2025年6月22日日曜日

The way it should be in summer / 阿留辺畿夜宇和 夏  2025年6月22日(日)

この日記は、阿留辺畿夜宇和をテーマとして昨年の8月に思い立ち始めました。1年間、日々の「生きた経験(lived experience)」(「生きられた経験」と訳されていますが、私はこのように使っています)を、思いついた内容を思いついたままに記述しようと考えたのです。毎日はやはり厳しかったので、ときどきはスキップしましたが、なんとか続けてきました。一人で日記帳に書くよりは、こうしてブログという形で記録するほうがやりやすいし、誰かが目に触れて読んでくれることもあるほうが、よい思考ができると思ったからです。また、ダラダラと書くことで自分の思考の乱れや間違いや勘違いも、それはそれとして記録するという気楽なやり方が、何か生み出すかどうかも実験したいと思ったからです。

阿留辺畿夜宇和は明恵上人の言葉です。明恵上人は『夢記』を残しました。私は全部は読んでいませんが、夢を記述し続けたということや、自分の考えに忠実に生きたその姿勢は見習うところがあり、興味があり、高山寺にも行きました。自分に正直な人だと思います。なんとなく惹かれます。華厳宗に帰依して、一生を終えた人です。親鸞や日蓮のように自分の宗派を作ろうとはしないで、ただただ自分を生きた人だと私は思いました。その生き方が好きです。

あかあかや あかあかあかや あかあかや 

あかあかあかや あかあかや月

明恵上人の有名な和歌です。遊びです。自由に遊ぶ。明恵の阿留辺畿夜宇和をよく表していると思っています。

さて、私の阿留辺畿夜宇和はなんだろうといつも考えます。この日記でもいつも探しています。ある話題を決めて、自分の考えを整理します。この思考の整理の中で、私が心がけるのは、reflexivityです。自分自身の思考の偏りや論理が適切かどうかを確認するようにします。その一つは、いわゆるcritical thinkingです。哲学では、弁証法(dialectic)などと論理的思考の方法論につながるのかもしれません。この点については以前にも書いたと思いますが、私の阿留辺畿夜宇和は、このプロセスを大切にしていることです。結果はそれほど重要ではなく、ある思考の現象のプロセスを絶えずふりかえりながら、また思考します。

具体的にこの時点での私の阿留辺畿夜宇和は、ただ毎日を生きることです。「生きる」ということの意味は「息をしている」ということだけではありません。私の場合は、「考える」「読む」「書く」「聞く」「見る」「話す」「歩く」などなど、日常を過ごすことです。明日はもうないと考えながら、「今日を生きる」「発見する」「学ぶ」などです。歩くことは発見の連続で毎日自然に学びます。空は毎日違います。川の水も草も花のも鳥も毎日違います。こころも毎日違います。そのすべてが私の阿留辺畿夜宇和だと思っています。長い夏が始まります。


飲み過ぎた 翌朝の窓 夏が来た





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