2025年5月31日土曜日

Reflection / ふりかえり 2025年5月31日(土)

本日は5月も終わりです。また、旅も終わりに久しぶりにヨーロッパ(ロンドンほか)で遊んできました。そこで8月から続けているこの日記のふりかえりをします。

誰も読まなくても気にしない、原則書いたことを加筆訂正しない(明かな誤りで気づいたことは訂正してます)、自分自身の思考のありのままに記述するなどを、目的として始めました。 autoethnographyも当初はあまり気にしませんでしたが、はじめてみたら、その質的研究手法に近いと感じて、途中からタイトルもそうしました。Autoethnographyの定義ははっきりしません。たくさんあります。一部を載せます。

Autoethnography is “research, writing, and method that connect the autobiographical and personal to the cultural and social” (Ellis, 2004, p. xix). Chang (2008) emphasised that autoethnography is about understanding the relationship between the self and others. The role of ‘culture’ is fundamental, as is clear from Ellis’ quotation. Moreover, while accepting the notion of ‘individual culture’, Chang stated her “nonnegotiable premise: the concept of culture is inherently group-oriented, because culture results from human interactions with each other” (pp. 16–17).

https://www.sciencedirect.com/topics/social-sciences/autoethnography

Autoethnography is an approach to research and writing that seeks to describe and systematically analyze personal experience in order to understand cultural experience. 

- https://www.qualitative-research.net/index.php/fqs/article/view/1589

Autoethnography is a research method and a genre of writing that connects the researcher’s personal experiences with broader cultural, social, and political contexts. It blends the “auto” (self), “ethno” (culture), and “graphy” (writing), reflecting on how personal narrative can offer insights into larger social phenomena. Unlike traditional ethnography, where the focus is on studying others, autoethnography centers on the researcher’s subjective experiences to contribute to cultural analysis.

https://sociology.plus/glossary/autoethnography/#google_vignette

このような感じですが、どこに行き着くかは定かではありません。要するに「個人の感想でしょう」と言われればそれまでかもしれません。

このビデオの経験には同意します。阿留辺畿夜宇和という明恵上人の考えを柱に始めたこの日記は、私自身のふりかえりには大いに役立ったと考えています。このブログで思いつく話題について考えることで、私自身の思考の限界、思い込み、誤り、学習、知識、信念、情緒などなど、自分だけの記録として残すだけではなく、このように誰も読まなくても公開することで、他者を意識しながら思考します。また、書いたことを推敲することをしないことにより、人は誤りを限りなくする存在であることもよくわかります。

あと2ヶ月ちょっとですが、とりあえず目的の1年を終えてからあらためて考えたいと思います。


日本にいるや 5月31日




2025年5月30日金曜日

The world changing / 世界は変わっている 2025年5月30日(金)

あまり日本やあちらこちらでは報道されませんが、コロナがアジアに戻ってきているというニュースです。何かの原因があるのでしょうが、世界は動いています。

一時期調査研究や仕事で海外にたびたび出ていたことがあります。職場ではどうも問題視されていたようです。決して仕事はサボっていたわけではありませんが、そのために後ろ指を指されていたようです。が、私は鈍感で当時はそのことがよくわかりませんでした。授業に影響がないように工夫して、大学内の必要な仕事には影響がないようにやっていたつもりでした。このことは書いたかもしれません。世の中はむずかしいです。

さて退職して年金生活となった今は、家庭に迷惑をかけない限り自由です。仕事は遊び程度でときどき外遊します。そこで気づいたことを述べたいと思います。述べるというほどのこともありませんが、この10年の間にコロナやウクライナの紛争などの影響により、世界がガラッと変わったような気がしてなりません。

一つは、日本人をあまり見なくなりました。中国や韓国などの他のアジアの国に較べて少なくなりました。しかし、多くの空港や観光の場所において、たくさんの人がいて混雑しています。日本もインバウンドの観光客(inbound trourists)が増えていますが、日本に限らず人の移動は多いようです。どこの国が多いとは言えないくらいです。それもスーツを着て移動している人は少ないのが気になります。飛行機はエコノミーもビジネスもほぼ満席です。ラウンジも人で溢れています。これはたまたま私が訪れる場所がそうだからもしれませんが、空港はどこも混雑しています。

私は今回ロンドンにしばらくいました。ロンドンはそれほど大きな都市ではなくコンパクトです劇場はほぼ満席に近い状態で、平日にもかかわらず、大英博物館、ナショナルギャラリーなど無料の場所は大変は状況です。ロンドンはご存知のとおり物価も高く日本から訪れる人にとっては一時期の倍ぐらいの値段になっています。コーヒーがほぼ1000円です。ちょっと食事するだけでも5000円はかかるでしょう。

興味深いことは、日本食のレストランなどすごい勢いて増えています。日本人が経営しているかどうかは知りませんが、日本関連の店が高級店ではなく増えています。寿司や天ぷらだけではありません。焼肉屋や和菓子店まで様々です。簡単に言えば日本食や文化だけではなく多言語多文化が大都市では日常的になっています。その中で「日本」というものはそれほど明確に見えません。大英博物館で「Hiroshige」の特別展示をしていましたが、私は「日本」という意識はしませんでした。よい意味で「日本」が平準化してきているのかと思います。

逆に、「日本」という国のニュースはほぼありません。ヨーロッパから見ると、日本はアメリカばかりを見ている存在感のない国になっているとしか言いようがありません。政治的にも、経済的にも、科学技術においても、文化的にも、インパクトのない国になっているようです。私は批判としてそう言っているのではありません。日本はある意味で成熟してきていると思います。街で聞いても「日本」に関心を持っている人はたくさんいます。今こそ、もっと若い人が外に出られる環境を、日本は率先して作る必要があります。優秀な人が経済的な理由で外に出られないのは、教育国と言われてきた日本にとって屈辱的な状態でしょう。


夏の月 東に西に 世界見る





2025年5月29日木曜日

Currency / 通貨 2025年5月29日(木)

日本の通貨(currency)はあっという間に弱くなりました。仕組みは分かりませんが、経済の力なのでしょう。受け入れるしかありません。Britannicaの説明によると、

Current international exchange rates are determined by a managed floating exchange rate. A managed floating exchange rate means that each currency’s value is affected by the economic actions of its government or central bank.

