会が上手ですね」「経済が上手ですね」とは言わないです。 「英語(日本語)が上手ですね」は英語を母語とする人には言いいません。ということは、それは、暗に英語(日本語)がそれほどできないだろうと思われる人に対する言い方なのかもしれません。

「Your English is good. You speak English very well. You are good at English.」などと、私は生徒に使うことはよくあります。学習中の人に評価として使います。特に嫌味はありません。しかし、次のような記事を見ました。

イチローの英語スピーチが「中学レベル+α」でも世界から絶賛されたワケ【専門家が解説】

丁寧は解説で、総じて好意的に書かれていて、発音、語彙、文法などの面を説明し、「中学校+α」のレベルの平易で良質なスピーチとし、聴衆の心を掴んだ理由を、ただ原稿を読むのではなく、自分の言葉で話した点を強調し、英語を学んでいる人を勇気づける内容でした。さいごに、「イチロー氏のスピーチは、『英語ができないから無理』と諦めがちな日本人にとって、極めて現実的かつ勇気を与えるモデルです。まずは自分の専門性を磨くこと。その力を武器に一歩外へ出れば、環境も言葉も後から必ずついてくる。そんなメッセージが、あのスピーチ全体に込められていたと思います」と締めています。私も同感で、おもしろく読ませてもらいました。単に、「イチローの英語は上手」で済ませてしまうのはよくないと思いました。

原稿はイチロー氏がすべて書いたものではなく、誰かが手を入れたと思います。誰でもそうですが、人前で話す際には、ある程度の原稿は必要です。その場で考えて話す人はそれほどいないでしょう。書き言葉でも話し言葉でも、誤りは必ずあります。私が書いているこの日記もたくさんあります。見直さないというポリシーなので、その誤りも自然な記録として残してあります(何度もこのことは言っています)。ある人は、そのような誤りに敏感で指摘して、評価しません。が、私はそうではないと思います。特に話し言葉は修正が聞きません。しかし、それを逐次指摘する人はいないでしょう。大切なことは何かということです。イチローのスピーチも、記録に残る、あるいはいちいち原稿をチェックする人がいるだろうと想定して作成されています。イチローという人を表現する最善の方法を自然にとったと考えます。その面から、私はやはりすごい人だと思います。

さて、Your English is goodとはどういう意味なのでしょうか?発音、語彙、文法、談話構造、論点構成、笑わせる、興味を引く、まるでnative speakerのようだ、などの評価のポイントがありますが、私自身、あまり話をすることは得意ではないし、発音もよくありません。語彙や文法もよく間違えます。話すときに、構成などを考えて話すことはなく、ジョークも言いません。ただ伝えたいことを話します。イントネーションなどは考えたこともありません。

私が学習者にYour English is goodなどと言うときは、「意味がわかる」ということです。ただあまりそういう評価はしません。なぜかと言えば、その言い方自体嫌いだからです。「日本語上手いですね」もあまり言いません。それよりも、話している内容に興味があるからです。内容のない話には興味がありません。だから、英語のスピーチコンテストなどの審査は好きではありません。書くことも同様です。Introduction, body, conclusionなどの構成で、bodyに、first, second, thirdとし、conclusionで、in conclusion, ..などの書き方ばかりに固執する文章は、ほぼ読まないです。

Your English is goodよりも大切なのは、中身です。発音、語彙、文法などよりもcontent, logic, argumentationなどを大切にします。それは、仮定法を使うとか、関係詞を使うとか、文構造を工夫するとか、倒置を使うとかが重要ではなく、discoure, narrative, textが重要だと思います。一般的な語句を使い、平易な構成でも、私は十分だと思います。

インターネット上を見ると、たくさんの英語学習教材、英語教室、学校などの案内がたくさんあります。〜メソッド、第二言語習得にもとづく〜、オールイングリッシュ、CLT, Bilingual. CLIL, Native speakerが指導する〜、〜大学出身〜などなど、すごい宣伝がたくさんあります。決して悪いことではありませんが、ビジネスが過ぎるのではないでしょうか?学習の機会が多様化することはよいと思いますが、世の中にそんないいものばかりあるはずがありません。結局は、一人ひとりのやる気と努力です。

結論、「Your English is good」「あなたは英語が上手ですね」というような、発音、語彙、文法などの英語の表面的な表現に焦点を当てるのではなく、その表現している内容や考え、伝えたいことに焦点を当てることがとても大切だと思います。私たちは決してアメリカ人にもイギリス人にもなるわけではありません。


夏の草 茫茫として 野を覆う


2025年8月9日土曜日

Raining in Nagasaki / 長崎は雨 2025年8月 9日(土)

8月9日は長崎に原爆が落とされた日です。1945年のことでした。今年で80年を迎えます。私が長崎に尋ねるときはほぼ雨のことが多いです。今日も雨です。「長崎は今日も雨だった」とはよく言ったものです。が、全国的に見てもそれほど雨が多いわけではないそうです。印象というか、巡り合わせというか、人間の思いはいい加減です。

雨についての歌はたくさんあります。が、どれもロマンティックで、恋とか愛とかに関係する歌が多いようです。日本の歌はたくさんありますが、英語の歌で、私が好きな歌は、たとえば、Singin’ in the Rain, Rainy Days and Mondays, Raindrops Keep Fallin' On My Head, Rhythm of the Rain, etc. 主な天気は、晴れ、曇り、雨か雪のどれかでしょうから、たくさんあって当然ですが、なんとなく天気は私たちの感情を左右させます。しかし、雨が多く降る地域はけっこう限られています。A Global View of Seasonal Rainを見ると、赤道付近とアジア(日本を含む)や南米などの地域に降水量(precipitation)が多いことがわかります。

