2024年12月20日金曜日

阿留辺畿夜宇和とソーシャルメディア / the way it should be 2024年12月20日(金)

原田雪溪老師の言葉です。

さて、いろいろな意味で情報が過多だと思い、なかなか整理ができない時代だと感じます。昔から考えてみれば、自由だし、多くの情報にアクセスするのは容易になり、物も溢れ、ゴミの山ができ、捨てることの方が難しくなりました。新聞も、ラジオも、テレビも、少しずつその役目を終えて、いつの間に、インターネット、ソーシャルメディアなど、個人が発信し、「バズる」ということが頻繁に起こり、それがビジネスになり、さらには、それを利用し、社会を変えてしまうことが容易になりました。情報が溢れているようで、いつの間にかその情報に左右され、洗脳されてしまうという恐ろしい時代になりました。

時代はまったく違いますが、明恵上人の時代を思い出します。明恵は坐禅をよくしていたそうです。高山寺近くの楞伽山の二股に分かれた松の木に座る絵図は有名です。「その場所はどこですか?」と寺の人に尋ねると、「裏山です。行くのはむずかしいです」との返答だった。明恵は社会に真摯に向かい、悩んだ人だと思います。おそらく自分自身に「阿留辺畿夜宇和」を何度も何度も問いを投げかけていたのだと思います。

私自身は、情報過多の時代にあっても流されないようにといつも心がけています。が、それはとてもむずかしいです。というわけで、この日記を綴っています。一つのポリシーは、「思ったことは発言する」ということです。しかし、それに固執しない。気づいたら修正します。いい加減な人間と思われても、その場その場で自分に正直に生きることにしています。

若い人は、マスメディアには触れないそうです。ソーシャルメディアが主たる情報源であり、コミュニケーションの場らしいです。印象としては短絡的で情動的な感じがします。若い人だけではないかもしれません。多くの世代で頑なな傾向があるかもしれません。多くの人が平和な社会を求めているのは当然ですが、政治や社会の決まりが優先し平和の立ち位置が違えばルールもあってなしが如しで、民主主義は機能しなくなりつつあります。ルールを知っている人がルールをうまく使い、ルールを知らない人はまったく関与できずストレスが溜まります。阿留辺畿夜宇和も恣意的になってしまい、独りよがりに陥る可能性があります。

70年ほど生きてふりかえってみると、それなりでした。それでも阿留辺畿夜宇和は常に拠り所としています。しかし、これからの時代は厳しいなと感じます。特に自分がかかわってきた教育は課題山積です。改革をすればするほどドツボにはまっていきます。つまり、情報過多になり、頭の中で構成された理念を学びの場に場当たり的に取り入れようとして、自由な発想を育てるはずの教育は、子どもにとってはかえって窮屈になり、社会も同様な現象に染まっていきます。阿留辺畿夜宇和とはならず、いつの間にか誰かに操作されるレールの上を走っているようになり、レールから外れる人も多くなり、また、違うレールに乗ろうとします。結局、阿留辺畿夜宇和と自問することはできなくなってしまいます。

なぜか歳を取れば取るほど息苦しくなるのです。


明日を見て 生きていきたい 年の瀬に




 

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