BBC Bitesize は、仕組みをわかりやすく説明しています。

The British Pound, US Dollar, European Euro, Japanese Yen; they are all examples of currency, the official money of a country.

米国ドル、ユーロ、ポンド、日本円が主流な通貨であるとしていますが、世界には140くらいの通貨があるそうです。日本円はいまは弱く、私などが旅をするには厳しい状況が続いています。経済というものはわかっている人にはわかるのかもしれませんが、私のような素人にはまったくわかりません。経済がいいのか悪いのかもよくわかりませんが、旅をし続けていると肌感覚でわかります。

日本も同様ですが、ここ10年の間に、カードやデジタル通貨が中心となりました。確かに便利です。カードでタッチするだけで処理ができます。紙幣やコインは不要です。まったく使わない状況がふつうになっています。あと数年でキャッシュは無くなるでしょう。場合によっては、カード決済だけになっています。その場合は、国が決めている通貨の意味が障壁になる可能性が高いです。たとえば、国際送金はなぜか日本は手数料が高額です。日本だけではないのかもしれませんが手数料が発生しないので、おそらくシステムが変わるでしょう。輸出入や貿易のビジネスを変わりつつあります。物流とともに世界は大きく変わりつつあります。

紛争もそうです。被害に遭うのは一般の市民です。兵器はますます進歩し、戦い自体が昔とはまったく違います。被害が見えない(見えないようにしている?)ので、匿名の殺人が横行し、罪の意識がないし、戦争犯罪が不明確になっています。ますますこのような悲惨な状況が続いていくと思います。核兵器の使用も現実味を帯びています。戦争は武力だけではなく科学と経済と政治のバランスで動くでしょう。通貨の実体がなくなり、デジタルになることにより、仮想でしかなくなり、チャラにすることも簡単です。ビジネスも政治も社会もシステムはデジタルのやりとりになり、生身の人間は取り残されるでしょう。生身でない人間がおそらく蔓延るような世界になるような気がします。

しかし、生身の人間や動物や植物は変わりません。通貨の消滅により、生活はしやすくなりますが、逆に、労働による対価というバランスは変わっていきます。柄谷行人という人の本をときどき読みます。交換様式というおもしろい視点を提示しています。その様式を4つに分類しています。経済を生産と考えるのではなく、交換と考えるというようなことらしです。

A 互酬性(贈与と返礼)

B 服従と保護(略取と再配分)

C 商品交換(貨幣と商品)

D Aの高次元での回復

この中で、さいごのDの方向に世の中が動いて行くという予想をしています。しかし、このDがよくわかりません。現状は、A, B, Cのように世の中は動いているのは何となくわかりますが、Dはよくわかりません。私の理解では、それは通貨などが消滅し、多くのことがデジタルという見えない世界に移行して行くことにより生まれるAの交換様式になるのかなと思います。

通貨により経済は発展し今日のようなシステムを築きましたが、その通貨の消滅により、悪い方向に向かうのではなく、人類のために良い方向に誰かが導いてくれうことを期待しています。私は、現在の現金を使わない社会はよいと単純に考えています。


行く春に ロンドンに居り 想う朝




2025年5月28日水曜日

Fashion / ファッション 2025年5月28日(水)

 What Is Fashion? Define Fashion | Meaning Of Fashion | Fashion In Simple Words 

ファッション(fashion)は、すでにカタカナ語でしか言えないし、英語そのままで使われる語です。「流行」などという人もいまでは少ないでしょう。インターネットなどの普及により、言語の使用の多様化です。30年ほど前に、英語の日本語における使用を調査したことがあります。結論は、日本語の柔軟性が英語自体を日常の中で取り入れ、学樹分野では日本語訳をしない傾向があるとしました。その研究はおもしろかったのですが、私の本来の研究とは違っていたので、関心はいまでも持っていますが、深くは研究していません。

これは、一つの英語教育の成果と言っても過言ではありません。日本語は漢語を取り入れたように英語を取り入れました。しかし、韓国語や他のアジア言語は取り入れていません。文字の縛りがあり、カタカナ語としては取り入れましたが、文字は受け入れていません。英語は他のヨーロッパ言語と同様アルファベットを使っているので、東欧などのキリル文字は別としてかなり言語をそのまま受け入れる傾向が以前からありました。

Fashionは日本の文化にもある美意識が柔軟に取り入れる下地があり、明治以来どんどんと吸収し、また、放出し、fashionが融合してきました。しかし、日本独特のfashionは独自に発展し、さまざまな分野で浸透しつつあります。しかし、壁があるのも事実です。この10年で日本のごく日常のfashionが世界に進出しつつあります。しかし、それは日本そのものではなく、変容したかたちで発展しています。

その中で異彩を放つのがイスラムのfashionです。欧米とは異なるfashionを徹底して曲げません。宗教上のこともあるのでしょうが、それを追求しています。日本でもどこでも同じです。ハラル(halal)(許されている)というイスラム教の教えで生活全般においての指標となるものが基準となります。しかし、その範囲でもfashionは多様に変化しています。その点日本はかなり柔軟です。

Fashionに関しては伝統的綺麗的なものは強い影響力があり、その意味でイレズミは際たる例でしょう。私は常識的なfashionで、基本はユニクロです。退職してから必要と思われる状況以外はしません。スーツも新調しません。いつもジャージで過ごします。しかし、人によってはこだわりのfashionがあり、それを追求する人はたくさんいます。私の知り合いでもいます。男性女性は関係ないような気がします。気にしている人はそれがわかるのでしょう。つまり、私のような人間はすぐに値踏みされてしまいます。

しかし、私自身は人がどう思おうとfashionにはこだわりがあります。それは楽であるということ、流行りには左右されない、年齢にも左右されない、自分が好きな物事にこだわる、値段は関係ない、他人の評価は気にしないなどなど。汗かきなので、あまりたくさん着込むと汗でびっしょになってしまうので、フォーマルな格好はすべてダメです。思考も人とは少し違うことを好みます。物の所有には最近は終活もありこだわりません。自分の好きなことにはお金にあまりこだわりません。自分自身のlifestyle = fashionは大切にしています。