地球温暖化の影響は温暖化だけではなく、気候を大きく変動させていることが最近になって、私も実感できるようになりました。今年の猛暑がそうです。今年だけではありませんが、今年は実に恐ろしいです。しかし、それでも世界は変わりません。人間というのは愚かです。科学がこれだけ発達し、地球の気候が大きく変わろうとしているにもかかわらず、為政者の中には、それを否定して、開発を進め、争いをしています。人間が人間に対する復讐の連鎖と、欲望です。多くの人が否定しているのに止まりません。ただのケンカの延長と見ることもできるような感情ですが、弱い一般の市民が殺戮されているのを見ると、どうしていいのかわからなくなります。

それだけではなく、身近な問題として、雨の降り方について一考しました。Extreme Precipitation in a Warming Climateには、合衆国のことについて、次のように書いてあります。

  • Climate change is supercharging the water cycle, bringing heavier precipitation extremes — and related flood risks — across the U.S. 
  • As the climate has warmed from 1958 to 2021, the most extreme precipitation days have intensified in every major U.S. region, led by the Northeast (+60%) and Midwest (+45%). 
  • This hazardous intensification is expected to continue with future warming. 
  • With 2°C (3.6°F) of warming, 85% of 3,111 total U.S. counties are likely to experience a 10% or higher increase in precipitation falling on the heaviest 1% of days. 
  • High future levels of extreme precipitation intensification are concentrated in: Alaska, Hawaii, Tennessee, Alabama, Georgia, Mississippi, Maine, North Carolina, and Kentucky.
  • People, ecosystems, and infrastructure in both wet and dry locations are facing the risks that come with short bursts of extreme rainfall. 

降水量がそれほど多くない合衆国でさえ、雨の降り方に危機感を持って詳細に書いてあります。日本はそれだけでは済まないでしょう。線状降水帯(linear precipitation band or belt, training)という言葉をよく耳にします。熱帯降雨帯(tropical precipitation band or belt)などが、温帯にも見られるようになった現象だと思います。

最近の雨の降り方は、熱帯地方のようなスコール(squall)のようなもののように思います。マレーシアなどに行ったときにそのようなスコールを経験したことがあります。ゲリラ豪雨などとも表現され、雨の振り方が情緒豊かな印象からは程遠く、以前にも書きましたが、梅雨などという表現もなくなってくるのではないかと思います。専門家によれば、地球温暖化の影響はこの先さらに厳しくなるそうです。国連などの国際機関が機能しなくなっている現在では、一人ひとりや企業などのSDGsの取り組みなどは、ほぼ意味がないのではないかと危惧します。

ただいま、この日記を綴っている目の前で雨は降り続いています。土曜日の朝ですが、長崎は式典に向けて朝から忙しなく人が動いています。弱い雨ですが、激しくなったりします。予報によれば、このまま雨が激しく降り続くそうです。私はこれから平和祈念公園に行き、参観する予定です。が、多くの人が雨の中で平和を祈ることになります。が、雨です。


長崎は くんちに祈る 平和かな




2025年8月8日金曜日

Intercultural awareness / 文化間意識 2025年8月 8日(金)

「文化間意識(intercultural awareness)」という用語を私は使っています。意味は、「文化と文化が相互にかかわり合う際に生じる意識」です。 日本では、「異文化(間)意識(crosscultural awareness)」というのが一般的に定着しています。異なる文化に対する意識となり、あえて言うと、日本とは異なる文化に対する意識となります。「異文化」は日本の文化に対して言及する際に使われることが多くあり、「異人」「外人」というよそ者というニュアンスがあり、私はあまり好きではないので使いません。

Intercultural awarenessは、正確に訳せば、「相互(互い)の文化を意識すること」ということになります。Michael Byramが使ったIntercultural Communicative Competence (ICC)という用語の方が馴染みがあるかもしれません。ICCを一つの能力として、言語とともに培う必要性を示しました。これも、異文化間コミュニケーション能力と訳されています。「異文化間」を「互いに異なる文化」という意味で使うか、「自分とは異なる文化」と解釈すると思います。面倒なので、ICCと言っているか、英語のままで使います。

EBSCOによれば、

Intercultural awareness is the capacity to recognize, comprehend, and effectively engage with diverse cultures and the individuals within them. As globalization and immigration shape contemporary society, interactions among different cultures have become increasingly frequent, making intercultural awareness a vital skill. It encompasses understanding the beliefs, behaviors, and values shared by specific groups of people, which are influenced by factors such as nationality, religion, and ethnicity. This awareness begins with self-reflection, where individuals acknowledge their own cultural backgrounds and how these influence their perceptions and actions.

