6 Journaling Techniques That Will Change Your Life
続けることはむずかしい(hard to keep on) です。この日記は毎日何かのテーマで綴ることを目標に続けてきました。何かを発信するという目的ではなく、自分自身の思考の整理と記録を、1年間ルーティン化してみる実験です。しかし、絶対にという使命感はありません。「阿留辺畿夜宇和」を基本に「生きた」記録をすることです。それは、自分自身のふりかえりでもあり、現象学です。公開した趣旨は、そのことにより独りよがりにならないようにリフレクシヴィティ(reflexivity)を担保しようと意図しました。さらに、英語やYouTubeにこだわったのは、CLILという学習とのつながりを意識しました。しかし、毎日することは、退職した身で時間的には余裕があると考えていましたが、やはり厳しいものがありました。
一つ勉強したことは、何もしなければ、Google検索などにひっかからないということです。「バズる」というのはそう簡単なことではないということを認識しました。この日記のタイトルも当初は「生きた」などとし、Lived experienceなども使ったり、名前を入れたりしましたが、検索にはかかりませんでした。何か仕組みがあるのだろうと思いつつ、面倒なので何もしませんでした。何もしないと何も起こらないということです。「世の中は何かの意図で動く」ということでしょう。メディアというのは自然なものではなく、何かの意図が介入しているんだと認識しました。言い方を換えると、インターネットやソーシャルメディアは、アルゴリズム(algorism)が機能しているので、それを知っているか知らないかは大きく影響するようです。
What Is Intentionality? - Philosophy Beyond
意図は、志向性(intentionality)とも関連します。もちろん、この日記もある意図(志向性)があって書かれています。Husserlは、現象学においては志向性が重要で、「意識はつねに何ものかについての意識である(consciousness is always a consciousness of something)」と述べて、何かの対象(noema)を理解するには、それに向かう意識(noesis)との関係性を指摘しています。私が記述している日記はnoemaであり、それを意識している私の思考はnoesisであり、その志向性によりこの日記は成立しています。さらに、記録として残されるこの日記の記録は、インターネットという世界でどうなるかは、私がそれを意図的に拡散しようとすれば、ある現象が発展するのかもしれません。何もしなければ、それはそれなのでしょう。
続けるという意図は、私個人の決定です。しかし、さまざまな事情により毎日はできません。今回もそうです。それでも1年は続けようとする意図があり、続けています。動機の一つは、明恵上人の『夢記』です。しかし、明確な意図は当初はありませんでした。が、次第にはっきりしてきたのは、オートエスノグラフィ(autoethnography)という質的研究手法の体験と学習です。現象学をどのように研究手法として理解し、自分の研究に落とし込むかということを考えていました。今でもまだ模索中ですが、このような記述を積み重ねることで探究ができ、何らかの成果を出せるのではないかという気が少ししてきました。
というのは、私がかかわってきた英語教育の研究では、科学的と言われる仮説検証型の研究がいつの間にか主流となっていて、仮説を設定して、データを収集し、統計処理をして、検証するという自然科学的な手法でないと、研究として認めない風潮が強かったと思います。単に実践をまとめたものや自分の考えだけをまとめたものは、よほど先行研究が豊富でない限りほぼ無視されてきました。つまりある形でしか認められない傾向があり、そうでないものは雑文であり、作文でしかなかったと思います。しかし、日本の教育の伝統では、教育実践に関する報告書は相当に残されています。戦前から戦後にかけては、そのような提案や経験にもとづく案や実践報告はたくさんありました。英語教育であれば、夏目漱石も然り、岡倉由三郎も然りです。重要な視点がたくさんありました。英語教育史の研究がそれを物語っていますが、1980年代頃から第二言語習得などの作法が主流をなし、科学的アプローチが求められてきました。しかし、欧米ではそれだけではなく、質的研究や多様なアプローチがなされ、近年、英語教育においても質的アプローチは注目されてきています(と私は認識しています)。
そのような背景と、この日記は関連します。このbloggerというインターネットを利用した理由は、大学で勤めていた頃から利用していたからです。私が当時授業や研究会などで利用していたブログがほぼ残っていて、廃棄されていないので、いつまで使えるのかわかりませんが、まだあります。一応データとしては保存される可能性があるので、自分で自分のコンピュータに保存するよりはよいと考えました。検索エンジンに検知されないということはゴミとなるのでしょう。それでもかまわないが、私が生きているうちは残されそうです。
結論:継続するということはむずかしいのですが、継続するという意思は大切だと思うわけです。永久に継続することは不可能だと思いますが、継続しようとする意図(志向性)はあってよいと思います。その意味で、この日記は、私にとっては大きな意味があり、現象学を追求する意味で価値があった実践です。あと数日ですが、こうしてダラダラと書くという活動には意味がありました。明恵上人の『夢記』とはなりませんが、私自身の「阿留辺畿夜宇和」は追求できています。
ハスの花 あるべきようわ 日記綴る
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