      Mamma Mia Curtain Call & Finale, Novello Theatre

Mamma Mia!というミュージカルを見ました。人生を単純に謳歌しようとする女性の生き方には共感する人も多いでしょう。

Life is short. The world is wide. I want to make some memories

私も同感です。私のfashionもそれが基本です。好きなことを好きにすることがfashionです。


夏草や 季節とともに 生い茂る



2025年5月27日火曜日

The Great Gatsby 2025年5月27日(火)

The Great Gatsbyというミュージカルがロンドンで上演されています、アメリカの作家F. Scott Fitzgeraldの小説をもとに作成されたもので、ロンドンでは新作だそうです。 The Great Gatsbyは有名です。映画にもなっています。昔からアメリカ文学には多少関心があったので知ってはいましたが、読んだことはありませんでした。タイトルからなんとなく好きにならずに読まなかった作品です。Hemmingwayと同世代でLost Generationなどと呼ばれる世代です。The Great Gatsbyは、当時のJazz Ageと呼ばれるNew York Cityあたりの金持ちの生活を描いたと勘違いしていました。

ミュージカルのThe Great Gatsbyは、音がちょっと大きすぎた感じがしますが、昔風の仕上げで満足して見ました。ロンドンのミュージカルは一時期からすると下火で、商業主義になり、芝居仕立てのコンサートのようなものが多くなり、中身についてはあまり評価できるものが少ないような印象で、どちらかと言うとオペラ鑑賞に気持ちが向いていました。今回のThe Great Gatsbyは、オリジナルのストーリーが、さらっと描かれていて文学的には追求しない点が良かったような気がします。それよりも、背景となるJazz Ageの服装、音楽、踊り、ショーなどの演出が優れていて、見せ場もあり、エンターテインメントとして楽しませてもらいました。

私は舞台演劇は好きです。が、日本ではほとんど見ません。理由はよくわかりませんが、入場料が高いということと、英語と日本語の違いかもしれません。文化ももちろんあります。歌舞伎などは好きで、いわゆる日本の芝居であれば見ることもありますが、ミュージカルや欧米の演劇は、やはり日本では無理があるような気がします。だいぶ以前に、Tennessie Williamsのガラスの動物園 (The Glass Menagerie)という芝居を見ました。おそらく日本で見た芝居はそれがさいごです。あまりよくなかったというのが正直な印象です。

日本の演劇やミュージカルやオペラも、もちろんますます進化していますが、やはり背景となる文化がないということが、私が個人的にどうしてもスッキリしないというだけです。日本の演劇を批判しているわけではありません。どうせ見るなら本場がいいというだけのことです。ロンドンでも良い席は高いですが、安い席もあるので、私は安い席で十分です。場合によっては安い席でも見にくいというだけでかなり安くなっていることがあります。

My neighbour Totoroという日本語の芝居が演じられています。けっこう好評のようですが、安い席でも15000円くらいします。The Great Gatsbyは7500円くらいです。人気がある証拠でしょう。


梅雨かなと ロンドン歩き 傘をさす

2025年5月26日月曜日

Tattoo / 刺青 2025年5月26日(月)

刺青あるいは入れ墨は、現在の日本ではあまり好まれない印象が強いですが、歴史的にも世界的にも必ずしも悪いものではないようです。英語ではtattooですが、それほど悪いイメージもないようです。若い人がタトゥーとして気軽にファッションで取り入れるのもよくわかります。私の世代のイメージは良いも悪いも半々です。イレズミ=ヤクザというイメージもありますが、職人さんなどはふつうにしている人もいたように記憶しています。現在は、社会的にタブーとされていますが、時代は着実に変わっていると思います。社会的にある程度偏向した見方をしないようにした方がいいと考えます。

タトゥーはファッションで、服装や化粧など、自己主張をするための一つです。ピアスや髪型などと同じで、社会に対する姿勢を表すもので、社会はそれは認める方向でよいでしょう。問題は、それが反社会的で多くの人に受け入れられないような行動は問題で、それは受け入れることはできないことになります。それとタトゥーは関係がないのです。

しかし、タトゥーはそれぞれの文化と結びつき多様です。その多様性を理解しておくことは必要です。その意味で日本の入れ墨や刺青は、歴史と文化においてある意味を持っているので、タトゥーといっしょには考えないことが大切です。サウナでは刺青はお断りということも一律にはできない可能性が高く、問題の所在を明らかにして対応する必要が出てくるでしょう。外国から日本に来る人を外見で判断することは差別につながります。


      Best couple tattoo designs | top tattoo designs for boys and girls

欧米社会と一緒くたにできませんが、私が訪ねる国や人は、タトゥーはごくふつうです。人に見せるためでも、威嚇するた目でもなく、宗教、ファッション、お守りなどのように多様な意図をもってしています。医療的な関係でそうしている人もいます。タトゥー自体は何も問題ないのです。タトゥーの背景にあることが問題で、その点を互いにきちんと理解し合うことが解決につながると思います。

日本の刺青(入れ墨)は特異な意味を持っています。一つには、堅気の世界ではないことの証明であり、極道の世界の人間であることを示すためです。それは日本だけではないですが、日本はそのイメージが強いのです。二つには、芸術性です。お祭りなどや非日常の世界で重宝されていることです。模様もそれを表しています。彫り師という芸術家はそれを追求します。それもタトゥーの一部の文化です。イレズミタトゥーをいっしょにすることは避けるべきでしょう。

私個人は、歳をとり、肌も艶がなくタトゥーを入れる必要もないですが、シミがいっぱいできるので、それをタトゥーで消すこともありかなと思います。できるのかどうかは知りませんが。現在はほとんど抵抗がないです。できる限り外見では判断しないようにしています。それでも、体質的に嫌いだなという人ももちろんいます。人は外見でどうしても判断してしまいますが、やはり人柄です。人柄が私には合わない場合は、特に接触しません。残り少ない人生をそんなことでは無駄にしたくないのです。

昔、ヤクザのお兄さんと仲良くなったことがあります。小学生の頃ですが、とても子供には親切で友だちとその人のところに何回か行って話をしたりご馳走になったりした記憶が微かにあります。指がなかったこと、イレズミがあったこと、親に注意されたことがありましたが、そのうちにその人はいなくなりました。温泉場だったので、そのような人も少なからずいたし、喧嘩しているのも見たことをあります。でも、だからと言って、その世界に入ることはなかったです。そのような反社会的な場所に入るのもイレズミも違う要因です。