世の中が、科学技術や経済の発達により、ますます複雑に多様になってきて、多くのコミュニケーションがグローバルになり、瞬時に情報が伝わる社会になり、AIの急速な発達により、言語がある程度自動で翻訳可能になり、コミュニケーションがAIにより急速に発展しました。しかし、ますます、文化的な社会的な要素の軋轢はそれだけ多くなり、判断がますます重要になってきています。その意味で、intercultural awarenessは、私たち人間がしっかりとした思考をしていかないと難しくなっています。より効果的なCritical thinkingが要求されます。

Intercultural awarenessは、上記の説明のように、一人ひとりが自分をふりかえり、他者との関係を中で他者をより理解(theory of mind)し、互いに擦り合わせる努力をし、軋轢を緩衝し、互いにとってより良いあり方を探すという意識です。答えはありません。さらに、状況によって変化します。多様なことを同時に考えなければいけません。いわば、統合する学び(integrated learning)のプロセスです。

私は、Byram先生と直接何度か話して、CEFRの中で最もむずかしい分野だということを納得しました。Pluriculturalismという言葉でCEFRは追求しましたが、結局うまくいかなかったわけです。現在もあまりうまく行っているとは言えませんが、確実にその意義は生きています。私は、intercultural awarenessという意識が、特に日本の中で暮らしていいる人には必要だと思います。「日本人ファースト」は、America Firstとは違います。日本人が何を指すのかわかりませんが、考え方によっては人種差別であり、排他的です。America Firstは「移民の国、自由の国、アメリカ」ということを第一にするということです。

日本にもすでに多くの背景を持つ人が住んでいます。今さら「日本人ファースト」は問題です。Intercultural awarenessがないと言わざるを得ません。日本にずっといると、そのような意識が欠落しているような気がします。


そっと見る 夜空にひらく 花火かな




2025年8月7日木曜日

Kindness / 親切 2025年8月 7日(木)

私はよく物を落としたり、置き忘れたり、失くしたりします。年齢のせいかもしれませんが、昔からそうでした。粗相(lapse)は頻繁です。しかし、世の中には親切な人がたくさんいます。何かを落としたり、置き忘れたりすると、たびたび「落としましたよ」とか「忘れましたよ」と、教えてくれます。そのことを書きます。

昨日は暑くて、シャツがびしょびしょになり、少し疲れていて、バッグを背負って、手拭いで汗を拭き拭き、日傘を手に持ち、うちわを持って歩いていました。このような状態で、うちわを落としたようです。気づかずに歩いていると、後ろから、「すみません!落としましたよ」と声をかけてくれて、持ってきてくれた高校生がいました。「どうもすみません。ありがとうございます」と言って苦笑いをし、またやったと思いました。

ハンドタオルはしょっちゅうです。何枚失くしたかわかりません。それでも、バスや電車の中で置き忘れたり、落とすと、多くの人が「落としましたよ」と汚いタオルを拾ってくれたりします。申し訳ない限りです。また、あるときは、トイレに携帯を忘れます。思い出してトイレに戻ると意外に盗まれたりはしないで運よく失くしたことはありません。

先日、車でスーパーに買い物に行き、食事をして、車に戻ると車のキーをなくしたことに気づきました。そこの駐車場は、倉庫に回収されるタイプの場所で、車が出てきて、さあ、乗ろうとした際に気づいたので、迷惑をかけました。キーがないので、また駐車場に戻しました。その間に探しましたが、ありがたいことに建物の管理の落とし物(lost and found)に届いていました。親切な人が届けてくれました。

さらには、パスポートを空港でなくしたことがあります。マドリードの空港で荷物検査の場所のあたりで失くしたようです。つまり、すでに飛行機に搭乗しようとしたら、なかったわけです。飛行機には乗れませんでした。すぐに管理事務所や空港関係者に尋ねました。あちらこちらをタライ回しにされましたが、最終的に警備の方に届いていました。荷物検査の場所に置き忘れていたようです。係の人が届けてくれればよいと思いましたが、そこまで親切ではなかったようです。日本でも羽田空港でパスポートを飛行機に忘れて外に出られなくなりましたが、その際は親切に届けてくれました。

ということで、失敗はたびたびしますが、なんとか収まることが多く、世の中は親切な人が多いと思います。

Things Forgotten: Simple Lapse or Serious Problem?という記事を見つけました。認知症につながる可能性もあるようです。

Over the past few years, scientists have learned a lot about memory and why some memory problems are serious but others are not. As we age, changes occur throughout the body, including the brain. As a result, you may begin to notice that it takes longer to learn new things. Perhaps you can’t remember information as well as before, or you may misplace things. These memory lapses may be signs of normal aging. But if increasing forgetfulness begins to worry you, it’s a good idea to check with your doctor. If a medical problem exists, it’s best to start treatment as early as possible.

少し気をつけなければいけません。 すべての人が親切だとは限りませんが、多くは親切だと信じます。親切な人の特徴について次の記事(個人的な見解)がありました。

THE SIX CHARACTERISTICS OF KIND PEOPLE

  • Kind people are thoughtful. 
  • Kind people are gentle. 
  • Kind people are unrushed. 
  • Kind people are generous.
  • Kind people are complimentary
  • Kind people are caring. 
経験的にこのような特徴がある人は、総じて親切だと感じます。私もできる限りそうありたいと思います。しかし、親切ということは、そう簡単には定義できないと思います。行動の問題と感情の問題があり、その状況により微妙です。あまりにも親切すぎると感情を害するかもしれません。信条、思想、文化などなど、それぞれの社会やコミュニティにより違ったアプローチがあります。日本社会は比較的親切ですが、余計なお世話的なことがあり、「空気を読む」などの表現があるように、世間を気にします。しかし、私個人の経験では、多くの場合、何か粗相があったときに、そっと助けてくれるような対応は、世界共通のような気がします。


ひまわりが あかるくさくや ここちよし






2025年8月6日水曜日

Merry-go-round / メリーゴーランド 2025年8月 6日(水)

   Carousel-Trocadero-Paris France

メリーゴーランドは、懐かしい遊園地の乗り物で、今でもあちらこちらにあります。しかし、個人的にはあまり乗ったおぼえがありません。子どもの頃はないと思います。小学校の修学旅行で今はなき豊島園に行きましたが、乗った記録はありません。大学生のときどこかの遊園地で乗ったかもしれませんが、記憶はありません。唯一の記録は娘が小さいときに遊園地に行って乗ったと思います。しかし、なぜか映画やテレビドラマでは、いろいろな場面で出てきて、どのようなものかはよく理解できています。

英語では、merry-go-round, carouselなどと言います。が、carouselと言うそうです。A Brief History of the Carouselによると、

Carousel vs. Merry-Go-Round

The name “carousel” may be derived from the Italian garosello and the Spanish carosella which mean “little war” or the French carrousel which means tournament. “Carousel” is the common English spelling, but it has been spelled “carrousel”, “carousal”, “carousell”, “carrousell”, “carroussell”,  “carousselle” and “carousal”. Carousels are also referred to as merry-go-rounds and flying horses, carry-us-alls among other names in the United States, roundabouts, gallopers and whirligigs in the United Kingdom, manège de chevaux de bois in France, torneo in Italy, cabillitos or tio vivo in Spain, and Karussel in Germany. The terms “carousel” and “merry-go-round” are synonymous.

最初に記録として使われたのは、イングランドだそうです。

The first use of the term merry-go-round is from a 1762 poem entitled Bartleme Fair by George Alexander Stevens (1710-1784) describing the St. Bartholomew Fair in England:

Here's Whittington's cat, and the tall dromedary,

The chaise without horses, and Queen of Hungary;

The merry-go-rounds, come who rides? come who rides?

しかし、よく考えると、ぐるぐると回る遊具は学校にありました。それがメリーゴーランドとは知りませんでした。私の考えでは、次のような遊具、乗り物がメリーゴーランドです。

The Modern Carousel

The modern carousel was born in the 18th century. By the early 19th century carousels with carved horses had appeared. Soon, portable, traveling machines spread throughout Europe. The early carousels were the “flying” style where the riders with or without horses were suspended by chains and/or rods, and the force created by spinning the mechanism by which the horses were suspended would swing, “fly”, the horses outward much like a rotating swing. Many were in use in picnic grounds and parks in the eastern United States.

現在は、ますます進化していますが、その魅力は止まりません。ぐるぐると回るだけですが、なぜそれほど人気があるのかはよくわかりません。とてもシンプルでノスタルジックなものです。

私は、やはり、Merry-go-roundという言い方が好きです。「楽しく回る」ということだと思いますが、いい響きです。変に日本語をつけることなくそのままメリーゴーラ(ウ)ンドとして定着しています。その意味はやはい欧米の香りがあるのだと思います。乗り物自体が、異国情緒があり、現実からの逃避があるような気がします。ファンタジーの世界にほんの一瞬入れる機会なのでしょう。私はそのような刹那的な時間はあまり好きではないので、それほど魅力は感じません。

遊園地やアミューズメントのようなファンタジーの世界に行ったとしても、現実は現実としてそこに存在するので、その認識は逃れることはできません。私自身は、「今を生きる」ことを大切にしているので、現実は直視します。ファンタジーはファンタジーであって、それだけです。ただ、メリーゴーラ(ウ)ンドは、私の中では生きてきた中で一つの意味があります。それは、ぐるぐると回る一瞬の時間の中で、人生が走馬灯(flash back)のように過ぎる体験だと思います。しかし、私自身はそのような振り返りは思い出として楽しむことはできません。


夏休み メリーゴーラ(ウ)ンドで ふりかえる

 


 

2025年8月5日火曜日

Forests and grasslands / 森と草原 2025年8月 4日(月)& 5日(火)

熊本県の奥阿蘇というところに行きました。阿蘇山カルデラの中にいます。森と草原と山並は日本の原風景のような感じがしますが、原風景がなんであるかは知らないのでなんとも言えません。しかし、美しいです。阿蘇のこの辺りは杉とか檜が植林され、山を覆っています。また、草原にはススキが生えていて、牛や馬が放牧されています。しかし、ススキが大きく育っているところがあります。聞くところ、放牧がされていないからだと言います。しかし、その大きくなるススキは茅葺(thatching)に使われているそうです。

森、森林(forests)は、場所にもよりますが、日本にはかなりあると思います。OECDの国では、フィンランド、スウェーデンに次いで3番目で、68.4%と言われています。昨日とある森林などが多くある場所を車でめぐりました。杉の森です。そういう場所を通っていると、森林はたくさんあり、それほど心配ないように思います。かえって手入れが行き届いていないので、少し密集しすぎていて、荒れているような印象も持ちました。実態は分かりません。

世界遺産となっている森林に関する内容は、UNESCO World Heritage Forestsに紹介されています。

Forests are some of the most biodiversity-rich habitats on Earth. They play a crucial role in climate regulation by absorbing carbon dioxide (CO2) and are considered as one of the most cost-effective forms of climate action.

They are also vitally important for human well-being and survival. It is estimated that around 1.6 billion people - including more than 2,000 indigenous cultures - depend on forests for their livelihoods, medicine, fuel, food and shelter.