タトゥーあり 清和の中で 微笑まし





2025年5月25日日曜日

Cram or prep school / 予備校や塾 2025年5月25日(日)

このビデオは英国のpreparatory schoolの紹介です。日本の予備校はpreparatory schoolと英語に訳されることがありますが、かなり違います。このことについて、本日はかなり雑文ですが、また教育について書きます。これまで生きてかかわってきた教育と分野からはどうも離れられないし、何度も同じようなことを書いています。日本は、ビジネスとしての学習文化を変えてほしいとただ願うばかりです。言いたいことは、子どもたちのために学ぶシステムを目的を明確にして、人材もそのために活用してほしいということです。

いつの頃からか、学校教育に加えてその周辺のいわゆる準備学校(昔は大学予備門などと言っていたかもしれません)が変容して、塾や予備校としてビジネスとなりました。さらには、専門学校などの職業学校が盛んになり、高校を卒業しても一人前とみなされず、さらに学費を払って学ぶ時代となりました。いまや、小学校入学前から受験に対応する学習施設が増えていき、たくさんの学習教材が産出されています。かく言う私も多少関わりがあり責任を感じます。

考えてみれば100年ほど日本ではすっかり定着しています。いや、もっと前からからもしれません。武士を中心に中国の科挙制度に見習いそのような試験制度が少なからず定着してきました。しかし、現状はそれとは異なり、親が子どもによい学歴で育ってほしいと考え、相当のお金をかけて多様な教育の機会を与える社会になりました。学習だけではなく芸事やスポーツなどもそうです。親心としては当然です。子どもにとってもそれはありがたいことです。しかし、お金がなければそれは続けられません。

本来、そのようなことは、憲法の教育の機会均等の精神からすれば、公共機関が提供することです。つまり、学校です。日本は基本的に公共教育の整備はよくできている国です。大学に関しても、私の時代は貧しくても大学教育を受けられた時代でした。現在は違います。予備校も私は親に頼んで行かせてもらいました。今から考えればありがたいことです。私の中高の友人の多くは大学までは行ってません。高校から就職でした。大学時代はアルバイトをしながらなんとか卒業し教職に就きました。私は塾には行ってません。親がそのような余裕がなかったし、私も別に行きたくもなかったからです。私は大学を出るまで公立の教育機関で学びました。唯一の私学が予備校でした。

しかし、予備校の授業はあまり参考にならず、途中から行かなくなりました。周りの友人の悪影響もあったのですが、自分で勉強すればいいということでした。狭い机でじっと講義を聞くのが馬鹿馬鹿しいと感じたのもありました。現在の予備校や塾は当時とは違います。ビジネスです。それもかなり受験に特化した質のよいビジネスになっています。私はそのようなお金と人材は、受験産業ではなく、学校の一部に取り込んだ方がいいと思います。かなり優秀な人が受験ビジネスにかかわっています。それは社会としてももったいないと感じます。

東進という予備校のコマーシャルです。たいへんですね。先日、河合塾という予備校でストがありました。そういう時代です。大学も専門学校も同様にストやりたいのではないでしょうか?しかし、「学習する人に影響を与えてはいけない」などの批判もあります。私はこれはまちがいだと思います。ストライキは労働者が発言する唯一の権利です。それは保証されなければならないと思うし、生徒もそのことは理解すべきでしょう。日本はいつの間にか市民としての当然の義務と権利を履き違えている気がします。

先進国の多くが、労働組合(Union)は機能しています。日本はちょっとおかしい。

長くなりましたが、結論は、予備校や塾のビジネスを学校教育の本来の目的に合わせて機能させることが大切だということです。学校を中心に、その機能を集約させて、学習者一人ひとりの能力を最大限に伸ばすことに集約してほしいと願います。受験勉強は思考力育成に役立つと言う人がいますが、大半は無駄です。不登校が多いのはそのせいもありますが、不登校になっても、日本の受験の学習から抜けきれない環境は、不登校の人をさらに貶めることになります。もっとやりたいことができる環境を、学校を中心に整える力に、受験産業を転換することが肝要だと思います。


5月末 日曜の昼 カプチーノ

 

2025年5月24日土曜日

Benches and trash cans in London / ロンドンのベンチやゴミ箱 2025年5月24日(土)

現在のロンドンです。だいぶきれいになりました。ロンドン(London)はいままで最もよく訪問した都市です。住んだことはありませんが、ふらっと寄るには魅力あふれる場所です。1991年に初めて訪れてから30年以上が経ちます。最初はほぼ観光でした。その後は研究調査でよく訪問しました。東京のように人口が密集した都市ではありませんが、よく知られているように公園が多くあり、古い伝統と新しいアイディアがうまく機能しているように思います。しかし、そのときの経済時事情や政治により、貧富の差が極端な例がいまだに混在しています。ロンドンは、それでも私にとっては文化の楽しめる豊かな場所です。

以前にも書いたと思いますが、West Endあたりでミュージカルや芝居を見るのが一番の楽しみです。その合間にパブ(public house)で一杯ちびちびとビール(ale)飲むのが憩いのひとときです。昔は、「a pint of bitter, please」と言えば通じたのですが、最近は、bitterとは言わず、aleと言わないといけない時代になりました。しかし、パブはあまり変わりません。もちろん値段はかなり高くなりました。が、日本の居酒屋とは違い、酔っ払いばかりくり出す場所ではなく、子ども連れも来て、のんびりする場所としても機能しています。最近はレストランは高くて入れません。

さて、英国はストライキ(strike)が盛んです。英国だけではなく、労働者はストライキをする権利があり、それを行使することはふつうのことです。日本でも同様の時代がありましたが、現在は違います。報道機関も冷たく扱います。最近の日本は平和だからと思いますが、民主主義がちょっとおかしくなっている気がします。ロンドンでは何度かストライキを経験しました。仕方がないということです。権利ですから。ゴミ問題も重要な問題で、最近ではバーミンガムがひどい状態です。

これに較べると、詳しくは知りませんが、ロンドンは少し落ち着いています。公園や通りにはベンチやゴミ箱はあります。もちろん、管理されていないような場所はそうではありません。