劣化(degradation)は進み、森林の保存は急務となっています。

私が育った草津温泉の環境は、平地とは違い、標高の少し高いところでした。カラマツやシラカバの木が多く、草原という場所は少なく、近くには草津白根山があり、温泉もあり、平地の生活とは違う環境でした。現在は、その頃とだいぶ変わっています。が、決して乱開発はされているわけではなく、全体的に過疎化が進んでいる場所です。

日本の森林は、24,954,800 hectaresであり、世界では23番目とあります。国土の割合からすれば妥当だと思います。耕作地は、4,444,000 hectaresで、世界では57番目です。今回の米騒動からすると、耕作地が少なく、森林地域が多い国だと実感します。それも、フィンランドやスウェーデンと較べると山間地域に森林があるので、伐採して運び出すのにも、伐採した後の植栽にも人手がいるので、現状では林野業は衰退の一歩を辿っているようです。

森は、単に地球温暖化に影響を与えるだけではなく、動植物全体に影響を与える場所です。地球全体からすれば、熱帯雨林の減少の問題の方が大きいでしょう。日本は島国で、人口減少が今後激しくなります。地方の森の近くに暮らしている多くは高齢者です。過疎化だけの問題ではなく、人里が無くなり、森がますます荒廃していきます。動植物にとってはひょっとすると人間いなくなることによりよい環境になるかもしれません。が、耕作地はますます荒廃し、人は都会の一部に集中するでしょう。それでも日本はこれまで培った科学技術力と経済力で国家を維持するのかもしれません。

しろうとのぼやきですので、このようなことを書いても意味はありません。森の話題に戻りましょう。森林は、人間が生きる意味でも重要です。日本の神社や寺院を見てみると、自然、それも、森と深く関係していることがよく分かります。多くの神社は森の中にあります。森は独特の雰囲気を保ちます。古来よりそのような環境は神聖な何かを感じさせる場所です。森林浴(forest bathing)は日本独特の癒しでありセラピーです。日本では、結核の人の療養所としてサナトリウムという隔離施設がありました。英語では、sanitarium, sanatoriumと言います。小説などによく出てくる療養所で、『トトロ』にも出てきました。

森はその空気が違い、人を癒す効果があると言われています。私も一時期そのような生活を楽しんだ経験がありますが、住むとなるとたいへんで虫や湿気や草刈りや落ち葉や、とにかく毎日のように手入れをしないとやっていけません。癒しの瞬間は、朝早く森を眺めながらコーヒーを飲むというような瞬間か、森や林の中を散歩していて動物に出会ったりすることです。クマとは遭遇したことはありません。

森だけでは、たぶん阿蘇の自然の美しさは成り立たないのです。草原があるからであり、カルデラの大地に広がる水田があるからでしょう。そのすべてが生態系の中で育まれていると感じます。都会にいるとわかりませんが、森や山の近くに来ると気候の違いがはっきりとわかります。やはり山育ちだったので、山のあるところに来ると落ち着きます。しかし、私の育った山は、この阿蘇とは違います。どちらも美しいと思います。それだけではなく、世界中にそれは言えます。今年最初に訪れたタスマニアがそうでした。日本とはまったく違う自然ですが、やはり美しいです。それは、ただの自然ではなく、管理する人がいるからであり、生物全体がそれを作り出しています。このような生態系や多様性が地球を美しくしていると思います。無意味な争いはやめるべきでしょう


森がある 夏座敷から 森に入る


2025年8月3日日曜日

Academic knowledge and skills / 学力 2025年8月 3日(日)

型通りの会見です。 令和6年度経年変化分析調査・保護者に対する調査の結果が国立教育政策研究所が先日公表されました。目的は、「全国的な学力の状況について、経年の変化を把握・分析し、今後の教育施策の検証・改善に役立てるため」としています。詳細な調査結果はすべて見ていませんが、概要を見ると、報道にあるとおり、小学生と中学生の学力は低下している、ということです。原因を特定することはむずかしいと思いますが、総じて、新型コロナ感染症の蔓延(the COVID-19 Pandemic)が影響していると考えられるということです。

「学力」の定義はむずかしいとおもいます。PISAという国際調査があります。Programme for International Student Assessmentの略で、日本語では「OECD生徒の学習到達度調査」などとしています。「学習到達度」としています。英語では、academic achievement, performance, ability, knowledge, skillsなどと言うのかもしれませんが、日本語の「学力」というものがなんなのかは、どうも明確ではなく、人によって違うということが少し見えてきます。英語では、assessmentという言葉がよく使われる印象が私にはあります。それは、アセスメント、評価、測定などと日本語では言われます。Assessmentは「the act of judging or deciding the amount, value, quality, or importance of something, or the judgment or decision that is made」(Cambridge dictionary)などと定義されています。「ある判断をするための行為」と言えると思います。

今回の調査は、国語、算数(数学)、英語のテスト問題の正答のスコアを量的に調査した資料と保護者などに学習の様子をアンケート調査した資料をもとにしています。経年的に続けているので、この調査自体の形式は今後も続くと思います。「学力(学習到達度)」調査と、子どもたちの学習状況を今後も続けていくということです。調査は、文部科学省の学習指導要領の方針に基づく学習調査です。学習指導要領がどの程度達成されているかという意図をもって調査しています。報告書では次の3点に焦点を当てています。

○ 主体的・対話的で深い学びの視点からの授業改善

○ 学習指導の充実

○ 次期学習指導要領に向けた中央教育審議会における検討

特に、さいごの点が重要となると思います。そこでは、「経済的に困難な背景のある子供たちを含め、子供たち一人一人が必要な資質・能力を育成できるよう、各教科等の改善や柔軟な教育課程編成の在り方について、次期学習指導要領に向けた検討を行う」としています。

方向性としては、家庭の社会経済的な問題と保護者の学習に対する意識から、学力が低下したのではないかとして、学校の授業や学習の仕方を改善し、教師や家庭への支援が望まれるような意図を感じました。しかし、そもそも「学力」の捉え方が変化していると考えることが大切な気がします。すべて読んでいないので的を射ていないかもしれませんが、あえて言うと、調査の視点が「学力(学習到達度)」だけに視点があり、「何のために学ぶのか?」「学校での学びの意味は何か?」「テストの意図は?」「家庭学習は学校の勉強だけでよいのか?」「本を読むことがどれだけの意味があるのか?」「子どもたちに何を期待しているのか?」「家庭の生活習慣にまで立ち入る意味は何か?」「文部科学省はどこまで学習に関与したいのか?」などなど、多くの疑問が残る調査という印象を持ちます。

調査自体に意味がないとは思えませんが、調査が対象としている「学び」に対する姿勢が形骸化しているような気がします。学習指導要領ありきではなく、もう少し伸び伸びとした教育政策を望みたいと感じます。なぜならば、日本の子どもたちの学習状況は決して悪くないからです。おそらく、学力が低下しているのではなく、学習の質が変わっているのです。体験などが多くなっているのもその成果の現れだと思います。よいことを伸ばして、意味のないことはやめるべきです。個々の問題に対する回答を見ると、 CBTの回答とPBTの回答に差があったりしています。無答がある一つの要因には、意欲がないということもあると考えます。無駄な調査はやめて、意味のある活動や調査をしていただきたいと考えます。


夏の旅 学びは遊び テスト嫌




2025年8月2日土曜日

Tsunami / 津波 2025年8月 2日(土)

津波はそのまま英語でもTsunamiと言われています。世界中にその言葉はあってもよさそうですが、日本のTsunamiが有名になっています。英語では別に、tidal waveとも言います。が、日本の津波の記録があり、その印象が強くあり、定着したようです。では、どう違うのかということですが、次のような説明があります。

What is the difference between a tsunami and a tidal wave?

Although both are sea waves, a tsunami and a tidal wave are two different and unrelated phenomena. A tidal wave is a shallow water wave caused by the gravitational interactions between the Sun, Moon, and Earth ("tidal wave" was used in earlier times to describe what we now call a tsunami.) A tsunami is an ocean wave triggered by large earthquakes that occur near or under the ocean, volcanic eruptions, submarine landslides, or by onshore landslides in which large volumes of debris fall into the water.

また、日本語では、波浪と津波という言い方があります。波浪警報などと使いますが、気象庁の津波の説明には、波浪は水の表面の動きで、台風などの際に風で生じる波です。海の底の水は動きませんが、津波は海の水の全体が動くのでちょっとした波の高さでもその力はまったく違うというわけです。今回のカムチャツカの地震の影響による津波もそうですが、東日本大震災の際の津波でも勉強しました。

津波の被害やその範囲の広さには、最近特に感じるようになりました。が、海の近くに住んだことがないので、その恐ろしさは実感しません。防潮堤を築いたり、南海トラフ地震の防災体制を考えると、経験した人はその必要性を痛感するのだと思います。

経験しないことは、やはり深くは理解できません。これまでの人生で、幸いなことにあまり恐ろしい経験をしたことがありません。70年間、ほぼ考えてみれば幸せな人生だと思います。地震、火事、洪水、津波、遭難、争い、交通事故、病気、家族の死などなど、些細なことは多々あっても、致命的なことはこれまでありませんでした。たぶん何かを恐ろしい経験をしていれば、私の人生も変わったと思いますが、ここまでは平穏です。ただ私は小さい頃から、臆病者でした。今でもそうです。慎重と言えば慎重だったかもしれませんが、骨折やちょっとした交通事故、病気、職場の諍い、いじめ、貧乏など多少のことはありましたが、どれも些細なことです。

経験ほど貴重なものはないと今でも思います。外国へ行くのもそうです。人と話すのもそうです。知らないことは経験したいと思う方ですが、危険なことはしません。しかし、すべてを経験できないのはもちろんです。実際の経験がなくても、本や映像は予想できます。具体的な予想を立てて考えることができます。その点から自然科学も興味がありますが、その自然科学では検証できないことも興味があります。そのせいから、観察と人の考え方に興味があり、自分の仕事に直接関係のある教師認知(teacher cognition)という分野を探求してきました。結論はありませんが、たかが教師ですが、教師という仕事の複雑さを実感しています。特に言語教師の認知を探求していますが、言語教師には収まらないこと、教師、生徒、授業、養成、研修、学習など、統合的に考えないと納得できないことばかりです。

津波に関しても、今回もそうですが、結局見えないわけですから、いつどのように出現するかは、研究者も結局わからないわけです。そのために万が一ということから1日以上警報や注意報が続きました。「怖いぞ」ということから、暑いは二の次になるわけです。マスコミは大騒ぎしていますが、海や川の近くの人が津波に気をつける必要がありますが、それ以外は他人事です。私は多摩川に住んでいますが、海までは20キロあるので、ほぼ気にしませんでした。

経験していないので、怒られるかもしれませんが、もう少しターゲットを絞り、地域ごとに的確な指示ができるシステムが必要なのではないかとちょっと思いました。結局、海の中で何が起きいるのかはわからないのであれば、最初からそう言って1日くらい気をつけてください、と言うだけでもよかったのではないかと思います。ロシアの映像を流して恐怖を煽る必要はおそらくないと思うのは、私だけでしょうか。