現在のロンドンの公園や道にあるベンチやゴミ箱です。人が多く集まる場所は別ですが、比較的きれいに管理されています。もちろんゴミは散らかっています。夜になると騒ぐ人たちがいるのでしょう。夜は公園は閉鎖されるところが多いので、ホームレスが入る余地はありません。ホームレスの人は人通りの比較的ある通りに寝転がっています。ベンチに寝転がっていることはできないようです。

ベンチは人の生活には必要です。特に高齢者にはありがたいです。また、ゴミ箱は、管理することを前提として、やはり適切に設置しておくことが住みよい社会には必要でしょう。たとえそれが一部の人の反発にあっても大多数のwellbeingを優先することが大切です。その意味から、ロンドンは歩くにはとてもいい街です。


ロンドンの 公園ベンチ グースおり




 

2025年5月23日金曜日

Benches and trash cans / ベンチやゴミ箱 2025年5月22日(木)&23日(金)

日本は多くの場所でベンチ(bench)やゴミ箱(garbage/trash cans)が消えました。何年前でしょうか?テロリスト対策と称してゴミ箱が消えて、ベンチもなぜかありません。ベンチが消えたのはホームレスのせいでしょうか?誰もこのことに文句を言わないのはどうしてなのか不思議です。もちろん国によってさまざまですが、私が訪れる他の国ではベンチやゴミ箱をあるとありがたいと思うことがたびたびあります。

確かにゴミ箱を用意してもゴミは散らかります。あってもなくてもよいのかもしれませんが、私はあった方がまだマシだと思います。行政の手間がかかるし、適当にゴミを捨てる人もいますが、ゴミ箱がなければどのようなところにどう捨てるかわからないので、さらに危険です。あればマナーを守る人にとってはありがたいのです。

多くの国はゴミ問題で苦慮しています。日本の人は比較的マナーがよいように教育されていて従順なので、国がこうすると言えば多くは従い、苦情もありません。理由がテロリストとか、ホームレスとか言われると、「はい、はい」となります。ベンチが少ないのはなぜなのでしょう。ホームレスがそこを寝床にするからでしょうか?一時期より少なくなりましたが、多摩川の河原でもホームレスの人はまだ見かけます。ベンチを多くしたらそれほど問題なのでしょうか?何か違う理由があるのかもしれません。

多くの国では高齢化が進行しています。高齢化に限らず、ちょっとしたことで座れてくつろげる場所はあってもよいと思います。多くの都市では公園などにベンチをかなり置いてあります。公園だけではなく人が集まるような場所に座れる場所は多く設定されています。それとともにゴミ箱を設置しています。ゴミ箱に家庭用のゴミを捨てる人がいるから設置しないというのは本末転倒の理由です。街は住みよくあるべきで、そのために税金を払っています。税金は国のために使うのではなく、本来は市民のために使うべきでしょう。そうでなければ払いたくありません。国のために私たちは生きているわけではないからです。

最近、トイレがきれいになっています。ありがたいことです。これは日本だけではなく、いくつかの国が該当します。 電車、駅、公園、商店街、デパート、ショッピングモール、観光地など、あっという間にトイレットペーパーが完備し、以前よりはずっときれいに利用されるようになっています。地域によってはまだまだですが、本当に変わりました。誰が音頭を取ったのかわかりませんが、いいことです。

個人的には、公共の場のベンチとゴミ箱をもっと整備していく必要があると思っています。理由は、私が歳をとり、座りたいと思ったときに座る場所がないことです。私の地域に二子玉川というところがあります。玉川高島屋にはたくさん用意されていて年寄りには本当にありがたいところです。しかし、そのほかには整備されていません。特に最近洪水(2019年)があったせいでしょう。二子玉川公園や兵庫島の周辺がきれいに防災上の観点からだと思いますが、木が切り倒されコンクリートで固められました。しかし、ベンチがありません。ゴミ箱もありません。

多摩川のあちこちにゴミが投棄されています。海や川を汚すななんてきれいごと言っても絶対になくなりません。プラスチックゴミが山ほど川に流れ込んでいます。多摩川はきれいになったなどと言っている人の気が知れません。また、座る場所がないのです。昔設置された座る場所がちょっとありますが、ほとんどありません。みなさん地べたに座っています。高齢者にはそれはきついです。バリアフリーにしても、ベンチもゴミ箱もないのはおかしいです。

日本には、最近そのような都市計画がまったくありません。私は英国によく行きます。英国はゴミ箱があってもゴミだらけ、トイレは汚くて使えないと、バカにする人がいますが、公共の場の市民に対する整備は、日本よりはよほどしっかりと考えています。ベンチはあちこちにあります。ゴミ箱もあります。

FurnitubesというWebサイトは、公共施設の整備について次のように述べています。

Street furniture to support social interaction

Having enough street furniture also promotes equality of opportunity, as it provides rest places for the elderly and people with mobility issues. Parents of small children can use it in public spaces and amenities, to keep a watchful eye on their youngsters, making accessibility and use more assured.

Carefully placed clusters of benches and seating in public places offer opportunities to be sociable and enjoy the outdoors. This is the value that has become even more precious, as people respond to modern challenges by returning to simpler, more traditional activities.

Properly commissioned and placed street furniture can draw people to the location and give them reasons to stay. Large groups of friends will use it, or it can even stimulate greater social interaction between strangers.

問題は多々あるにしても、このような公共の考えが大切だと思います。YouTubeを見たら次のようなビデオがありました。騒音の苦情があるから、ゆったりとくつろぐベンチは設置しないならば、しないほうがよいです。しかし、いろいろな苦情を聞いて最終的に誰にも役立たないものが設置されるのは税金の無駄遣いだと考えるのは、私だけでしょうか?

事情により今回も2日分です。


夏兆す ベンチに座り 仰ぐ空





2025年5月21日水曜日

Genius / 天才 2025年5月20日(火)& 21日(水)

天才(genius)という人はたくさんいます。しかし、私が直接接して感じた人はいません。私はそれだけ俗世間に暮らす平凡な人なのだろうと思います。私自身はそれで満足しています。ふつうに暮らすこと、何かすごい才能に接近したとしても感じない鈍臭い生き方が私には合っていると感じています。Himariというバイオリニストのことをたまたま知りました。すごいなと思いますが、だからどうなのだろうとしか思いません。

天才と言われる人は、あげればキリがないくらいいます。日の目を見る人もいれば、世間から遠ざかる人もいます。幸せに成人もいますが、精神を病んでしまう人もいます。人とは違う素質を確かに持って生まれてきたのでしょう。芸術、哲学、文学、科学、スポーツなどなど数多あります。凡才の私には想像もつきません。天才と言われなくても、小さい頃から人より勉強ができる人、運動が得意な人など、たくさん見てきました。しかし、どれも結局大したことはなく、上には上がいました。

何が上なのか、どのような基準でそう判断されるのか、私には本当によくわかりません。好きなことはたくさんありましたが、何をやっても大したことはないのは、若い頃でほぼわかりました。努力するしかない、あるいは、続けるしかない、というのが、私の結論でした。人より秀でていなくても、好きなことをしていこうと決めてやってきました。あとは仕事上選んだ道をただ真面目にやっていこうと決めて今日まで来ています。

音楽も絵も工作もスポーツも好きです。ただ好きです。しかし、うまくいきません。達成できたということは皆無です。それでもできることは続けてきました。しかし、けっこうすぐに諦めてしまい、この程度でいいやと思ってしまうのです。そして、次に何か目標を立てます。それも才能かもしれません。突き詰めない才能なのかもしれません。その点で秀才(smart, brilliant)という人でもないことは明らかです。

天才は、当たりまえのように努力します。努力あっての天才です。自分では天才とは思っていないかもしれません。一生天才かと思うとそうではありません。天才も壁にぶつかります。また、運にも見放されます。たぶん、脳の構造がどうなっているかということでは解決されません。Himariさんの動画を見ていると年齢は関係ないと感じます。確かに才能がありますが、やはり努力してることがよくわかります。

子供とか、性別とか、人種とかで、人間はどうしても判断する傾向があります。ましてや、国とか学校とか肩書とかなど、いまだに区別してみる傾向があります。どこの高校や大学の出身かなど、Himariさんの場合は、「13歳で音大生」という肩書きがついてました。どうだっていいと思います。YouTubeのドキュメンタリーでも、「ベルリンフィルのバイオリンのソリスト」ということを盛んに言っていました。広報はしなければ行けないと思いますが、どうでもいいことです。

世の中は、天才など注目を集める人をつくろうとする力と同様につぶす力があります。現在はそのようなメディアが多様になり、うまく利用してビジネスをする人がいます。そこには巨大なマーケットが存在します。スキャンダルは致命的ですが、それもある程度操作されているように思います。日本という小さな世界と大きな国際的な世界とは基準も違うような気がします。

「博士ちゃん」というテレビ番組があります。博士自体が大した肩書きでもなくなっているのに、こどもをもてはやして「天才」という肩書きをつけたりします。「博士ちゃん」もそうかもしれませんが、番組自体は応援しようとする姿勢があるので、よい番組だと思います。が、ビジネスに結びつけたり、大人になるにつれて、もし素行が悪かったりすると、もう扱わなくなります。天才は「良い子や良い人」である必要がいつも付きまといます。芸能やスポーツの世界ではそれが顕著で、ある面でかわいそうな状況に陥ったりする人も出てきます。

Himariさんのバイオリンの演奏を聴いていると、私には演奏している姿と音楽の質がかけ離れているので魅了されます。おそらく成長するにつれて、課題も出てくると思いますが、すばらしい才能を追求してほしいと思います。しかし、バイオリンに限らず何にでもチャレンジすることが大事で、周囲に流されないでやりたいことを続けてほしいと願うばかりです。

さて、天才とは何でしょう?天才は「天賦の才能を持っている人」のことを言うのでしょうが、使いたくない言葉の一つと考えています。Giniusもほぼ同様でよく耳にしますが使わないようにしています。私はそのようなことで人を評価するのではなく、「バイオリンうまいね」「いい演奏ですね」で率直に言えばいいと思います。それだけです。私にも孫がいます。歳をとて見ていると、人間で生きているだけですごいなと思うこの頃です。誰かに注目されたり、チヤホヤされる必要はなく、ただただ幸せに生きてほしいと願うだけです。好きなことがあればそれをするだけで、あるいは、それを続けることができることが大切です。Himariさんもそうであってほしいです。才能などがなくても、ないことも一つの才能だと思います。ただそれだけです。


滝の如く 好きこそだけが 好きなこと



2025年5月19日月曜日

Jet lag / 時差ぼけ 2025年5月19日(月)

時差ぼけ(jet lag)がいつの頃からか気にならなくなりました。というよりは、ずっとボケているような生活が続いています。要するに、睡眠がうまく取れなくなってきていることかなと思います。株式会社S’UIMIN に睡眠学者・柳沢正史が教える「よりよい睡眠のための12箇条」というのがあります。

  • 1. 睡眠は減点法と心得る
  • 2. リビング・ダイニングの明かりを暗めにする
  • 3. 就寝前のスマホは「使い方」次第
  • 4. 寝室は、暗く、静かで、朝まで適温
  • 5. 眠るためのお酒はNG
  • 6. 自分にあった入眠習慣を見つけよう
  • 7. 眠くなってから布団に入る
  • 8. 夢はストレス耐性を高めてくれる
  • 9. レム睡眠も重要な睡眠
  • 10. 睡眠の質を一度測ってみよう
  • 11.睡眠不足の対症療法「パワーナップ」
  • 12. 睡眠は人生100年時代のウェルネスの根幹と心得よ

柳沢さんによるものですが、個人的な経験では納得します。が、私にはあまり意味がないような気がします。もちろん研究の成果だと思いますが、ごく一般的なことで、特に私の睡眠状態に参考になるようなことはないようです。

私の日常の睡眠は早寝早起きです。自然にそうなりました。睡眠時間は短いと思います。だいたい4〜5時間で目が覚めます。これはトイレ上の問題で仕方がありません。その後眠ることもありますが、ほぼ起きます。日中は居眠りをすることが多くなりました。夢はよく見ていますが、ほぼ忘れます。仕事関連の夢が多いです。脈絡はまったくなくストーリーにはなりません。良い夢も悪い夢も見ません。眠れないということはありませんが、眠りはいつも浅いような印象です。疲れが取れて爽快に目が覚めるということは最近ありません。

ということで、時差ぼけ(jet lag)という症状が最近よくわからなくなりました。Better Healthというウェブでは、jet lagを次のように説明しています。

Jet lag is a combination of fatigue and other symptoms caused by travelling abruptly across different time zones. Another name for jet lag is ‘time zone change syndrome’.