風鈴は チリンチリンと 静かよし



2025年8月1日金曜日

1st August / 8月1日 2025年8月 1日(金)

いよいよ8月です。あと14日でこの日記も終わります。なんとなく始めた日記で、一つの「生きた(生きられたではなく)経験(lived experience)」を記述しています。当初の方針どおり、基本的に文章を推敲しない、思ったことを書き殴るということです。間違いがあっても直さない、気にしない、文章がおかしいのも多々あるわけですが、それは自然なことです。文章力がないのでそれも私の特性で、そのまま書くということです。誰かに読まれるということは、想定はしていますが、それに対してどうとも思わず、ただ記録を残しておくという趣旨です。この日記のタイトルも、その中で変遷し最終的に「Sasa Autoethnography」としました。

構成は、関連のYouTubeを加えて、俳句で終えるという形式です。その理由は、CLILという教育の教材研究と、俳句の練習です。日本語と英語で考えることを目的としています。また、阿留辺畿夜宇和という明恵上人の生き方を少したどりたいと思って続けました。当初はすぐにやめるつもりでしたが、おもしろくなって続けています。が、ずっと続けることは生活上無理なので1年と決めました。さいわいなんの苦情も来ないので、迷惑はかけていないようです。また、Googleの検索にはほぼ引っかからないようで、そっと世界の片隅の戯言という状況がおもしろいと思いました。「バズる」というのはたいへんなんだと思います。インターネットやソーシャルメディアというメディアもなんらかの作為により動いていることがよくわかります。

意味のなく、作為もなく、毎日続けることは、私の散歩と同じです。散歩はコロナが蔓延し出した2020年4月から続けています。ずいぶん歩いてきた割には痩せもせず、健康的でもなく、それほど変わらず「生きて」います。ただ、散歩もこの日記も、私にとっては、一つの「こころの安定、バランス」となっていることは間違いありません。

八月一日は「ほずみ」とも読むそうです。また、八月朔日として八朔とも言われるそうです。八朔は、豊作や普段お世話になっている人への感謝を表す日だそうです。ということで、本日は、この日記をここまで続けられたことに感謝したいと思います。「綴る」という作業は、いろいろと考えさせられます。私はただの英語教育実践や教育実践に興味があり、その関係の仕事に従事してきました。言語を考えるということは、言語だけには限らない多くのことを理解し考えなければいけないということを痛感しています。

    [Titanic] Jack Dawson - To make it count

「いまを生きる(make it count)」という言葉が好きです。「生きる」ということは、ただその連続です。結論は出ないことがほとんどです。何か偉そうなことを言っても、それで解決はつきません。問題があれば対応をしますが、さらなる課題が出てきます。目の前の課題にただただ向き合っていくことしかなく、日々を過ごしていくしかない。毎日毎日変わります。喜びも悲しみもただただそのまま受け入れていくしかない。賢く生きることは大切ですが、そうはいかないのが世の中です。私は、退職してから、それしかないのだと思うようにしています。あと数年かそこいらどこまで生きるのかわかりませんが、ただただ生きていくしかないと今日8月1日思います。


今日です 八月一日 私の日




2025年7月31日木曜日

Stirling in Scotland / スコットランド・スターリング 2025年7月 31日(木)

スコットランド(Scotland)はときどきニュースでも扱われますが、日本ではまだまだ認知度が薄く、誤解されている英国の一部でありながら国です。Scotlandはbugpiple, whisky, golf, curlingなどで知られることが多いですが、日本とは昔から関係の深い国です。私は、そこで博士課程を修了し、教育学博士号を取得しました。英語で言うと、Doctor of Philosophy (PhD)です。スターリング大学(the University of Stirling)で学びました。学んだと言ってもparttimeです。日本にいながら、年に数回通うことで学びました。外国の場合も日本も同様ですが、授業をただ受けることではなく、自分のテーマを追求し研究し、それを認めてもらうことです。とてもいい経験でした。その研究の内容は以前も書きましたので省略します。

ここではStirling という場所について書いておきたいと思います。Stirling はScotlandの歴史上重要な場所です。それを象徴するのが、Wallace MonumentとStirling Castleです。EdinburghやGlasgowから車や列車でStirlingの近くに来ると、この二つがあり、Landmarkとなっています。William Wallaceは13世紀末にEnglandの支配に抵抗した英雄とされています。大学近くのStirling Bridgeでの戦いで勝利しましたが、その後近くのFalkirkという場所で負けて、その後捕まり、Londonで処刑されました。映画Brave Heartでその件は表現されています。Robert BruceとともにScotlandでは建国の英雄として讃えられています。

The University of Stirlingは、キャンパスが自然に恵まれた場所にあり、寮もあり、スポーツ施設なども完備された、過ごしやすい環境です。私も最初の頃は、日頃のストレスを解消するために、ゆっくりとさせていただきました。ただ私の場合は、当初あったScottish CILTという言語教育センターにずっといさせてもらったので、ほぼそこにいて、Scotlandの言語教員研修などの活動に参加させてもらい調査しました。センター長のRichard Johnstone先生のおかげで楽しい研究生活をさせてもらいました。

Stirlingは小さな街でPubもほぼすべて行ったと思います。街とは別に大学の近くにはBridge of Allanというとても居心地の良い場所があり、カフェやパブやちょっとしたお店があり、そこのB & Bにも滞在しました。いつもEdinburgh空港でレンタカーを借り、1〜3週間滞在するという学業生活をしていました。学業生活と言っても、せっかくScotlandにいるのであちらこちらにドライブに行っていました。その点で、Stirlingはちょうど良い場所にあったと思います。