これは、ほぼ私の日常のようなもので、どこに行っても同じです。症状は、fatigue, sleepiness, digestive upsets, impaired judgement and decision making, memory lapses, irritability, apathyとしていますが、これもいつもの日常とそう変わりません。

対策としては、limit or avoid alcohol and caffeinated drinks, drink plenty of water, try to nap whenever you feel sleepy, eat small meals frequently, choosing lighter foods like fruit and vegetables, wear loose, comfortable clothing, whenever possible, walk around the cabin, when you sleep on the plane, try to plan sleep as if the time is that of the destination, wear earplugs, wear an eye mask, maximise comfort with a pillow supporting your neck and headということがあげられていますが、当てはまるものもあれば、当てはまらないものもあります。一番良いのは、横になって寝られることでしょう。

現状では、地球全体を見ながら、仕事をしている人も多くなり、24時間という時間がきちんと決まっているという意識はあまりなくなっているかもしれません。時間自体は任意で決めているもので、人間の生活に合わせてということではありません。早い時間に仕事がある人、遅い時間に仕事がある人、8時から6時くらいを中心に仕事をしている人、それぞれ時間の意識は違います。退職すると、それには縛られないことが多いので、自由です。睡眠の状態が良くないことが時差ぼけにもつながり、おそらく意識しないのでしょう。

よりよい睡眠というのは気持ちの問題です。こうすればよいというある特定の方法を決定するのはおそらくむずかしいでしょう。外的な要因だけで決定できないし、内的な要因は睡眠ということに特定できません。自然科学的なアプローチと人間として情緒面のアプローチが複雑に絡み合い、そう簡単には行きません。よい睡眠は、たぶん悩みも何もなく幸せと感じているときの睡眠だと思います。布団や枕や光や音や匂いなども関係するかもしれませんが、おそらくそれらの要素は大したことではないのではないでしょうか。相対的なことだと思います。時差ぼけも、仕事や観光でスケジュールが決まっている場合は、それがストレスとなり悩むのかもしれませんが、何もなければストレスにもならないので、時差ぼけは関係ないのです。


薫風 時差ぼけもあり ここちよし





2025年5月18日日曜日

Travel after the COVID-19 / コロナ後の旅行 2025年5月18日(日)

このようなYouTubeビデオをどう思いますか?またコロナですか?たびたびくりかえされますが、世界はそうはなっていません。どうなっているのでしょうか?

2020年に始まった新型コロナウイルス感染症の蔓延(the COVID-19)以来、航空界の事情が変わったような気がします。個人的な経験ですが、ヨーロッパが遠くなりました。私は、2020年の3月にウイーンを訪れた後隔離が始まり、以後その影響が今日まで続いています。それでも2022年の2月に再びヨーロッパに行っています。退職の間際だったので、みなさんから白い目で見られながら出張をしました。人間というものがどういう生き物かこのときによくわかりました。

その頃ヨーロッパでは少しずつ移動に関しても合理的な考えで行動していたと思います。日本というのは不思議な国で明確に物事を割り切るのが下手で、不明確にしながら少しずつ周りを見ながら対応するということをCOVID-19に関してはしていたと思います。感染に対する対策はその頃から変わりません。一度決めたらやめるということができないメンタリティを持っています。伝統を大切にするということなのでしょうか?旅行に関してはその意識から抜け出せていません。

追い討ちをかけたのは円安です。世界経済が日本では大きく変わりました。円安で儲けている人たちがその恩恵を変えようとしません。政府がそうです。旅行も高額になり、海外に行くとひしひしと感じます。しかし、私が知っている世界では、人はものすごい勢いで移動しています。多くの空港は人で混み合っている状況のような気がします。景気がいいのか悪いのかよくわからないですが、なんでも高くなっているにもかかわらず、人は移動しています。

たとえば、飛行機はどの飛行機もほぼ満員です。昔はもっと空席があったりしていました。いまはほぼ一杯で、なおかつ、サービスも悪くなりました。いまでは水も買わなければいけない便も多くなりました。空港の待合の場所はたくさんの人で溢れています。ラウンジもPriority Passなどが利用できるラウンジはラウンジと言えるほどゆったりできない場所が多くなりました。

日本も海外旅行客が多くなりましたが、他の多くの観光地も同様な印象を持ちます。ホテルは高額になり、昔ふつうに泊まっていたホテルにはもう泊まれません。タクシーはUberなどのおかげで便利になりましたが、こちらもかなり高いです。私が好きな芝居も円安のせいもあるのですが、やはり高いです。食事も交通も何もかもがCOVID-19以前とは大きく変わりました。

しかし、人は移動しているのは事実だと思います。日本から海外に行く人は減っているそうですが、世界は違うような気がします。あちらこちらで紛争がありながらも、あるいは紛争当事国の人も旅をしています。世界は確かに変わったと思います。あるいは、日本が変わったのかもしれません。花粉症などの人も多いと思いますが、マスクも多くの人がしています。他の国の多くはそうではありません。世界はフードをかぶって顔を隠しますが、日本はマスクで顔を隠します。理由はいろいろあるのでしょう。

日本だけではなく、世界がCOVID-19を境に変わったと言ってよいでしょう。何が大きく変えたかと言えば、情報の信頼度の変化です。さらには、人との付き合い方の変化です。マスコミによる情報が偏向していることに多くの人が気づいたのです。さらにそのように情報をコントロールしている人が信頼を失い、誰を信用してよいのかわからないなかで、人はさらに惑わされるのです。

私はできる限り直接人と接したいと思っています。旅行もします。一定の人たちは、それぞれの意図があり動いています。しかし、日本の人はちょっと違う気がします。「航空券が高い」「ホテルが高い」「レストランも高い」などなど、海外(このような言い方もそろそろやめた方がいいと思いますが)にはいけない、というコメントが多数あります。実際とても高いです。インバウンドのおかげで航空会社も儲かっているようですが、旅行しようとする人は先細りです。

政府やお金に困らない人たちは平気でしょうが、もう少し国益のことも考えて、日本の人がもう少し国外に出やすいように、特に若い人が外に出やすいような支援をお願いしたいと思っています。このまま行けば、日本は高齢化社会、少子化、外国人労働者などの課題に対応できないくらい、内向きな閉鎖的な社会にますますなっていくでしょう。「可愛い子には旅させよ (Spare the rod and spoil the child)」とはよく言ったものです。COVID-19後の世界は変わっているにもかかわらず、日本がそれに追随できない状況は危機感をもって対応すべきでしょう。

日本はアジアの一国として再度COVID-19に同様に対応するのでしょうか?


コロナ経て すべてが変わる 胡蝶蘭






2025年5月17日土曜日

Pastime / 余暇 2025年5月16日(金) &17日(土)

最近「余暇(pastime)」という言葉をあまり聞くことがないような気がする。余暇は字の如く「余った暇な時間」という意味です。レジャー(leisure)ともいうのかもしれません。Cambridge Dictionaryではpastimeを

次のように説明されています。

an activity that is done for enjoyment:

Do-it-yourself is the nation's most popular pastime.

Suing people, especially doctors, is becoming a national pastime (= common activity) in America.

印象としてはあまりよくない意味で使われるのかもしれませんが、一時期(特にバブルの頃かもしれません)よく使われていたような気がします。仕事に追われ、仕事ばかりしている人に、余暇を作り、余暇を有効に過ごすことが大事に言われていた時代がありました。今でも余暇やレジャーは私たちの生活にはなくてはならないことです。私は参加しませんが、余暇関連の活動があるのはいいですね。

私の印象では、レジャーは何かスポーツや山登りなど何かある対象がしっかりしていて、日常とは離れている時に使うことで、余暇は本当に何もすることがない時間と考えています。私は余暇の方が好きな言葉ですが、特に意識したことはありませんが、基本的に楽しい時間です。本を読む、絵を描く、人と雑談する、などは、私の余暇です。

しかし、退職した今は、定職がないので、年金で生活しているので、制限はされますが、ほぼ余暇を過ごしているわけです。ひょっとすると人生の余暇かもしれません。レジャーというレジャーはほぼありません。ただただ淡々と好きなことをして毎日過ごしています。好きな事、やりたい事をして過ごすのは余暇とは違うと思いますが、私にとっては、50年近く学校という場でずっと教育という仕事に従事してきたので、その仕事の余暇は楽しいです。

余暇もいいですが、英語のpastimeは一番好きな表現です。英語では同様の言い方でhobbyも使われます。しかし、ちょっと違いますね。pastimeはただ「時間を過ごす」ということですから、何もしなくてもいい時間であればよいので、それもpastimeです。何かワクワクするような時間や行動は、たぶんpastimeとは言わないでしょう。私は言わないです。現在はあまりそのようなことはありません。

逆な場合で、悩むことがある場合はpastimeとは言いません。何もすることがなくても嫌なことがあり悩むこともあります。多くは健康問題です。年齢が進んでいくとちょっと前ならば、数日すると回復しますが今は誤魔化しながら生きていくしかないです。身体の故障は、それといっしょに生きていくしかないというマインドセットの問題となります。

コロナ以来、私の最大のpastimeは散歩です。2020年に新型コロナ感染症のパンデミックが始まり、人と接触することが制限されて以来、散歩が極端に多くなりました。おかげで少し痩せたときもありましたが、結局それほど痩せることも健康になることもなく、ただただ歩くようになりました。1日1万歩は歩き、最も熱心に歩いた時期は2万歩以上歩きました。現在はほどほどですが歩くようにしています。走ることはやめました。

無理はしない、ということです。散歩のポイントは自然を見ることです。空や雲や川や草や花や鳥や動物や虫や土や水などを「見る」ことです。研究は観察(observation)から始まります。観察は気づきです。たとえば、桜は毎年違います。木も年をとります。枝は朽ちます。花の咲き方も違います。その他すべてそうです。このような観察が、私の一番のpastimeかもしれません。


小満や てんとう虫も 我とあり 





2025年5月15日木曜日

Homicide / 人を殺すこと 2025年5月15日(木)

人を殺すこと(homicide)は、本来的に、私たちの多くは「よくないこと」と考えています。これはアプリオリなことと思っていましたが、よく考えてみると、そうでもない可能性があると思い始めました。コミュニティが崩壊し、人づきあいも希薄になり、ソーシャルメディアによるコミュニケーションが主となり、現実とは異なる社会ができ、生身の生活がなくなってきてしまうと、いまままで当然と思われていた人間性が変わり始めているかもしれません。

それはいまに始まったことではないのでしょうが、顕著になっているような気がします。Violent Video Games Effects on Teensという記事によると、暴力的なビデオゲームが若い人たちに何らかの影響があるのではないかということを議論していますが、その関係性については明かな証拠はないとしていますが、次のような若い人の精神的な傾向があると述べています。

  • Loss off interest in favorite pastimes
  • Excessive sleeping or other sleep disorders
  • Sudden decline in academic performance
  • Social isolation
  • Sudden weight change
  • Self-harming behaviors
  • Mood swings
  • Aggressive or violent behaviors
  • Getting in trouble at school
  • Bullying others
  • Detachment
  • Lack of empathy or compassion toward others
  • Substance abuse

これは、反社会性パーソナリティ障害 (antisocial personality disorder)と関連するとしています。その障害の特徴は、
  • Lack of empathy
  • Cruelty to animals
  • A disregard for right and wrong
  • Persistent lying for the purpose of exploiting others
  • Hostility
  • Irritability
  • Exhibits no remorse for wrongdoing or harming others
  • Trouble with the law, reckless or irresponsible behaviors
  • Problems with relationships
  • Impulsiveness
  • Aggression
  • Violent acts

原因はよくわかりませんが、報道などからすると、若い人だけではなくこのような傾向のある人が多くなっているような気がします。

さて、ニュース報道によれば、15歳の少年が84歳のおばあさんを意味もなく殺害したそうです。理由は少年院に入りたかったから、だそうです。人を殺すことに罪悪感もなくなるということは、動物以下ということです。動物は生きるために殺生をすることはふつうですが、特に意味もなくそういう無駄な労力はしません。しかし、人間は、さまざまに人殺しをします。直接ではなく、間接的にします。それも大量に。罪悪感はないのです。15歳の少年も、為政者も、結局同じ精神構造なのでしょう。ひょっとすると誰でもそのような傾向はもともと持っているのかもしれません。


かたばみは 何も言わずに そっと咲く