日本では、Scotlandに少し偏見を持った人は、訛りがどうの、文化的にどうの、という人がときどきいます。英語はどこへ行っても少しずつ違います。日本と同じです。私は一度も気にしたことがありません。日本はアメリカ英語に多くの人は偏っているので、そう思うのでしょう。が、私はScotlandに来ると落ち着きます。なぜかという、、、やはり人です。派手な人もいますが、比較的素朴な人が多いです。日本的情緒性と親和性が高いと思います。

学校や教師も、基本的には日本とよく似ていて、厳しさもありますが、新しさもあり、伝統を大事にしますが、閉鎖的ではありません。Englandに対する対抗意識もあり、各地域のそれぞれの特性も大事にします。ScotsやScottish English という訛りや文化も大切にしながら、自分たちの生き様を誇りに思っているresilienceを感じます。私が回った学校やそこで働く教師から得た個人的な印象ですが、たくましさがあるような気がします。Londonあたりの忙しない生活とは一線を画しているので、私は落ち着きます。

最近はあまり行くこともなくなりましたが、数年のうちにはもう一回訪れたい街がStirlingです。私のもう一つの故郷かもしれません。


夕焼けに スターリングは 遠くあり


2025年7月30日水曜日

Bears / 熊 2025年7月 30日(水)

熊(クマ)があちらこちらで悪者になっています。背景には、さまざまな問題があると思いますが、市外に出没したり、家を荒らしたり、人を襲ったりなど、私たちの生活を脅かしている報道がされます。これに関しては、熊の脅威を感じない人(私も含めて)には他人事で、殺傷処分がされることには率直に「かわいそう」と感じます。シカやイノシシはジビエとして重宝され、捕獲され、肉とされても、誰も「かわいそう」とは言わず、「おいしい」となります。たくさんいるから、人間に害がそれほどないから、畑を荒らすから、などなどの理由です。また、サルは殺傷されません。人を襲わないので脅威とならないからでしょう。

クマは意外と人間の生活圏に近いところにいるので、結局昔から駆除され、肉となり、それなりに食べられてきました。敬意を払ってジビエとなっていました。クジラやイルカも、私たちは捕獲して食べてきています。人間の勝手と言えば勝手です。それでも、クマはなんとなく「かわいそう」と思うのは私だけでしょうか?金太郎、プーさんなど、親しまれる動物です。ぬいぐるみもたくさんあります。愛されながらも、恐ろしいクマという二面性は、どうも納得がいきません。

    Where are the bears?

英語で「Living with bears」と検索をかけるとたくさん出てきます。日本と同じような課題は他の国でもあるということがよくわかります。合衆国では、年間殺傷されたクマは2600頭いるそうです。それと較べると日本は大したことないようです。クマに対処するハンドブックもあるようです。たとえば、BearWiseというWebサイトには6つのアドバイスが掲載されています。

1. NEVER FEED OR APPROACH BEARS

Intentionally feeding bears or allowing them to find anything that smells or tastes like food teaches bears to approach homes and people looking for more. Bears will defend themselves if a person gets too close, so don’t risk your safety and theirs!

ついつい、餌を与えれば、襲わないのではないかと思いますが、ダメみたいです。生きるためには食べ物の匂いや味がすれば寄ってきます。野生の動物は日々危険とともに生きているから敵が近づけば、身を守るというのは本能です。

2. SECURE FOOD, GARBAGE AND RECYCLING

It’s all food to a bear!

A bear’s strongest sense is smell. They can pick up a scent from over a mile away! That is more than seven times better than a bloodhound. Food and food odors attract bears, so don’t reward them with easily available food, liquids or garbage.

クマは鼻がいいので、食べ物はすぎに感知するそうです。1とほぼ同じです。

3. REMOVE BIRD FEEDERS WHEN BEARS ARE ACTIVE

Birdseed and grains have lots of calories, so they’re very attractive to bears. Removing feeders is the best way to avoid creating conflicts with bears.

野鳥のために餌場を設置することも、クマを寄せつける原因となってしまうそうです。腹の空いたクマは確かになんでも食べるので気をつけないといけません。

4. NEVER LEAVE PET FOOD OUTDOORS

Feed pets indoors when possible. If you must feed pets outside, feed in single portions and remove food and bowls after feeding. Store pet food where bears can’t see or smell it.

Never leave food out for stray dogs and cats.

都会では犬を外で飼うことはあまりないので問題はないでしょうが、郊外に行けば外で犬を飼うのは当たり前です。野良犬や猫も郊外です。日本ではそれほどこのような状況はないかもしれませんが、基本的に餌となるようなものを外に放置しないことです。

5. CLEAN AND STORE GRILLS

Clean grills after each use and make sure that all grease, fat and food particles are removed. Store clean grills and smokers in a secure area that keeps bears out.

キャンプなどをした際に気をつけることです。

6. ALERT NEIGHBORS TO BEAR ACTIVITY

See bears in the area or evidence of bear activity? Tell your neighbors and share information on how to avoid conflicts with bears. Bears have adapted to living near people; now it’s up to us to adapt to living near bears.

クマは比較的人間の近くにいるということです。

ということで、野生の動物と仲良く暮らすという願いは間違いだということがよくわかりました。家畜やペットと野生の動物はまったく別ということです。それが共生ということなのです。


クマやシカ 猛暑もともに 月見草